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五大老筆頭 徳川家康  作者: 牛熊


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10.関ヶ原の戦い -1

 会津征伐軍が混乱に陥っている頃、大阪近辺では同じように混乱に陥っていた。


 どれくらい酷い状況かと言えば、挙兵の主犯や西軍が結成されるまでの経緯が不明な程である。


 主犯として怪しまれているのは石田三成、宇喜多秀家、毛利輝元、三奉行といった面々ではあるが色々と不備が目立っている。




 石田三成が主犯とされることは多いが、西軍の総大将は毛利輝元であり、その輝元に大阪城への入城を要請した奉行衆の書状には三成の署名が無く、上杉家と通じていたという話の割には家康の挟撃に失敗している。


 また、三成自身は武断派からの突き上げで失脚した身であり、家康の排除を訴えたとしても正当性に欠け、この状況で家康の排除に消極的な輝元などが協力するとは考えにくい。


 関ヶ原の戦いにおいても、旗下の兵数は約7000人ほどと全体から見て一部でしかなく、立場的にも一軍の将として参戦したという話に留まっている。


 事を起こす直前に謀議の噂が広まり、副官となる大谷吉継には反対され準備万端というにはほど遠く、明智光秀のように思いついたからとりあえずやってみたと言い出しかねない状況からは主犯とは言い難いところがある。

 


 三成にとって最大の問題は、この状況で家康を排除したところで輝元が後釜に座るのが見えており、豊臣政権からすれば状況が何も改善されず、動機という面で合理性に欠けていることである。


 加えて、実質的に豊臣政権から離脱した上杉家が東北・関東を抑え、豊臣家以上の大領を抱える未来が見えており、状況は改善どころか大幅に悪化することになる。


 三成は豊臣政権への忠誠という面では行動が一貫しており、このような騒動を主体的に起こすのは不自然であった。




 宇喜多秀家は輝元よりも動きが早く、事件が起きるよりも先に軍を大阪へと動かしている。


 また、西軍最大規模となる1.8万人近い軍勢を関ヶ原の戦いに投入するなど、やる気の面では主犯に相応しく、家康に面子を潰されたことから動機も十分にある。


 一方で、宇喜多家は5月にまた騒動を起こして歴代の重臣を失っており、この時点では家中や軍は立て直しの真っ最中のはずで、数は揃えられたとしてもまともに戦えるのかは非常に怪しい。


 騒動から数ヶ月しか経っておらず、家康が大阪城を離れるのが決まってから約1ヶ月ほどしか準備期間がないことを考えれば、こんなことを考えている暇があるなら家中の立て直しを優先すべきであり、主犯であるなら本当に勢いだけで挙兵を決めたことになってしまう。




 最後の毛利輝元は会津征伐への軍勢に親豊臣派の安国寺恵瓊をつけており、また輝元の元に奉行衆から書状が届くよりも早く軍を転進させるなど怪しい動きが目立つ。


 一方で、恵瓊と対立している吉川広家も軍勢に参加させるなど方針が不透明で、事実この采配が後に毛利家の足を引っ張ることになってしまう。


 軍を転進させたのは輝元の命令ではなく三成たちの関与ではと疑う武将も存在しており、輝元ではなく恵瓊が計画に参加していたという可能性も考えられ、それであれば輝元は恵瓊らの計画に便乗した可能性が出てくる。



 輝元は元々家康との対立を明確に避けており、領地の引き継ぎ問題で三成に引っ掻き回された際にも、家康に要望通りになるよう手配して貰うなど、どちらかと言えば三成ではなく家康寄りの立場にあった。


 ただ、当の輝元は奉行衆からの書状を受け取るや否や、わずか数日で大軍を連れて大阪城に到着し、入城後は積極的に活動するなどやる気は十分にあった模様である。


 状況的には輝元本人が主犯と言うより、親家康派と反家康派を天秤にかけて、利益の大きそうな反家康派に乗ったように見える。




 このように怪しい動きはところどころに見られるが、全員が結託して動いたと考えるのも難しく、他者の動きに便乗した者が一定数いると考えた方が現実的に思える。


 しかし、そんな混乱の渦中にある大阪において、一際怪しい動きを見せている人物がいた。


 五奉行の増田長盛である。



 長盛は7月12日に三成・吉継の謀議を家康へと密告しているが、当の本人は同日中に長束正家と前田玄以の連名で輝元に大阪入りを要請している。


 家康へと知らせている内容も輝元の話を含めず、あくまでも三成たちが怪しい動きをしているというだけで留めており、意図的に情報を操作するなど中立で消極的といった評価からは程遠い。



 輝元への書状には長盛・正家・玄以の署名があるが、正家は職務放棄で帰国、玄以は病気にかかっていて半隠居という状況のため、この両名が積極的に挙兵を計画したというのは考えにくい。


 また、西軍が結成された後の城攻めには参加しているにも関わらず、関ヶ原の戦い自体には参加せず大阪城で政務についている。



 他の奉行衆がいなくなった結果、長盛は実質的に豊臣政権の政務を一手に担っており、家康がいなくなれば宰相の座に最も近い人間であった。


 秀吉の死後において長盛は常に家康から付かず離れずの立場を維持しており、浅野長政に次いで親家康派の奉行衆でありながら、狙われたり失脚することもなく今に至っている。


 長盛の行動は終始一貫していないように見えるが、三成や輝元を旗頭として利用し、計画が失敗しても自分は助かるように手配していたのであれば、これまでの行為にも意味が出てくる。


 過去には上杉家との外交窓口を努めたこともあり、西軍に加担した長宗我部家とは仲が良いなど、怪しさと政治的な手腕で言えば並ぶ者がいない。





 このように誰が主犯なのかも分からない状況において、一番被害を被っているのが会津征伐に向かっていた西日本の大名たちであった。


 小早川秀秋を始めとする大名たちは会津へと向かう途中、大阪近辺で足止めされて西軍に無理矢理組み込まれてしまう。


 ただ、本人たちからすれば家康の元で戦う予定だったのに、急に家康を倒すと言われても困るのが当然の反応である。



 こういった面々は西軍の中核をなす大名たちとは異なり、反家康派と呼べるほど家康に対して悪い感情を持っていなかった。


 結局、こういった面は関ヶ原の戦いにおいて東軍へと寝返ることになるが、土壇場で裏切ったというよりは東軍に合流する時期を見計らっていただけと言うのが相応しい。



 また、大阪城に滞在していた大名たち全てが西軍に積極的に協力したわけではない。


 異変を察知して即座に人質を連れて脱出する者もおり、中には西軍につきたくないと領地を全て豊臣家に返却して高野山に駆け込む大名などもいた。


 五大老や五奉行のほとんどが参加している割に、西軍側は諸大名からさほど歓迎されていたわけでもなかったのである。

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