6.豊臣政権の崩壊 -6
秀次切腹からほぼ1年が経った文禄5年5月8日。
徳川家康は内大臣への出世を果たし、本多正信と鳥居元忠から祝われていた。
「良く出来た息子のお陰で得た地位の座り心地はどうですか?」
「殴るぞ正信」
「しかし、この昇官は秀忠様が秀吉様の養女である江様とご結婚される前祝い。殿は特に何もしておりませんよね」
「...まあな」
「今後は江戸の内府と呼べばよろしいですか?海道一の弓取りといい、また名前が増えますな!」
「武家の人間が内大臣になるとか結構大事なんだから、もう少し素直に祝えよ!」
「殿。豊臣と縁戚になるのはよろしいですが、早速徳川に近づこうとする輩が出始めております。これらの対応はいかが致しますか?」
「元忠。そういう奴らは名前を控えておいて、適当にあしらっておけ。特に大名ともなれば御掟の考え方に反することになる。危ない橋を渡る必要はない」
「かしこまりました。話を聞かない輩は切り捨てておきます」
「私闘も禁止されてるからほどほどにな...」
家康たちが酒を飲んでいると廊下から足音が聞こえ、そのまま1人の男性が部屋に入って挨拶をする。
「遅くなりました」
「おう秀忠。先に始めてるぞ」
徳川秀忠。
家康の息子の1人で、後に家康の後継者となる。
若い頃の家康によく似た容姿をしているが、性格は実直で真面目とあまり似ていなかった。
家康不在の際には関東の統治を任されており、加えて秀次切腹の際には不在にしていた家康に代わって起請文に署名するなど、実質的な後継者として周囲からは認識されていた。
「内大臣へ昇官おめでとうございます」
「うむ。お前も江殿と結婚とは誠にめでたい。江殿は秀吉殿側室の茶々殿の妹。徳川と豊臣の架け橋になるよう期待しておるぞ」
「承知しております。徳川は豊臣の縁戚となりますし、秀頼様がご成長された際には準一門として支えていく所存にございます。ところで急で申し訳ございませんが、此度の結婚に際してお願いしたいことがあります」
「珍しいな。何でも言っていいぞ。結婚祝いの代わりだ」
「江戸城を下さい」
「...城が欲しい?しかもワシの本拠地である江戸城を?」
「はい。最近の父上は江戸よりも伏見に滞在する方が長くなっております。関東の差配は実質的に私の担当となっておりますが、この度江殿を迎え入れるにあたり、それなりの住居を整える必要があります。そこで、江戸城本丸に私が住みたいと考えております」
「...お前が本丸に住むとなると、ワシはどこに住めばいいの?」
「西之丸を新しく整備しますのでそちらに住んで下さい」
「............隠居老人のような扱いだな。まあいい、代わりに江殿は丁重に扱えよ」
「もちろんです」
視界の端では正信が、不承不承ながら家康が承諾するのを肴に美味そうに酒を飲んでいるのが映るが、家康は無視しそのまま秀忠と話を続ける。
「秀吉殿も一時は病の噂があったが最近は落ち着いている。唐入りも終わらせる方向で話を進めており、講和となれば国内の仕事が本格化するだろう。江殿の相手もあるだろうから、今の間に準備しておくように」
「はい。実際のところ、講和の方はどのような調子なのでしょうか」
「正直なところ、日本も明も適当なことを言う人間が多すぎていまいち状況が分からん。使者が長期間留め置かれたり、明側の議論がいつまで経っても終わらなかったりと不明なことばかりだ。ただ、次に明の使者が来れば多少条件が悪くとも飲む可能性が高い」
「なるほど。そうなれば江戸の開拓はより重要性を増すことになりますね」
「そういうことだ。恐らくワシは伏見にいる時間が今よりも長くなるだろう。江戸にはそう簡単に顔を出せなくなるから心しておくように」
「帰国対応となれば父上も九州の名護屋城に赴くですか?」
「唐入り組はかなり悲惨な状況らしいし、八つ当たりされそうだから行きたくないな...」
「来年の8月には秀吉様が手掛ける方広寺の大仏殿が完成する予定ですし、行く前に手を合わせてきたらどうですか。徳川も富士山麓の巨木を納めておりますし、それなりにご利益はあるかと」
「そうするか...。長い時間かけて作ったしな。まあ、まずは明からの使者が来てくれるよう祈るところからだな」
年が明けた文禄5年6月15日。家康の祈りが通じたのか、国内での議論が長引いていた明が遂に講和条件を定め、正式な使者を日本へと派遣する。
日本からの朝貢は拒否するが、代わりに秀吉を日本国王として正式に認めるとなっており、日本側からすれば飲めなくもない条件が提示されたことになる。
そして使者と秀吉の会見は8月を予定しており、これで唐入りは決着となるはずだった。
しかし、同年7月13日に山城国伏見付近にて慶長伏見大地震が発生。
豊臣政権の象徴である伏見城と方広寺の大仏殿が崩壊した。
地震の範囲は広く京都・大阪・堺・兵庫で家屋の倒壊や、神社仏閣の損壊が相次ぎ、死者も1000名を超える大きな被害を与えた。
秀吉と秀頼はたまたま伏見城を不在にしており助かったが、伏見城内だけで死者600名を超えるとされており、運が悪ければ豊臣政権はこの地震で潰えていた。




