8.徳川家康私婚事件 -7
慶長4年10月。
大阪城へと入った家康は暗殺計画の関係者を処罰し始める。
また同時に大老前田利長を処罰するため、加賀征伐の実施を公表した。
豊臣家臣の土方雄久と大野治長は流罪として大阪城を追われる。
ただし、両名は翌年7月に罪を許されており、関ヶ原の戦いの際には東軍に参陣。
治長は家康の命令に従って、豊臣家への敵意無しという書簡を持ち大坂城への使者を務め、そのまま大阪城に留まることとなる。
細川忠興は徳川家に従うという起請文と共に、息子を人質に出すことを承諾し無罪放免。
細川家はその後も徳川家に従っており、父親の細川幽斎は関ヶ原の戦いの前哨戦となる田辺城での戦いにおいて、時間を稼ぐと共に家康の正当性を示すことに貢献する。
前田利長は当初家臣団の要請もあって徹底抗戦の意思を示すが、並行して徳川家と交渉を進める。
家臣団は派閥同士が争ってまとまりがなかったが、加賀征伐を発表した後にいつまで経っても軍を動かさない家康を見て、抗戦を主張していた派閥も息を潜め始める。
家康も本気で前田家を滅ぼす気はなく、あくまでも従わせることが目的だったため、そのあたりの機微を両者共に察しあった可能性が高い。
結局、利長の大老の地位剥奪と、母を人質に出すことであっさりと交渉がまとまって話は終結した。
浅野長政も奉行職を解かれて領地へ蟄居。
これで正式な役職の面でも四大老三奉行となる。
前田家との交渉の最中に長束正家も領地への帰国届を出し、これまでの対立が嘘だったかのように家康の権力掌握が実現することとなった。
家康への権力一本化が円滑に実行されたのは、他の大老や有力大名たちが帰国している時期を狙ったというのも大きな要因である。
上杉家や毛利家が残っていれば異議申し立てが行われ、上手くいかなかった可能性が高い。
そういう意味では家康の今回の行動を支えたのは、秀忠という信頼のおける後継者の存在と優秀な官僚制度であり、江戸と大阪の両面で同時に行動できたおかげとも言える。
他家はそのあたりが弱く、有力大名であっても家臣団で争っていたり、上杉に至っては後継者が不在という始末。
ただ、これに関しては実現できている徳川家が珍しい方で、この規模で上手く機能したのは秀吉と秀次くらいだった。
年初の家康の私婚事件を発端に、豊臣政権は1年足らずで政権中枢が崩壊した。
11月頃には五大老・五奉行による合議制も完全に消滅。
ただし、家康は権力を掌握することに成功したが、一方で大きな代償を支払うことになる。
「いかん、忙しすぎて死ぬ...」
大阪城へ入った後、家康は連日仕事に追われていた。
既に体はボロボロだが泣き言を言いながらも手は止めない。
手を止めたところで代わりに仕事をしてくれる人間がいないのだ。
戦国時代とは言え、大名などからの申請や裁判への対応といった公的な業務は多く存在する。
そして奉行衆がいなくなったということは、これまで奉行衆が担っていた仕事を全て徳川家が中心となって対応することを意味した。
特に、大量の仕事をこなしてきた石田三成と長束正家が外れたことで、そのしわ寄せは家康と家臣団の長時間労働という形で訪れる。
また、取次役として活躍していた何人かの武将たちも高齢のため死去しており、秀次事件で後進が根こそぎ消滅したこともあって、豊臣政権は深刻な人材不足へと陥っている。
生前の秀吉も誰よりも多くの仕事を処理しており、官僚機構が未熟なままで天下を取るということは事務仕事に忙殺されることと等しかった。
「この仕事量は流石に不味いですよ...」
一緒に仕事をしていた榊原康政も、これ以上は耐えられないといった様相を呈している。
徳川家自体が内政や取次といった事務的な仕事が苦手というのもあるが、特に諸大名間の調整といった外交的な職務をこなせる人材はごく一部しか存在しなかった。
その徳川家が全国の大名を相手にすることそのものが無理な話だったが、それでもこの時期の徳川家は上方の有力者たちの協力を得つつ何とか仕事をこなしていた。
「どう考えても人が足りんな...。江戸の方は内政の組織が育ってきているが、外交的な面では人材育成が間に合っておらん」
「こんな規模の組織を運営したこととかありませんからね。我々は所詮関東の田舎者ですし...」
「北条がまともに外交できなかった理由もなんとなく分かるわ」
「島津家とかまだ内乱を続けてますけど、あのあたりの地理や関係者とかさっぱり分かりません。こんな状況で調停役を務めるとか無理です」
「各地方に1人くらいは取次役を置かねば。このままだとワシらが死ぬ」
「他家に話を聞こうにも窓口役すら知りませんからね」
「人付き合いって大事だな...」
「公家や名家の人たちが重宝される理由がよく分かりました...」
「とはいえ、奉行衆の代わりになる人材を補填できればこの状況も乗り切れる。優秀な人材を見い出せれば、秀頼様への権力譲渡まで凌げるはずだ」
「そうですね。そうであって欲しいですね...」
2人はか細い声で頑張ろうと互いを励まし合う。
この時、家康が豊臣政権の権力を握ってからまだ1ヶ月程度。
関ヶ原の戦いまで残り1年を切っていた。




