6.豊臣政権の崩壊 -11
年が明けた慶長3年1月2日。
家康は京都岩清水八幡宮へ初詣に出掛け、必死に祈りを捧げていた。
「東北と会津の問題が無事解決しますように。東北と会津の問題が無事解決しますように。東北と会津の問題が無事解決しますように。東北と会津の問題が無事解決しますように。東北と会津の問題が無事解決しますように...」
この時の家康が抱える大きな問題は2つ。
東北における浅利家と秋田家の騒動、そして会津の蒲生家の騒動である。
東北の方は浅利頼平が1月中に上洛し、豊臣政権の関係者相手に弁明する予定となっている。
これが無事終われば何らかの決着が期待できたが、浅利家はこの段階でも全く妥協する気配を見せず、最悪の場合には一戦交える可能性が依然として残っていた。
会津の方は蒲生家が相変わらず家中で争っており、家康には当主である蒲生秀行から助けを求める連絡がたびたび届いていた。
秀行には家康の娘が嫁いでいることに加え、家康は蒲生家に問題が起きた当初に豊臣秀次と共に解決に当たった経緯があるため、いい加減この問題を解決しないと不味い状況にあった。
逆に言えば、東北と会津の問題が片付けば東日本の安定は大きく前進することになる。
そして、秀吉の体調不良が悪化する今、政権の安定を一刻も早く実現する必要があった。
「今年こそ、今年こそこれらの問題を終わらせられるよう、何卒ご利益を....。問題が解決した時には社の修繕と保護を約束します。せめて東北で一戦交えるのだけは勘弁して頂きたい。伊達の馬鹿がまた一揆を煽るのが目に見えている上、周囲の大名たちも勝手に戦を始めそうな者ばかり。再度の東北征伐にでもなろうものなら手に余ります...」
家康の必死の祈りが通じたのか、東北と会津の問題はこの初詣からわずか1週間で解決することになる。
ただし、それは必ずしも家康が望んだ形ではなかった。
初詣から数日後、家康は屋敷で仕事をしていた。
正月早々ではあるが、浅利家の弁明の準備や根回しの手配を怠るまいと気合を入れ、何としても東北の問題を片付けようと意気込んでいたのである。
そんな家康の元に、元忠が駆け込んでくる。
「殿、一大事にございます!正月早々に蒲生家の家老筆頭である蒲生郷安が、当主蒲生秀行様の小姓である綿利良秋を上意討ちの名目で殺害したとの知らせが入りました!」
「......何と言った?」
「蒲生家の家臣たちの争いが遂に限界を超えました。蒲生郷安が以前から対立していた綿利良秋を誘き寄せて殺害。これを受けて他の家臣らが郷安を排除すべく軍勢を集め、蒲生家は開戦秒読みの状況とのことです」
「...この知らせは伏見城の方にも行っているのか?」
「もちろんです」
「.........終わった。完全に終わった。蒲生家は減封確実、最悪取り潰しだな...」
そう言って家康は机に突っ伏し、そのまま微動だにしなくなる。
今回の件で蒲生家は間違いなく何らかの処分を受ける。
問題解決に失敗したという点では家康も責められるだろう。
ただ、家康にとってそれ以上に辛いのが、秀吉と対立してでも蒲生家を守ろうとした豊臣秀次の努力が無駄になったことである。
ある意味で秀次の形見でもあった蒲生家が、自らの家中の争いでその領地を失うことになるとは報われないにも程があった。
「馬鹿どものせいで秀次殿の努力が無駄になるなら、どうしてあの時に暴れなかったのか...。何のために秀次殿は...」
「...殿、恐らく蒲生家の関係者は豊臣政権によって取り調べを受けるでしょう。また、減封ともなれば抱えきれなくなった家臣の多くは手放さざるを得ません。これらの対応について奉行衆と話をしておくべきです」
「...そうだな。すまんが手配を頼む」
「かしこまりました」
1月7日。
蒲生家の代表として郷安が上方に召還され、秀吉から蒲生家に対して処罰が下された。
当主である秀行は家中の統率が取れなかったことを理由に、会津若松92万石から下野宇都宮12万石に大幅な減封。
郷安に関しては微罪であるとして加藤清正が預かることとなり、郷安と対立していた者たちにも処罰は無く、秀行だけが重い処罰を受ける形となった。
秀吉からすれば当初の計画通りではあるため、最優先であった会津に別の大名を入れることだけを目的とした処罰とも言える。
とはいえ、減封に伴って蒲生家の家臣団は多くが解体され、他家に仕えるか浪人になるしかなかった。
この時に蒲生家の家臣を最も多く受け入れたのが三成であり、領地の加増も無いのに受け入れてくれた三成に対する恩義から、蒲生家の家臣団は後の関ヶ原で三成に従って参戦する。
また蒲生家はこの後もたびたび家中で争いを起こしており、楔もまともに打てない家だと揶揄されるようになる。
1月8日。
蒲生家の対応で死にそうになっていた家康の元に、元忠が飛び込んで来る。
「殿、一大事にございます!上洛していた浅利頼平が大阪城内で急死したとの知らせが入りました!」
「..................何と言った?」
「東北での騒動について弁明する予定だった頼平が死去しました。弁明する者が居なくなったことで、奉行衆も過去に下した裁定を適用せざるを得ない状況です」
「...まさか秋田家が暗殺したのか!?」
「現場は大阪城内のため、流石にその可能性は小さいかと」
「しかし、病死にしてもあまりにも時期が良すぎるだろ。というか、当主が居なくなったとなると浅利家はどうなるんだ?」
「子供はまだ小さいと聞いておりますので、他の大名の預かりになるのではないでしょうか」
「つまり領地を追い出されることになると。何と言えばいいのか...」
「秋田家が比内を治めることになれば、東北での揉め事は解消された形となります。言いたいことはあるかと思いますが、まずは良しとすべきかと」
「納得いかんな...」
元忠の言い分は最もであるが、今回の頼平の上洛に際しては家康は三成と根回しに走り回っており、話がまとまった時には思わず互いに手を取り合ったほどである。
頼平の弁明の場は、ある意味で家康と三成の苦労が報われる場であったため、それが突如として霧散したというのは中々に耐え難い話である。
あの時の苦労を思い出すと、このなんとも言えない結末に家康は渋い顔をせざるを得なかった。
結局東北での争いに関しては、頼平の急死によって豊臣政権の裁定に反対する者がいなくなり、なし崩し的に秋田家の言い分が通る形で幕を閉じた。
また、頼平の子供は佐竹家が預かることとなり、比内の浅利家は瓦解し、領地は秋田家が引き継ぐことになった。
かくして、豊臣政権を騒がせていた2つの問題は解消された。
家康や三成を始めとする関係者からすれば、長年振り回された結果がこれかという話ではあるが、かといって怒りの矛先に困る状況のため何もできない。
ただ、結果だけを見れば豊臣政権内の致命的な対立は回避され、東北と会津の安定というかねてからの懸念事項が解消されたことは悪い話ではなかった。
しかし、後日会津に入る大名が決まった際には徳川家中に緊張が走ることになる。
蒲生家に代わって会津に入ったのは上杉景勝を当主とする上杉家。
上杉家は元々関東を狙っていたため、北条の領地を引き継いで関東を治めている徳川家を目の敵にしていた。
また、上杉家は徳川家よりも先に豊臣政権に臣従していたにも関わらず、徳川家が自分たちよりも秀吉から信任を得ていることが不服であり、まさしく政治的な対立が避けられない相手であった。
会津120万石に加増されたことで上杉家も勢力を伸ばしており、家康は東北と会津の問題を解消した代わりに、領地の近くに明確な敵対大名が誕生するというより直接的な問題を抱えることとなる。
なお余談ではあるが、家康は後年に京都岩清水八幡宮の検地を免除し保護に務めたが、社の修繕は行わなかった。




