9.会津征伐 -3
慶長5年1月。
年始の挨拶で大阪城が混雑する中、上杉家の名代として藤田信吉が到着する。
信吉は関東の有力大名の間を渡り歩いてきた経歴の持ち主であり、他家からは上杉家における外交窓口として期待されていた。
家康も信吉に刀などを贈って機嫌を取りつつ、去年からの動きについて弁明させるため、上杉景勝の上洛を促している。
この時点では徳川家と上杉家の対立はまだ決定的ではない。
家康側も「最近悪い噂を聞くけど大丈夫だよな?」と、あくまでも穏便に話をまとめようとしていた。
同年2月。
かねてから軍備拡張を続けていた上杉家だが、神指城の築城など領内の工事規模を拡大し始める。
神指城自体は河川交通を意識したものであり、上杉家の家臣団に見合うだけの経済地域を確保することが目的とされていた。
しかし、先日からの戦支度もあって、これを見た堀家や最上家などは「上杉家に叛意有り」と家康に訴え始める。
元々上杉家は会津に移動する際、堀家のものとなるはずの年貢を奪って持ち出した経緯があるため、堀家からたびたび訴えを起こされていて仲が最悪だった。
最上家も上杉家が自領を明らかに狙っていることから、東北における反上杉家の中核として動いており、軍備拡張を見逃すわけにはいかなかった。
上杉家の会津入りは徳川家を牽制するという意味合いもあったが、周囲に敵が多かったことから、上杉家は逆に包囲網を敷かれているような状況に追い込まれ始める。
上杉家はこれらの訴えを無視するが、上杉家の重臣である直江兼続は露骨に反家康の姿勢を見せ、信吉が景勝を諌めつつ家康に対して弁明する姿を見て内通を疑い始める。
他の上杉家臣たちも兼続に同調する動きを見せるようになり、最終的に信吉は身の危険を察して上杉家を出奔。
同じく両家の関係修復に務めていた栗田国時に至っては、一族諸共殺害されるという事件が起きてしまった。
同年3月下旬。
上杉家を出奔した信吉はそのまま大阪城へと逃げ込み、上杉家の内情について報告を上げた。
これを受けて豊臣政権内では上杉家の叛意は最早疑い無しとの判断に至るが、家康はまだ足掻こうとしていた。
「軍備拡張からの上洛拒否、そして交渉窓口を襲撃するとか、あいつらは北条家から何も学んでおらんのか!元忠、使者を送る準備をしろ!」
「上杉家征伐を告げる使者ですか?」
「...いや、まだ早い!まず問責状を送り、その後に正式な使者を出立させろ」
「問責状の内容はどうされるおつもりですか?ご自身で書かれますか?」
「書状の作成は上杉家と交流のある高僧に頼め。誓詞を交わせば無罪とすること、そして訴えられている以上は弁明が必要だから上洛を促すよう記せ。上杉家の忠誠心はワシも理解しているし、以前揉めた前田家も許されているんだから、上杉家も謝れば無罪だって強調しておけ!」
「かしこまりました。とはいえ、さっさと征伐を決めた方が良いかと思いますが」
「上杉家を会津に入れたのは関東・東北の安定のためだぞ。その上杉家を相手に戦をするのは本末転倒だろ!」
家康は4月に入ると問責状と共に、再度上杉家へ使者を送る。
この時点ではまだ家康や奉行衆は戦を回避しようと粘り強く交渉しており、むしろ上杉家の周辺大名や武断派の大名たちが上杉家の征伐を促していた。
上杉家の周辺大名たちからすれば、このまま上杉家を放置するわけにもいかないが、単独で敵対するには上杉家との力の差がありすぎた。
武断派の面々からすれば、唐入りで傾いた財政を立て直すために功績を上げる絶好の機会であり、会津120万石ともなれば加増も十分に期待できた。
それぞれの事情はあるにせよ、上杉家の排除を後押しする勢力はかなりの数に上っていたのである。
一方で上杉家の規模を考えれば、東北征伐や小田原征伐と同規模の軍を動かす必要がある。
豊臣政権の関係者からすれば、先日加賀征伐を回避できたばかりだというのに、今度は上杉家かと頭を抱える状況に追い込まれてしまう。
しかも、東北征伐以後の日本ではまともな戦が長く行われておらず、久々の戦が関東・東北全土を巻き込む一大事になるとは誰も予想していなかった。
遂に大老同士の大戦が始まってしまうのか否か。
全ては上杉家の出方次第となった。
豊臣政権の関係者は一同祈るように使者を送り出した。
そして上杉家に到着した使者を待っていたのは件の兼続であり、上杉家は大老の座を辞任するという言葉と共に先の問責状への回答、いわゆる直江状が渡されたのだった。




