9.会津征伐 -1
慶長4年11月。
家康が権力を掌握したことで、豊臣政権はようやくまとまりを見せ始めていた。
島津家が内乱を続けている点に目をつぶれば大きな問題もなく、ようやく政治的な混乱も終わりが見えたと周囲の大名たちも安堵する。
しかし、権力から排斥された上に元々の所領が小さい奉行衆とは異なり、他の3名の大老たちは未だ大領を抱えている。
家康は大老たちの帰国中に権力を奪っており、そういう意味では彼らにとって面白い話であるはずがなかった。
毛利家は既に家康に従う旨の誓詞を交わしていたこともあり、家中で親豊臣派が動いているものの大人しくしていた。
問題は残りの宇喜多家と上杉家である。
11月に入り、この両家がほぼ同時に問題を引き起こす。
潜在的な反徳川の筆頭である上杉家は、11月下旬頃から領内で武将や兵を募り、砦の改修といった戦支度を開始することになる。
文字通り徳川家との対決姿勢を見せることになり、秀忠が率いる江戸の徳川軍との緊張が高まる。
一方、宇喜多家では家臣団の対立が限界を迎え、11月上旬には遂に双派閥が軍を動かし始める。
そして宇喜多家の面々はなぜか家康が滞在する大阪城の城下町に突入し、大名の屋敷街において対陣するという迷惑行為に及ぶのだった。
「宇喜多家が城下で兵を動かしているだと?」
大阪城で政務についていた家康にとって、先日の石田三成襲撃事件を思い出させるような知らせが飛び込んでくる。
「まさか目的は大阪城か!?」
家康は知らせを持ってきた鳥居元忠に尋ねる。
もし宇喜多家が自分や秀頼を討たんとしているのであれば、すぐにでも籠城の準備を整える必要があった。
「いえ、詳細は調査中ですが、どうも家中での争いが理由のようです。今回の主犯たちと秀家様の対立が深刻になり、追いかけられるようにして大阪の宇喜多家の屋敷に立てこもった模様。そこに秀家様が追いかけて来たようです」
「わざわざ大阪まで来てやるな!そういうのは地元でやってろ!」
完全に巻き込まれただけと分かり、家康は机を殴りつける。
ただでさえ大阪は兵に対して神経質になっているというのに、よりによって大老が揉め事を起こすなど、豊臣家や京の公家たちから何を言われるか分かったものではない。
「絶対に戦わせるな!両陣営にはきつく申し付けろ。何かあればまとめて叩き潰すと言っても構わん!」
「かしこまりました。ただ、立てこもった者たちもかなりの数です。打って出る可能性は低そうですが、いざとなれば城下で乱戦になる恐れもあります」
「数はどのくらいだ?」
「話に聞く限りだと200から300名ほど。雑兵混じりでしょうが、宇喜多家臣の約2割近くに届きます」
「大騒動じゃないか!本当にあいつら何をやってるんだ!蒲生家の騒動を忘れたのか?」
「家中での対立も深刻だったようですので、秀家様もこれを機にまとめて邪魔者を排除するつもりかと思われます」
「だからそういうのは地元でやれと言っておけ!」
家康の悲鳴が大阪城に響き渡る。
かくして、大老の一角である宇喜多家が傾く切っ掛けとなる宇喜多騒動が始まった。
宇喜多家の家臣団は2つの派閥に分かれている。
先代の宇喜多直家の時代から付き従ってきた武将や日蓮宗徒を中核とした武将派。
そして、秀家に引き立てられた武将や切支丹を中核とした官僚派である。
元々宇喜多家は地方有力者の連合体に近い形態を取っており、直家の時代から付き合いのある武将たちは宇喜多家に対してある意味同格であるかのように接していた。
そのため、秀家の時代に入ってからの検地や官僚による管理に対して拒否感を抱いており、長船綱直を中心とした官僚派の排除を求めて秀家と衝突を繰り返す。
またこの対立には宗教的な対立も入り込んでいる。
秀家は正室の病気回復を日蓮宗の僧侶に祈祷させたことがあるが、効果が全くなかったことから日蓮宗徒に対して改宗を迫る。
官僚派に切支丹が居たことから、家臣や民衆の多くが切支丹へと転向した。
しかし、改宗に対して従わない者も存在しており、それらの者たちが武将派と結びついて家中が二分にされるという状況に及んでしまう。
綱直の死後は中村次郎兵衛などが官僚派をまとめるが、武将派の面々が世代交代をしても対立は継続し、遂に公然と官僚派の暗殺計画が立てられる。
この状況を危険と判断した治郎兵衛は宇喜多家を出奔、怒った秀家が武将派をこれを機に排除しようと画策。
武将派は秀家の動きを察知し領地を脱出して大阪へと逃亡、それを追いかけた秀家が軍を連れて大阪城下に突入したというのが事の経緯だった。
豊臣家の戦に付き合わされて宇喜多家の財政が傾いていたというのも理由の1つではあるが、宇喜多家の血族同士でも意見が分かれていたことから、ここまでの大騒動へと発展してしまった。
家康は何もしなかったわけではないが、秀家は家康を無視して大阪城下で武将派と睨み合いを続ける。
家康も兵を集めるしか無いかと諦め始めた時、家康に助け舟を出したのが大谷吉継だった。
大谷吉継。
秀吉に小姓として取り立てられ、その後は功績を上げ続けて豊臣家中でも重用される。
秀吉から100万の軍勢を預けて戦わせてみたいと言われるほど軍事能力は高かったが、内政面でも優秀であり、石田三成と同じ様に各地で様々な仕事をこなしている。
後に三成と共に挙兵することとなるが、その直前までは家康寄りと言えるくらいには親しくしていた。
諸大名からも一目を置かれていた吉継が病気の身を押して調停役に名乗り出たことで、ようやく問題解決の糸口が見え始める。
また、宇喜多家臣の縁戚が側室であるという理由から、徳川家からも榊原康政も派遣された。
この2人であれば何とか状況を変えられるのではないかと期待が集まる。
そこに降って湧いたのが上杉家が戦支度を始めているという知らせだった。




