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五大老筆頭 徳川家康  作者: 牛熊


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9.会津征伐 -2

 慶長4年11月に入り、上杉家は領内の戦支度を本格的に開始する。


 11月下旬には周辺の大名たちもこの状況を察知し、上杉家に動きありとの報告を豊臣政権へ送る。



 領内での戦支度という意味では石田三成も行っていたが、大領を抱える上杉家となれば話は別である。


 政敵である徳川家への牽制だけではなく、東北の大名たちを攻める可能性も十分にあり、関東・東北では軍事的な緊張が高まり始めた。




 報告を受け取った家康は早速本多正信らと協議を始めていた。


「正信。上杉家は具体的にどこまで動いているのだ?」


「報告では浪人となっている武将たちの雇用や砦の改修、各地の道路整備などが記されています。戦支度と言って間違いありませんが、これだけだと今すぐどうこう言うのは難しそうですね」


「まあ、武門の人間が戦に備えて何が悪いと言われればそれまでだからな。他の内容に関しても領内の整備の面もあるし、そもそも止めろという権限もワシらには無い」


 2人は諦めたように溜息をつく。



 上杉家の動きが問題なのは事実だが、かといってこういった行為を全て止めさせるのは難しい。


 結局のところ大名は武力があるからこそまともに話ができるのであって、力の差が大きければ正論をいくら言ったところで潰されて終わる。



 従って一定水準の軍を維持することや、領内で戦に備えることは大名として当然の仕事であると認められていた。


 このあたりの制度の甘さが豊臣政権における地方問題に繋がっており、後の時代では騒動や反乱を防止するため、惣無事令を超えて戦支度に関連する行為が厳しく制限されることとなる。




「元忠、上方で上杉家に合わせて動いている家はあるか?」


「今のところは見当たりません。宇喜多家の騒動も上杉家の動きを誤魔化すためのものかと思いましたが、特に連絡を取り合っている様子はありません。ただ、あくまでも現状ではという範囲です。事前に取り決めがあった可能性は否定できません」


「もし狙って大阪城で問題を起こしているのであれば最悪だな。宇喜多家が突如大阪城に進軍し、包囲されている間に上杉家が上洛しようものなら止められんぞ。そう考えると長引かせるわけにもいかん。調停はどうなっている?」


「全く進展がありません。秀家様は自らの手で処罰すると言って話を聞きませんし、兵を引かせる様子もありません。対陣している側もこのままなら全員処罰されるだけと分かっていますので、秀家様側が譲歩しない限りは引けないでしょう」


「どうしようもないな...。手伝わせている康政はもう伏見の在番期間がとうに過ぎている。このまま上方に残っていると国元での政務が滞るな。上杉家が動き始めている今、関東の方で隙を見せるわけにはいかん」


「では調停を切り上げ、帰国するよう申し伝えます」


「頼む。まあ、大谷吉継殿がいるから大丈夫だろう。正信、関東・東北の大名に対して、上杉家にまた動きがあれば報告するよう伝えろ」


「かしこまりました」



 宇喜多騒動の仲介役についていた榊原康政は任期の関係から途中で離脱し、吉継が専任であたることになる。


 流石に大阪城下でいつまで軍を展開するとは誰も考えておらず、調停も長引かないと思われていた。


 しかし、大方の予想を裏切って睨み合いは長期化。


 吉継も調停は失敗と判断して役目を降りることになり、驚くことに宇喜多家は年が明けるまで対陣し続けることになる。



 それどころか慶長5年1月5日には、武将派の者たちが官僚派の中村次郎兵衛を襲撃するという事件を引き起こす。


 次郎兵衛はたまたま所用で出掛けていて助かるが、この行為に怒った秀家が関係者を捕まえて屋敷で勝手に磔刑に処す。


 事ここに至っては宇喜多家に任せた解決は不可能と判断され、家康本人が直接乗り出すこととなる。




「事件を起こした武将派の主犯たちは配流、または蟄居を申し付ける!秀家殿も軍を引き上げること!従わないなら両者共に叩き潰すぞ。まだやりたいなら大阪でやるな自領でやれ!」


 怒り狂った家康が宇喜多家に突撃したことで、ようやく事態は解決へと向かった。


 これまで煮え湯を飲ませられてきた家臣を処分する機会としていた秀家も、家康の必死の剣幕を見て冷静になって大人しく引き上げる。




 家康が無理矢理にでも話をまとめたのにも理由がある。


 12月下旬には上杉家の軍備拡張の報告がたびたび届いていたが、よりによって戦上手で知られる武将たちを大量に採用しているという内容であった。


 どう見ても平時の備えで済む話ではなく、上杉家は明らかに戦を起こすつもりであると豊臣政権関係者は認識し始める。


 そして、このような情勢で大阪城下に宇喜多家の軍勢を展開させているわけにはいかず、強引にでも調停を実現させる必要に迫られたのだった。


 宇喜多家としても、お前は上杉家と繋がっているのかと疑われるのは避けたいところであり、軍を引き上げるという判断に落ち着くこととなる。




 しかし、秀家本人は対立派閥の粛清を全く諦めていなかった。


 同年5月には再度秀家と家臣団が衝突し、家臣の多くが宇喜多家を離れることになる。


 1月と5月の事件により、宇喜多家は家臣団の約半数を失うことになるのだった。




 宇喜多家を離れたのは歴代の重臣を中心とした面々であり、穴埋めとして上方の浪人たちを雇い入れることになるが、戦力の大幅な低下は避けられなかった。


 加えて大阪城下で大迷惑をかけたことで政権内における宇喜多家の面目も潰れ、秀家としても家中の粛清を邪魔されたことで反家康へと傾くことになる。


 そして、家中や軍組織を立て直している最中に、宇喜多家は関ヶ原の戦いへと突入することになるのだった。

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