4. 小田原征伐 -4
天正18年2月1日。豊臣の先陣が出発。
それに合わせて、豊臣秀次を筆頭に豊臣傘下の大名が出陣を始める。
家康も3万の兵を連れ、25日に前線拠点である長久保城へ着陣。
長久保城は北条の山中城と目と鼻の先であり、各大名もここに集結することになる。
3月1日。秀吉が後陽成天皇から北条討伐を名目とした任命の印である節刀を賜り、大軍を率いて出発。
3月28日。秀吉が長久保城に到着。家康と共に北条の防衛拠点を視察。
明けて3月29日。遂に秀吉は北条の防衛の要である山中城を攻め始める。
また、北条氏規が守将を務める韮山城は織田信雄が担当し、山中城と並行して攻略を開始した。
そして4月4日、秀吉と家康の目の前には小田原城を包囲する豊臣軍の姿が広がっていた。
「家康殿、流石に北条が弱すぎんか?」
「秀吉殿。正直私もそう思います。兵を小田原に集めているにしても、もう少し抵抗があってもよいかと...」
「北条が改修を重ねていた山中城は、配備されていた兵数が少なすぎて防衛が機能せず。1日どころか数時間で落ちたとは、冗談にしても過ぎる」
「兵数の少なさに気がついた秀次殿が力攻めをしたおかげですが、それなら最初から城を捨てた方が良かったように思えます」
「配備されていたのは4000程だったか?あの規模の城を守るには少なすぎるし、それなら改修せずに小規模なままに留めておいた方がまだ守れたじゃろ」
「ですね。小田原ではなく、山中城に主力を集めた方が良かったのでは。ただ、攻略が順調にいったのは、秀吉殿が事前調査に力を入れた結果なのは間違いありません」
「大要塞が泣いておるわ。あんなに気合い入れたワシが馬鹿のようではないか。韮山城はこちらの攻撃を撃退しているというのに」
「開城交渉も断って徹底抗戦と、氏規殿は念願叶って生き生きとしてそうですね」
「話を聞く限りはそう簡単に落ちそうにないしのう。非開戦派が戦で一番活躍するとか、一体どういうことなのか。韮山城は包囲だけに留め、時間をおいてから開城を迫ることにしよう」
あっさりと小田原城まで辿り着いたことで計画に影響が出ているため、秀吉と家康は茶を飲みながら今後の進め方について議論を進める。
「秀吉殿。周囲を偵察した者の報告によりますと、参陣が間に合わなかった北条兵がいるようです。攻撃して追い払いますか?」
「いや、包囲を開けて通してやろう」
「小田原への入城を認めると?」
「兵が増えれば食料の消費も増える。それに、こちらの陣容を見た兵が中に入れば、嫌でも城内はその話になる。毒が広がるようにじわじわと北条の威勢を削るじゃろ」
「兵による攻撃は行わないのですか?」
「ワシは力攻めは好かん。怪我をした兵や力のない女・老人でも、その気になれば防衛戦力になる。槍や弓を扱えずとも、煮立った粥を兵に投げつけるだけでも十分。飢えながらでも草木を食べて抗おうとする兵に至っては、相手にすればどれだけの被害が出ることか」
「確かに」
「しかし、健全な兵であっても、心が折れれば武器を持てなくなる。兵糧攻めや水攻めの本質は心を攻めることにある。わざわざ大軍を並べ、大量の物資を運ばせているのは差を見せつけるため。力ではなく、威をもって攻める。これがワシの戦の仕方よ」
「...なるほど。圧力を加え、じわじわと相手を追い詰めていくわけですね。勉強になります」
「耐えられなくなれば暴発する兵も出てくる。それを叩けば更に相手は苦しくなる。そうなれば勝ちは決まったも同然」
「かしこまりました。それでは北条兵にはよくよくと陣中を眺めさせた上で城に通します」
「よろしく頼む。石垣山にも城を築くので、こちらは人員の手配を進めておく。手の空いている者は他の城を攻めさせよう。他の領地を失えば、嫌でも城内の雰囲気は悪くなろう」
そして小田原城の包囲戦が始まるが、抵抗らしい抵抗もなく時間だけが過ぎていく。
豊臣も無理に攻めるようなことはしなかったため、連日茶会を開いたり、箱根に温泉旅行に出かけたりとほぼ観光旅行の様相となる。
別の領地を攻めるよう命じられた兵も、北条がまともな守備兵を配置していなかったことで次々と拠点を陥落させていく。
いくかの城では粘り強く抵抗していたが、広大な北条の領土は凄まじい速度で失われていった。
そのため、全体で見れば北条は小田原に籠城しているというより、小田原に閉じ込められているようなものだった。
そして5月9日。北条と同盟を結んでいた伊達が豊臣側へ参陣。
これより北条の援軍はいなくなり、5月下旬から開城の交渉が始まる。
交渉に長い時間をかけ、あれだけ抗戦の意志を見せていた北条だが、本軍での抵抗もないまま2ヶ月程で降伏へと傾いていった。




