3. 北条の取次 -3
天正16年4月。北条が聚楽第行幸への参加を断ったことに対し、怒り狂った徳川が書状を叩きつける。
流石にお前らいい加減にしろと言わんばかりの内容で、戦になれば徳川は北条ではなく豊臣に付くと明確に伝えた形となった。
同年5月。家康は北条氏政と氏直に対し、しかるべき人物を上洛させるよう追加の書状を送る。
今までのやり取りとは変わり、徳川から明確な圧力がかかり始める展開となる。今まで交渉そのものを拒否してきた北条もこれを受けて動き始める。
そして同年8月。遂に北条氏規が名代として上洛する。
北条氏規は氏政の弟であり、北条の外交を担っていた人物のため、上洛に際しての人選としては最善ではないが文句はつけられない程度ではあった。
氏規自体も物腰が低く、礼節を持って振る舞うことができる誠実な人間であったため、豊臣方と会わせても問題ないと考えられていた。
そのため、ようやく北条から上洛の決定を引き出し、まともに話ができる人間を連れてきたことで家康の面目も立った。
かに思われた。
上洛に際し、家康と氏規が打ち合わせをしていたが、ここに来て問題が発覚した。
「氏規殿、官位はお持ちでしたか...?」
「...自称じゃ駄目ですよね?」
「駄目ですね...」
「官位無しだとどうなりますか?」
「席順は官位順ですので末席に...。服装も...」
「...やはり無理をしてでも官位を貰っておくべきでした」
秀吉と謁見するのは聚楽第であり、大名以外にも公家が出入りすることから、正装は公家としての衣冠や束帯を身につけることが求められる。
列席する者は官位持ちばかりのため、本来はこういった条件でも問題にならない。
しかし、北条は官位に忌避感を持っていたこともあり、氏規は官位無しのため武士の装束で参加することになる。
かくして、北条で数少ない穏健派の人物が他大名たちの前で恥をかく形となり、調整役の徳川の顔も潰れることとなった。
流石にこれは不味いと豊臣側も考え、謝罪と共に改めて会見の場を設けることで何とか場を収めたが、この混乱により関係者一同の胃が痛めつけられたのは言うまでも無い。
秀吉との会見後、家康と氏規は疲労困憊ではあったが互いを労っていた。
「氏規殿、この度は大変ご迷惑をおかけしました...」
「それはこちらが申し上げるべきことです。家康殿の顔を潰すようなことをして申し訳ない」
「いえ、氏規殿があの場で耐え忍んで頂いたことで、北条に対する諸大名からの評価も変わりました。氏規殿も外交の窓口として信頼できると豊臣の者も話しておりましたので、今後は話を進めやすくなるでしょう」
「そうであれば何よりです」
「会見の際、12月には氏政殿が上洛する予定と伝えられていましたが、こちらは確定なのでしょうか?」
「...正直なところ、家中では意見がまとまっておりません。いい加減上洛させる方向で進んでおりますが、当の本人が拒否しておりまして...」
「氏政殿が駄目であれば、氏直殿でもよいのですが」
「そちらの話もしたのですが、それはそれで反対する者が多く」
「しかし、このままではなし崩し的に開戦となります」
「おっしゃる通りです。結局のところ、北条が豊臣を嫌っていることと、豊臣を信頼できないことが根本的な問題となります。また、決断できていないのは事実ですが、そもそも戦えなければこうはいきません。軍備増強という手段が残されているだけに、決断を先送りにしようとする雰囲気が家中に蔓延しているのです」
「話は分かりますが、豊臣の総勢は北条を遥かに超えますぞ。小田原に籠城するとしても、それ以外の領地は全て失うことになります」
「恐らく開戦派は一度豊臣と戦をし、北条の立場を強化するなり、武門としての面子を立てるなりしてから降伏したいのだと思います。小田原であれば時間を稼ぎ、一度豊臣を撤退させるくらいには粘れると考えているのでしょう」
「それは間違いです。秀吉殿の軍の強さは兵站の強さにあります。九州でも20万もの大軍を維持していました。この兵站の強さがあれば、小田原を年単位で包囲することも可能です」
「それほどですか...。家中でそこまで想定している者はいないでしょう」
「ですから、なんとしても氏政殿を上洛させ、戦を回避しなければいけません。必要であればワシの方からも改めて書状を送ります」
「分かりました。改めて私からもその旨伝えておきます」
しかし家康の祈りも虚しく、氏政の12月上洛は履行されないまま年が明けることになる。
北条は小田原城で包囲されている際に方針をまとめられなかったことで有名だが、戦が始まる前から既にこの兆候は明らかとなっていた。




