6.豊臣政権の崩壊 -9
石田三成。
骨格が細く色白で鼻筋の通った美形で、若くして豊臣政権の中核を担う奉行衆を任されるという豊臣政権の出世頭の象徴でもある。
秀吉の小姓として仕え始めるが、真面目かつ面倒事をいとわない性格と実務能力の高さ、そして秀吉に対する忠誠の高さから出世を果たし、豊臣政権の奉行衆として政権運営を担う。
人材不足の豊臣政権において、戦国時代では貴重だった優秀な文官であることも重用される理由となっており、立案能力だけではなく行動力もあったことから、秀吉からの信任も厚く無理難題を振られる苦労人でもあった。
とはいえ、あくまでも三成は奉行衆の中では3番手程度であり、突出して強権を振るえるような立場には無く、他の奉行衆たちとの協議の上で施策を決めていた。
また、三成は内務畑の人間と見られることも多いが、それは奉行衆になってからの話である。
戦場を知らないため武将たちから嫌われていたという話もあるが、槍働きや軍を指揮した経験もあったため、そのような理由で嫌われていたわけではない。
生真面目さから融通が利かないところがあったことに加え、奉行衆の中で行政・折衝を主に担っていたことから、朝鮮出兵での監視役を任される等の貧乏くじを引いて、怒りの矛先になることが多かったことが主な理由である。
豊臣秀長のように諸大名と信頼関係を構築できていれば、秀吉の方針に振り回されたとしてもここまで酷いことにはならなかった可能性もあるが、残念ながら三成の性格と豊臣政権の時間的な猶予の無さからそれは実現しなかった。
なお、鷹狩が好き過ぎて鷹の体格などに関する数値をまとめたり、秘蔵の鷹について熱く語ったりしており、健康目的ではあるものの鷹狩が好きだった家康とは共通の趣味を持っていた。
そんな三成だが、地方の治安維持や復興を任されることも多く、九州征伐では博多の復興を始めとする戦後の立て直しで走り回っていた経歴を持つ。
そして、三成を今悩ませているのが未だ安定しない東北であり、その東北において再度揉め事の火花が散り始めていた。
慶長2年9月。
東北の出羽の秋田実季と、その傘下である比内の浅利頼平の争いが再燃。
秋田家は親の代から織田・豊臣と関係を築いていたことから、豊臣による東北征伐の後に出羽の代表としての地位を確立し、浅利家は秋田家の傘下として扱われることが決められた。
東北ではよくある話だが、秋田家と浅利家は親の代から争っている仲であったため、この決定に対して頼平が納得せず、実季への従属と軍役を拒否。
独立を目指して豊臣政権関係者や諸大名への嘆願書を送り続けたことで、これに怒った実季も武力を行使して比内を荒らすなど争いが続いていた。
結果的には文禄5年に豊臣政権から前田利家が調停に入り、頼平の蟄居と軍役の提供が命じられた。
ところが、頼平はそれでも命令に従わず迷惑な嘆願書を送り続け、実季との小競り合いも増え続けたことで一触即発の状況へと発展。
これ以上は放置できないということで、豊臣政権並びに奉行衆は対応を迫られ、まずは関係者や有力大名から意見を聞くところから始めることとなる。
そして、その宛先には家康も含まれていた。
家康は部屋で仕事をしていたが、正信が奉行衆からの書状を持ってきたことで筆を止めた。
「殿、奉行衆から比内の件について、意見収集のお願いが届いております。どう答えますか?」
「独立は流石に無理だろ。傘下ではなく、せいぜい協力者くらいの立ち位置が限界だな」
「ただ、奉行衆からすればあくまでも出羽の代表は秋田家であり、浅利家はその下について貰わないと指揮系統が混乱すると考えています。ここで独立に近い処置を認めるとなると、今度は他の地域で似たようなことを言い出す輩が出てくるでしょう」
「いざという時に地方の豪族が命令に従わず、話がまとまらないのを奉行衆が嫌がっているのは分かる。実際、九州も似たような問題を抱えてたからな」
「ということは、当初の裁定通りに進めるという回答ですか?」
「いや、秋田家も浅利家の領地を荒らして火を放ったりと、統治者としての振る舞いとしては最低だから擁護できん。遺恨を全て水に流せとは言わんが、従わせたいならそれ相応の振る舞いをすべきだろう。そもそも、実季殿の父が頼平殿の父を宴席に呼び出して暗殺したのが事の発端なんだから、もう少し配慮したらどうか」
「まあ、何と言うか無難ですね。面白くもない普通の意見です」
「独立ありきで妥協点を探ろうともしない頼平殿もどうかと思うがな。引くべきところは引かないと全てを失うことになるぞ。真田を見習え」
「あそこの綱渡りの上手さは大したものですよね。浅利家と似たような立場だったのに、いつの間にか独立して地域の代表としての立場を得てますし」
「あんなのばっかりだったらワシの胃が持たないけどな」
「とりあえず今の内容で返信しておきます。まあ、この件はこれで終わりでしょう」
しかし、この家康の一般的とも言える回答に対して過剰な反応を示した者がいた。
渦中の浅利頼平である。
頼平はこれまで大量の嘆願書を有力者に送り続けていたが、無視されるか逆にたしなめられるかのどちらかだった。
そこに降って湧いたのが家康という豊臣政権でも最上位の有力者の擁護であり、これに対して頼平は全力で便乗してきた。
家康は浅利家寄りと呼べる程でもなかったが、頼平が家康を盾に騒ぎ回ったことで話が大きくなってしまう。
あの家康が浅利家に付くのであればと浅利家を擁護する者も現れ、家康当人が預かり知らないところで事態は加速し始める。
気がつけば秋田家側には奉行衆の長束正家が付き、浅利家には家康と前田利家が付く形となっており、いつの間にか地方の小競り合いが奉行衆と有力大名の争いへと発展していた。




