↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Recall  作者: ツナ缶
PR
18/19

終章

はい、これにて長々と続いた物語も終章を迎えることになりました。いやぁ、長かったですね。だいたい文庫本で換算して五冊ぐらいはあったかもしれません。読んでいただいた方、お疲れ様です。また、本当にありがとうございます。

それでは終章、秋宮柊弥の最後の物語を、どうかよろしくお願いします。

終章


 

・『君』


 それはきっと、綺麗な思い出のはずだった。

 幸せを祈り、未来を願い、平穏を望んだ。劇的な変化などない、平凡な人生。その歯車の一つをただ望んでいただけだった。

 ずっと手に入れたくて、ずっと手を伸ばして。やっと届いた、数々の幸せの形。

 だから。だからこそ、悲しかった。その思い出が、穢されたことも。その思い出が、本当ならあまりにもありふれて、どこにでもあるということも。

 全部が、悲しかったのだろう。

 一度目は、自殺だった。

 未来に悲観し、絶望し、彼女は彼の言葉に耳を一切貸さず、翼も持たずに飛び降りた。飛び降りるその瞬間まで、彼は必死に呼びかけた。僕がいるから、僕が君を守るから。だから一緒に生きていこう、と。それでも、彼女は死を選んだ。綺麗な栗色の髪で、どこか幼さの残った笑顔を浮かべていた彼女は、涙を流しながら、アスファルトの上に爆ぜた。

 それが、一回目。

 二回目は、他殺だった。

 彼女と彼は結婚していた。幸せな家庭を築き、その生を謳歌していた。ある日の買い物帰り、彼女はある公園で倒れている男性を見つけた。急いで駆け寄り、介抱しようとした。そして、殺された。騙され、嬲られ、犯され。その上で、殺された。痛みと絶望に彩られた表情を残して、彼女は殺された。

 それが、二回目。

 三回目は、彼が彼女を殺した。

 始めは些細な喧嘩だった。それが、何を間違ったのか。愛は憎悪へと変化していった。殺す気なんてなかったと何度も何度も口にしながら、彼は彼女の血に塗れた包丁を投げ捨て、逃げた。

 それが、三回目。

 四回目は、また他殺。五回目、自殺。六回目、事故死。七回目―――――

 何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も。繰り返し繰り返し、彼女はその命を終えた。彼の贖罪のために、形を変え、姿を変え。同じ結末を何度も繰り返した。

 私はその茶番を、ずっと見ていた。

「この世界は、記憶で創られている」

 誰かの記憶が、思い出が一つでも増えていく度に、この世界の輪郭はより濃く、確かなものへと変わっていく。憶えている記憶も、忘れ去られた記憶も、すべてがこの世界に集まり、形創る。だからこそ、彼はその記憶を再生できる。いつか誰かが経験した悲劇を、自分なりのシナリオに書き換え、それを演じる。

 そんな茶番が、彼の贖罪だった。

 ……なんて、哀れなんだろう。これが罰なのか。これが、こんな茶番が贖罪なのか。

 悲しくて、悔しくて、苦しくて。見ているだけしかできない自分が、情けなかった。

 だから、嬉しかったんだ。もう数え切れないほどの繰り返しの中。ようやく、彼は望んでくれた。雪が降る公園。冷たくなったジャングルジムの上で、彼は彼女を抱き締めて。



 やり直したい。

 もう一度、琴美に会いたい。

 今度は絶対伝えてみせる。

 決して、叶わない願いだけど……。

 僕は、全力で、心の底から。

 願った。



 絶望に心を溺れさせず、初めて、その『先』を望んだ。理不尽な死を乗り越えて、未来を願った。決して叶うことのない祈りを、捧げた。

 届かぬ祈りを祈る。

 叶わぬ願いを願う。

 得られぬ望みを望む。

 それは、あまりにも滑稽で、不様な姿。

 でも、その姿こそが。ずっと、繰り返される悲劇を見ることしかできなかった私が待ち望んでいたもの。ずっと、あなたからの祈りを、願いを、望みを待っていた。

 叶えよう。

 そのために、私は生まれた。

 叶えたい。

 そのために、私はここにいる。

 あまりにも滑稽な茶番を終わらせるために。全てを記憶したこの世界から、あなたを解放するために。

 さぁ、始めよう。

 もう、こんな茶番は終わらせよう。



・刈谷優


「はい、お父さん」

「おお、ありがとう、沙紀」

 慣れた手つきでリンゴの皮を剥き、沙紀は琢己さんにそれを渡した。

「ほんとにそのまま齧るの? 切り分けなくていい?」

「いいから。おまえは優くんの分を切ってあげなさい」

「え?」

 親子の会話に入り込もうとせず、一人で先にリンゴの皮をむき始めていた僕は、急に僕の名前が聞こえてきて顔を上げる。僕の手に持っている物と、進めている作業を見て、沙紀が椅子から勢い良く立ち上がった。

「ってああ!? どうして先に切っちゃってるのよっ!」

「いや、つい、暇だったから……」

「剥いてあげるって言ったじゃない!」

「ああうん、最初は待ってようと思ったんだけど、手持ち無沙汰になっちゃって」

 待ってる間に剥いちゃえば、沙紀の手間も減るかなと思ってした行動なんだけど、どうやら沙紀はお気に召さなかったようだ。

「むー!!」

 子どもっぽく頬を膨らませて怒る沙紀を見て、琢己さんは声を上げて笑っていた。

 こうして、巧さんの病室に集まって話すようになって随分経つ。始めの頃は緊張してろくに話もできなかった。恋人の父親だし、それに……。

「優くん、どうしたんだい?」

 僕が何も言わずに俯いていると、琢己さんが声をかけてきた。

「え!? あ、いえなんでも……」

「……あのことはもう、気にしなくてもいいんだよ?」

 僕はまた何も言えずに、俯いてしまう。そんな僕を見て、琢己さんは軽く笑う。

「むしろ、今の僕は感謝してるんだ。君があそこで喝を入れてくれなかったら、僕はこうして娘と一緒にいられなかった」

 僕に、琢己さんは優しげな声色でそう言ってくれる。

「でも……」

 あの時の僕は怒りに任せて、言ってはいけないことまで言ってしまった気がする。

 突然死ぬか、ゆっくりと死に逝くか。どちらも、結末は一緒。違うのは、残された者の心情と、本人の心情。残される者には……僕の主観が混じってるけど、突然死なれるより、ゆっくりと死に向かってくれる方がずっといい。心構えができる余裕というのが、前者にはないからだ。

 けど、本人の心情は別だ。死を意識する前に死ぬっていうのは、ある意味幸せなのかもしれない。死に対する恐怖も感じずに、逝ける。それが良いことだとは決して思えないけど。それでもそういう死を望む人はいる。

 ゆっくり、ゆっくりと近づいてくる死に対して、その恐怖と戦って、残りの人生を生きていく。それは絶対に、辛いことなんだ。

 それなのに、あの時僕は何て言った……?

「けどやっぱり、僕は言ってはいけないことまで……」

「……確かに、間違ってることだったかもしれないね。でも、正解だったのかもしれない」

「どういうことですか?」

 間違っていて、正解。そんなこと、ありえるのだろうか。

「死生観なんて、人それぞれさ。それこそ今まで産まれて、死んでいった人の数あってもおかしくない。正解や不正解なんてないんだ。どれも正しくて、どれも間違ってる。決まった答えなんてないからこそ、何度も論争が起きてるし、人によっては戦争をする。妻とも、良く答えのない討論を繰り返したよ」

 口下手な僕は、彼女に一回も口で勝てたことはないけどね。と琢己さんは苦笑いしながら言う。

「僕にはね、あの時君が言ってくれたことが正しいと思ってる。少なくとも僕には君の言ったことは正しかった。だから、君が気に病むことなんて何もないんだよ」

 でも、と反論しようとして、言葉に詰まる。いくら正しいと思われても、それと僕の言った言葉は、きっと彼に何らかの選択を強要した。そんな気は拭えなくて。

「そうだよ」

 答えあぐねていると、隣に座る沙紀が僕の手を握って、口元に笑みを浮かべていた。

「優が言ってくれたことはあたしにとっても間違ってなかったよ。あたしのことをしっかりと、会って間もないのに、『強い』って断言してくれて。すっごく、嬉しかったんだから」

「……でも」

「『あたしたちには』、優の言ってくれたことが正しかった。それだけ、憶えてくれればそれでいいよ」

 わかった? と、沙紀は笑って聞いてくる。それは、本当に清々しい、心からの笑顔に見えて。僕はそれ以上反論なんてできなかった。思いつきもしないし、それでいいのかもしれない、そんな風にさえ思えてしまった。

 僕のした行動で、目の前の親子は、今もこうして笑い合えている。なら、それでいいのかもしれない。それだけで、いいのかもしれない。

『………………ん?』

 そう納得した辺りで、僕と琢己さんが同時に、今の会話での違和感に気づいた。

「ん? どうしたの、二人とも」

「あ、いや……」

 ちょ、ちょっと待って?

「あの、沙紀……?」

「ん?」

「その、さ……なんで知ってるの?」

「何が?」

「その、僕と琢己さんの会話というか、話してたこと」

「………………」

 顎に手を当てたり腕を組んだりした後。

「……あれほんとだ! あたしなんで知ってるの!?」

「ええ!? ここ沙紀が驚くところ!?」

「だっておかしいじゃない! なんであたしがお父さんと優が話してた内容知ってるのよ! 聞いたことないじゃない!!」

「だからこそっ、ここは僕か琢己さんが驚く場面だと思うんだけど!」

「う、うんそうだよね。あれ? ほんとなんで知ってるんだろ、あたし……」

「まぁ、家内も異様に鋭いところがあったしなぁ」

「あ、わかった。これが女の勘ってやつなんだね!」

「もしこれが女の勘だというなら、もはや一種の超能力のレベルだと思う……」

 僕と琢己さんが話していた喫茶店に、たまたま沙紀の知り合いがいて、それで会話の内容を教えていた。でもその事実を沙紀が忘れている。なんてそれらしい理由を考えてみて、ちょっと無理があるんじゃないかと自分でも思う。ああ、でも、沙紀は結構、本気で抜けてるところがあるから……あながち間違ってない気もしてきた。

「まぁいいじゃないか。別に聞かれて困る内容でもないし」

「いや琢己さんはもっと気にしましょうよ! それに困ってくださいよ! あなた娘のために色々と赤裸々に告白してた場面じゃないですか!!」

「過ぎたことは気にしない性質なんだよ。はっはっはっは」

「朗らか過ぎる……」

 元気なのは良いことだけど。こういう大雑把なところ、本当に沙紀と同じだ。嫌いじゃないけど、ちょっと疲れるというか。直樹といい沙紀といい孝志といい、僕の周りには大雑把な人間が多い。日に日に僕と君河さんの心労は増えていく一方だ。

 ……それもまぁ、ちゃんと笑っていられる、幸せな日々ではあるけど。

「でもでも、あの時の優かっこよかったなぁ……『沙紀は弱くなんてない! あんたが思ってるよりもずっと、ずっと強い!!』って宣言してくれたし……えへへ……」

「ずいぶん細かく知ってるんだね!? あと恥ずかしいから口にするのやめてくれる!?」

 めちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。何これ、口にしたことに後悔なんて微塵もしてないけど、単純に恥ずかしい。

「でも、ほんとに嬉しかったんだよ。お父さんの気持ちも、優の気持ちも」

「……そうか」

 琢己さんの気持ちは、決して、正しくはなかった。娘を想うが故に、遠ざける。けれど、それは沙紀にとっても何一つ正しくはなかった。相手を想う意志が、互いを遠ざけてしまっていた。

「あたしはもう、全部思い出したよ。お母さんのことも、あの事件のことも。そりゃもちろん、辛いし、悲しいけど。今は思い出してよかったなって、思うよ。悲しいこともあったけど、それでも。お母さんと過ごしてきた日々を忘れて、なかったことにしてしまうのは、もったいないよ。それが、大切な人であればある程」

 沙紀が掴んでいた手を、今度は僕も握り返す。それに応えるかのように、すぐに沙紀はその手をぎゅっと、優しく握る。

「誰かと過ごしてきた記憶を、忘れることは、悲しいよ」

 忘れられることの悲しみは、辛いし、苦しい。一緒に過ごしてきた日々も、時間も、忘れられることは悲しい。一度忘れられた身であるからこそ。今沙紀が言った言葉の重みがわかる。誰にだって、悲しいことや辛いこと、苦しいことはある。産まれてからずっと幸福に生きてきた人なんていない。必ず、心が軋んでしまうような何かを、誰もがその身に受けて生きている。

 それでも、忘れてはいけないんだ。記憶から無くしてはいけないんだ。だってそれが、自分に大切な何かがあったという証なんだから。

 物じゃない、形があるわけでもない。物体として存在しないそれはどこまでも不確かで、曖昧だけど。

 それでも、何よりも強く、立派な証なんだ。

「もう絶対忘れないよ。お母さんがどんな人だったか。どれだけあたしを想ってくれていたのか。お父さんのことだって、忘れないよ」

 沙紀はもう片方の空いた手を、琢己さんへと伸ばした。琢己さんもゆっくりと手を伸ばし、親子は手を繋ぐ。

 おそらく、僕よりもずっとたくさん繋がれてきた、親子の手。これから、もしかしたら、その回数を超えられる、超えてしまえるのかもしれない。

 それでも、それすら忘れないと、沙紀は真っ直ぐに口にする。

「絶対、忘れないから」

「……ああ」

 そう、力強く宣言した沙紀を見て、琢己さんは俯いた。

「強いなぁ……」

 どうして俯いたのかは、彼の震えた声が物語っている。

「僕たちの娘は、こんなにも強かったんだなぁ……」

 自分の愛娘のまっすぐな眼差しを受けて、涙を流す。どこにでもいる、娘想いの父親だった。

「……優くん」

 ゆっくりと顔を上げた琢己さんの頬には、まだうっすらと涙の跡が残っている。けれど、彼の顔は晴れやかだった。琢己さんはベットの傍の引き出しを開き、何かを取り出し、僕に差し出した。

「これを、沙紀に付けてやってくれないか?」

「これは……」

 手渡された蒼色の輝き。

 僕の手のひらの上で、何一つ陰ることなく光り輝いていた。

「僕が家内に、沙耶にあげた指輪だよ。それを、沙紀に付けてあげて欲しいんだ」

「綺麗……」

 沙紀が声を上げて感嘆する程、確かにその指輪は綺麗だった。銀色の指輪に、透き通るような蒼色の宝石がつけられている。

 その中で何より綺麗に映るのは、その蒼色の中に浮かぶ、六条の光。

「スターサファイアと言ってね、光に当てるとそうやって、六つの光に分かれて輝くんだ。その三線の光は信頼、希望、運命を意味してると言われていてね。家内が……沙耶が、選んだ物なんだ」

 その三つの言葉の意味は、たぶん、人によってその意味を大きく変えるだろう。僕には、その三つの言葉の意味が、結婚指輪として何よりも相応しいものに思えた。

「沙耶はこれを、指先で撫でるように死んでいたよ」

「……そんな大事な物を、僕なんかが沙紀に付けてもいいんですか?」

「君以外、誰がいるんだ」

 強い断定の言葉。その気迫は、娘を想う父親の強い意志によるものだろうか。

「未来のことだ。もしかしたら君はいつか沙紀を捨ててしまうかもしれない。そういう可能性は確かに残っているだろう。それでも、せめて今だけは。確実な証として、娘の幸せの姿を、僕に見せてくれないか?」

「……はい」

 絶対に捨てたりなんかしない。そう断言することもできた。けれど、今必要なのはそんな宣言じゃない。

 手に乗せられた蒼色の輝き。一人の人間が、最後まで愛した光。

 こんなにも小さいのに、とても、重い。

「……沙紀、手を出して」

「はい」

 迷わず差し出された、左手の指先。

「ここに、付けて」

「……ああ」

 約束したんだもんな。僕は全てを抱きしめると。限界量があろうと、全てを大切に守って生きたいと。そんな僕に、しがみついて離れないと。そうやって、生きていくって。

 そんな重くも、優しい約束をした彼女の指に、指輪を通す。

「少し、ぶかぶかだね」

 立派な指輪は、まだ少し子どもっぽさを残した沙紀には、まだ似つかわしくないかもしれないけど。

「……それでも、綺麗だよ」

 いつかきっと、その指輪に相応しい女性になる。

 僕が、それを支えるんだ。倒れそうでも、地を足に、踏ん張って立ち続けるんだ。

「待っててね、お父さん。きっと、もっと似合うようになるんだから」

「……ああ、待ってるよ」

 ただの口約束。だけど、この親子にとって、何よりも大切で、果たすべき約束が、今交わされる。

「おまえの晴れ姿も見ずに逝ったら、沙耶に怒られちゃうしな」




・飛坂智明


「智くん智くんっ!」

「ん? どうした?」

 休日、朝早くから出かけた春子が何故か慌てた様子で家に帰ってきた。

「ああああのねっ、あの、そのねっ!」

「お、おお。なんだかよくわかんないけど、落ち着け? な?」

「ああうんっ、えっと、ヒッヒッフー、ヒッヒッフー」

「いや、ラマーズ法使わなくても」

「そ、そうだよね。あっ、でも合ってるんだよっ」

「何が?」

「私ね……!」

 春子は体を丸めて、妙な溜めを作ってから。

「妊娠してましたーーーーー!!」

 そう、大声で言い放った。

「……はい?」

「三ヶ月だって三ヶ月! すごいよ智くん! 赤ちゃんだよ赤ちゃん!!」

「………………」

 ……あまりに急なんで、理解するのに数秒のタイムラグ。

「おおおおおおマジか!?」

「マジだよ! マジマジ!!」

「お、男の子か!? それとも女の子か!?」

「それはまだわからないけど、このまま行けば丈夫な赤ちゃんが産めるって!!」

「そ、そうかっ! えっと、じゃあどうすればいいんだ? 出生届書かないといけないしベビー用品とか買い揃えないと! 母子健康手帳ってもらってきたか!? あ、それと子ども部屋とかも必要だよな! もういっそもっと広い家に引っ越すか!? あっ、おまえ仕事どうするんだよ! 休職するにしても連絡しないとってああああ婆ちゃんにも連絡しないと!!」

「お、落ち着いて智くん。そんな慌てなくても大丈夫だよ?」

「だっておまえ、子どもだぞ子ども!」

 嬉くてたまらない。俺と春子の子どもが産まれるって? 夢みたいだ。まったく現実感が湧かない。身の丈に余る幸せすぎて冗談を聞いたみたいに体がそれを真実だと受け付けてくれない。

 けど、この身に湧き上がる幸福感は、決して嘘じゃない。

「やったな春子! 俺たちもう親だぞ。お父さんにお母さんだぞ!」

「うんうんっ。そうだよねぇ!」

「親だよ。そうか、俺たち親になるんだ……!」

 これからは、産まれてくる子どもと春子のために生きていける。ずっと待ち望んでた未来が見えてきた。これが幸せでなくてなんだっていうんだ。ああ、楽しみだ。どんな子なんだろう。女の子だろうか、男の子だろうか。どっちでもいいけど、顔は春子に似てくれないとダメだよな。ああでももう、産まれてきてくれるだけでいいさ。

 ……産まれて、きてくれるだけで。

「……智くん、どうしたの?」

「ああ、いや。ちょっと、思い出して……」

 ……そうか。今俺はようやくあの人に追いついたのか。

 孤児院にいた頃、柊弥さんは頼れるお兄さんだった。そして琴美さんは、優しいお姉さんだった。だから皆、あの二人に子どもができた時、家族総出でお祝いしにいったんだ。ずっとお兄さんだった柊弥さんは、お父さんに。お姉さんだった琴美さんは、お母さんに。

 その変化に少し戸惑ったりもしたけど、やっぱり、嬉しさの方が勝ったことをよく憶えている。

「……なぁ、春子」

 せっかくの喜びに、水を差してしまうことはわかっている。けれど、尋ねずにはいられなかった。

「秋宮柊弥って人を、知ってるか?」

「……うん、知ってるよ」

 予想通り、春子の表情から嬉しさから生まれた笑顔は消える。

「……わたしのお母さんを、殺した人」

 やっぱり、春子にとってはそういう認識だよな。

「ああ、そうだ」

「……あの人も、私たちと同じ孤児院だったんだよね」

「ああ……」

 俺たちと同じように家族を失い、そして、出会った。二人で、頑張って生きていこうと、約束をしていた。俺は今、彼の人生をなぞっている。意図的ではなく、自分の意志で。

 彼が目指した幸せに、手を伸ばしている。そして今、触れられるかもしれない所まで辿り着いた。

「智くんは、会ったことある?」

「会ったというより、何年も生活してたよ。よくしてもらった」

「そっ、か……どうして、急にあの人の話をしたの?」

「……あの人が、柊弥さんがどうしてあんな事件を起こしたか、知ってるか」

「うん。わたしも、調べたから」

 理不尽に奪われ続けた、一人の男の人生。それは、各所で反響を呼んだ。その全てが正しく報じられたわけではない。悪意や、宛てのない憶測で彩られた、読むだけで不快になるものだってたくさんあった。

 でも俺たちには、その真相を知る、当事者が身近にいた。

「お婆ちゃんは、わたしに包み隠さず、全部を教えてくれたよ」

「……急に、怖くなってさ」

 自分は今、幸せだ。けれど、もしかしたらそれは、不幸の始まりなのかもしれない。

「もし、もし春子が何か、誰かに殺されでもしたら……俺は、同じことをしてしまいそうで」

 今俺は、柊弥さんとまったく同じ状況にいる。もし春子が、琴美さんと同じ目に会いでもしたら……。

「もしそうなったらと思うと、ちょっと、怖くなって。情けないな、これから親になるってのに」

 それでも、恐怖は心に積もる。幸せであればある程、どうしようもなく不安が生まれる。

「……もし、もしもだよ?」

 そう言いながら、春子が俺の手を、両手で強く握り締める。そして、しっかりと俺の目を見た。

「わたしが何かのせいで死んでしまって、智くん一人が残されて……それが許せなくて、誰かを殺してしまっても……絶対に、死なないでね。自分から、死のうだなんて思わないでね」

「……どうして」

「だって、それは卑怯だもん」

 それは正しくないことだと、春子は強く断言した。

「罪を償うために死ぬなんて、卑怯だよ」

「けど、命を奪った罪を償うには、死しかないんじゃないか?」

 だからこそこの国には、死刑なんて刑罰がある。そして、それを望む人も。

「それは法律で決めたこと。たぶんね、償い方は、いつだって違うの。だって、殺人だけはどうやっても償えない。窃盗したら、盗んだ物を返すか、お金を払えばいい。誰かを殴って、怪我を負わせてしまっても、謝るかどうにかすればいい。取り戻せるじゃない。失ったとしても、生きてるんだから。いつか取り戻せるよ。取り戻せないにしても、それを補う何かがきっとあるよ」

 生きるというのは、何かを得続けていくということだから、と。春子はしっかりを俺の目を見据えて口にする。

 不幸を背負い、乗り越え幸せを掴んだ春子だからこそ、その言葉は重く、強い。

「けど命は、どうあがいても返ってこない。取り戻せない。人を殺すってことは、命を無くすってことは、どんなにあがいても取り返しがつかないことなんだよ。それなのに、その罪を、自分の命で償おうとしても、意味なんてないよ。どんなに願っても、死んだ人はもう帰ってこないのに。それで、償いだからって死なれても、悲しいだけだよ……」

 俯いた春子に、俺は何も言えなかった。何も言えないだけの、気迫が、春子から感じられた。

 たぶん、それは、怒りじゃなくて。

「償いなら、生きてして欲しい。生きた上で、その人生全てをかけて、償って欲しい。自分が犯した罪の重さと、後悔を背負って。無様に滑稽に、苦しんで生きていく。わたしは、わたしの場合は、そうして欲しかったよ」

 人として、奪われた側としての、厳しさ、なのだと思う。

「……そう、だな」

 償うために、生きて。苦しくても、生きて。

「俺も、そうして欲しかったよ」

 柊弥さん。あなたがしたことは絶対に許されないことで、どこまでも、悪だけど。生きて、償って欲しかったよ。許されは、しなかったかもしれない。けれどあなたは、その機会さえも、奪ったんだ。

「……名前」

「ん?」

「名前、考えようぜ。男でも女でも、どっちが産まれてもいいようにさ。俺たちで、立派な名前を考えよう」

 互いに欠けた部分を、補って生きてきた俺たちがようやく手に入れる。尊い命に対してできる、親としての最初の仕事。

「しっかり考えて、良い名前を付けてあげよう」

「うんっ」

 未来はどうなるかわからない。だからこそ怖いし、不安だけど。この気持ちだけは。目の前の彼女と、お腹の中にいる命を、俺は大切にし続けよう。失うことのないように。手放さないように。

 自由に動くようになった左手は、そのために取り戻したのだから。







 彼は、これまで見てきた光景を頭の中で思い返す。

 失った者がいた。失われた者がいた。どれもが正しく、懸命に生きてきた者たちだった。悪意故に失った者も、悪意などこれっぽっちもなく失われた者もいた。たくさんの悲しみや辛さを抱え、それでも懸命に、手を取り合って生きることを決めた者たちがいた。

 もう一度、彼、柊弥は思い返す。僕は、彼らにどれだけのことをしてあげられただろうか、と。僕が奪ってしまったものに値する何かを、僕は彼らに与えることができただろうか、と。

「……それはちょっと、思い上がりすぎかな」

 自分のしたことなど、本当にただの助言に過ぎない。目指すべき、たどり着くべき場所が見えてる者に、「あっちだよ」と、わかりきったことを言ってあげたぐらいだ。与えたものなど何もない。彼らは皆、自分で掴んだものを抱えている。抱えて、生きていくことを決めた。

 その強さは、彼らのものだ。

「……柊弥」

 自嘲気味に笑う柊弥の背後で、少女が名前を呼ぶ。柊弥は一度軽く息を吐き、笑みを作り直してから振り向いた。

「ん? どうしたの?」

「いえ、なんでもないわ」

「そう? 何か悩み事があるなら話してくれてもいいよ? どうせここにはもう、僕たちしかいないんだから」

「……そうね」

 誰もいない世界なら、どれだけよかっただろう。もし、誰もいない世界なら、自分の存在などどうでもよかった。誰もいないのだから、誰も私を知らない。誰も、私に気づかなかったのにと、少女は心の中で悔いる。

 誰かがいるから、知りたくなってしまったのだ。自分が何者なのか。この少年の目に、自分はどのような姿で映っているのか。

 俯いてしまっていた少女の頭に、柊弥が手を乗せる。

「それで、どうしたの?」

 長く伸びた髪を超えて、柊弥の手のひらが持つ温かさを感じる。ありえないはずの熱。失われたはずの命。

 けど今、その熱は少女の心に安らぎを与えている。

「……私は、どうしてここにいるんだろう」

「どうして、って」

「ずっと、ずっと見てた。あなたが苦しむ姿も、涙を流す姿も。世の中全てを悲観し、嘆いた姿も全部。見ていた」

 たくさんの、本当にたくさんの悲劇を。

「ずっと、見ていたのよ」

 もう数え切れないほどの悲劇を、客席から見せ付けられた。休憩もなく、永遠と似たジャンルの演劇を見せ続けられた。

「だから悔しかった。見せられてるだけの自分が、目の前であなたが苦しんでるのに、何もできない自分が」

 無力という言葉を、身に刻み続けた。何もできないことが、罪だと思えた。

「君がいてくれたおかげで。君が僕に手を差し出してくれたおかげで、僕はこうしてチャンスを得た……秋宮柊弥の独りよがりじゃない。彼女たちが望んだ、本当の贖罪を見つけた」

「……けど、それでも私は、自分が無力だって思うわ」

 そう、手を差し出しただけだ。むしろ、それさえも間違っている。少女が、誰かと一緒にいたかった。誰かのぬくもりを知りたかった。誰とも関わらず、何も知らずに居続けることなんて我慢ならなかった。

 確かに助けたかった。けど、それだけじゃない。

 もっと、利己的な部分があった。

「無力、か……ねぇ、どうして、君はそんなに悲しそうにしてるのかな」

「どうして、って……」

「君が自分のことを無力だって思うなら、それでもいいよ。君の考えを否定する権利も、資格も、僕にはないかもしれない。けど、それでもさ」

 少し乱暴に、少女の頭の上に置かれた手のひら。

「僕は嬉しかったんだよ。僕は君に救われたと思ってる。それだけは絶対に変わらないし、変えない。無力だっていいよ。もし君が無力だって言うなら、僕だって無力だ。現に僕がやってきたことなんてただの助言だ。アドバイスでしかない。そして増えた選択肢を選んで、未来へ進んでいったのは彼らの力だ。君が無力なら、僕だって無力だ」

「……そう」

 少しふて腐れたような、照れたような。そんな声で返事をした少女の頭を、柊弥は笑顔を浮かべたままぐしゃぐしゃと撫でた。

「ちょっ、と、や、やめてよっ」

「いやぁ、君が泣いてるようだから慰めてあげようかと思って」

「な、泣いてなんかないわよっ!」

「そう? 泣いてないなら、いいんだ」

 泣いてなんかいない。泣いてなんていなかったけど。

 撫でられた感触は、涙を誘った。

「……さて、それじゃ。そろそろ行こうかな」

「もう、行ってしまうの……?」

「うん。ようやく、僕の望みが叶うんだから」

 柊弥の手が大きく、弧を描くように動く。

「この世界は、記憶でできた『だけ』の世界。意志も何もない。ありとあらゆる記憶をただ蓄積するだけの世界だから」

 誰もが憶えていること。誰もが、忘れたこと。それが記憶である限り、この世界は何もかもを記憶する。

「こうして、方向性を与えれば」

 その大きく湾曲した軌道から、光が溢れる。

 光は目に見えるもの全てを包み、その存在を変質、変換していく。

「その記憶を、過去を蘇らせる」 

 いつしか町並みは変わり、目の前に見えてきたのは、最後の悲劇の舞台。

「……懐かしいな」

 所々ペンキの剥げたジャングルジム。幼い頃は恐がって乗れなかったシーソー。その他たくさんの、思い出に彩られた公園の景色。

「場所や、見える景色なんて変わってないんだけど。僕と、琴美が、生きてきた世界だ」

 雲一つなかった空には、暗雲が立ち込み、白い雪を降らせる。大きい牡丹雪は、フラフラと風に揺られながら地に落ちて、重なっていく。

 音の一つもしない。当たり前だ。この世界はすでに役目を終えている。この世界のシナリオは完遂し、もうその舞台にライトが当てられることはない。終わった演目に、主人公がただ一人、まだ孤独に演技を続けているだけだ。

「これから、どうするの」

「そうだねぇ……少し、散歩でもしてみようか」

「え?」

「よし、そうと決まればほらっ」

「ちょ、ちょっとっ……!」

 柊弥は少女の手を取り、もうライトも当てられない。誰も上がらない壇上へと登った。




Recall start


「ほらここが僕の教室だったんだ」

 誰もいない、夜の教室。僕と彼女は、その教室の中に入り辺りを見回す。

「知ってるわよそんなこと、ずっと見てたんだから」

「これでも頭は結構良かった方なんだよ。得意教科と不得意教科の差が激しいだけで、満遍なく成績はよかった方なんだ」

「嘘吐いても意味ないから。あなたの成績は最悪一歩手前。頭が悪いわけじゃないけど、授業中ずっと窓からボケーっと病院の方ばかり見ていて何度も先生から注意されてたじゃない」

「う……よく知ってるね」

「言ったでしょう。ずっと見てるだけだったって。それに琴美さんのことを抜きにしても、あなた眠いからって授業を抜け出したりしていたじゃない」

「あ~……あったねぇ、そんなこと」

 その後水夏さんに見つかって、二人でそのまま授業をサボったんだったな。

「……あの娘は、大丈夫かしら」

「きっと、大丈夫だよ。頼れるパートナーもいる」

 水夏さん。

 君には取り返しのつかないほどのことをしてしまったね。沙耶さんのことは、本当にごめんなさい。謝って済むことじゃないけど、それでも、ね。けど今の君には、君を守ってくれる人がいる。彼は一人で何でもできてしまう人で、とっても強いけど、それでも、どこかに弱い部分を持った人だ。

 彼はきっと、これからもずっとその弱さを持って生きると思う。けど、それは決して諦めなんかじゃなくて、もっと、ずっと崇高な想いだから。

 彼は君を守るよ。ずっと、一生。忘れられることの、遠ざけられることの辛さも悲しみも知っている彼だから、絶対に君を裏切らないし、離さないよ。君を、一生守り続ける。

 だから、甘えてあげて。しがみついてあげて。彼のことを、全力で頼ってあげて。自分に何ができるのか、それを探すのはそれからでいい。まずは、彼のことを頼ってあげて。それが、彼の生きる意味に繋がる。

 そして、もし彼が何かに躓いてしまった時は、今度は君が彼を助けてあげるんだ。彼が悩んでしまった時は一緒に悩んであげて。それだけでいい。それだけでいいんだ。

 そういう生き方で、構わないんだ。

「水夏さんは大丈夫だよ。優さんもいるし、これからは明日佳さんだって良いお姉さん役としているんだ。怖いものなしだよ、彼女は」

「……そうね」

「どちらかというと、もっと心配なのは先生の方だよ。子どもが産まれるんでしょ?」

 自分たちから、新しい生命が産まれる。それはいったい、どういう感覚を伴うものなのだろう。残念ながら、僕にはその感覚を経験したことはない。僕じゃない僕の記憶を探れば理解できるかもしれないけど、それは決して僕の感覚じゃない。

「そうらしいわ。男の子か女の子かはまだわからないらしいけど、二人して飛び跳ねて喜んでた」

「ははは……あの人も、子どもの頃とは大違いだなぁ。昔はもっと、静かで、落ち着いた子だったんだけど」

「けど別に、悪い変化じゃないでしょう?」

「うん、それはもちろん」

 智明先生。

 人を殺すという恐怖は、簡単に拭い去れるものじゃない。長い間、もしかしたら一生、自分の身にのしかかる程の重圧だ。けれど、あなたは最初の僕とは違った。あなたは生きたかったんだ。死にたくなんてなかった。だから、人を、自分の母親を殺した。

 それでも、それでも心には積もるものがある。正当防衛なんて大義名分があろうと関係ない。人を殺すということは、それだけで重い罪だ。けど、あなたはその重さに負けてなんかいられない。そうでしょう? だって、守らなきゃいけない人がいるじゃないか。

 春子さんを、産まれてくる子どもを、あなたがこれから守っていかなくちゃいけない。どんなに苦しくても、怖くても、智明先生。あなたが守っていかなきゃいけないんだ。そういう生き方を選んだあなただから、守らなきゃいけなんだ。

 だからどうか、どうか、がんばってください。諦めないでください。僕と琴美が届かなかった先まで、春子さんと二人で、行ってください。

 それが、あなたが殺してしまった人への、最大級の償いだから。

 だから、幸せになってください。

「……学校は、こんなところでいいかな」

「もう、いいの?」

「うん。だって正直な話、学校にはそんな大して思い出はないしね」

 僕の中での比率として、学校は二の次でしかなかった。琴美と一緒にいることが何より大事だったし。

「なら、次はどこに?」

「学校の他に僕が行きたいところなんて、決まってるじゃないか」

 僕の記憶の中で、一番多く残っている場所。

「病院、だよ」

 たった数分歩くだけで辿り着いてしまう、病院までの道程。僕はこの道を毎日、学校がある日は毎日歩いた。

 誰もいないロビーは閑散とし、物音一つしない。いつのまにか空に浮かんでいた月が、淡い光で室内を照らしていた。

「ここでよく、琴美とかくれんぼしたんだ。走り回れる場所って病院内には中々なくって、それで何度か瑞穂さんに怒られたなぁ」

「……そうだったわね」

「普段から人の少ない病院なんだから、別にいいじゃんなんて口答えもしたりしたけど、今じゃもうそんな怖いもの知らずなことは言えないな」

 幼い頃は、そういう常識はなかった。どこでも遊び場にしてしまえる能力というのが、子どもの頃には大抵の人に備わっていたと思う。

「……彼女、瑞穂は、あなたの……」

「うん、妹のような存在だったよ」

 今みたいな……なんていうか、豪傑な人じゃなく。本当に素直で、むしろ引っ込み思案の大人しい女の子だった。本人は、昔から自分の性格を今と同じだったと勘違いしてそうだけど、それは違う。彼女はいつも、おっかなびっくり、何か不安気に行動していた。きっと直樹や智明先生が見たら、目を疑ってしまう程に、今とは変わった。

 ……変わらざる、負えなかったのかもしれない。

「けど、僕にとっては怒らせると怖いお姉さんで。けど、本当はとっても優しい人、だよ」

 瑞穂……さん。君の事をなんて呼べばいいのか、全部を憶えてる僕には判断できないけど。君は、まっすぐ育ってくれていたね。誰かのことを想える、良識のある大人に育ってくれた。

 君が僕に向けてくれていた眼差しの意味も、本当はしっかりわかっていたんだ。ごめんね。その想いを真正面から受け止めるのは恥ずかしかったし、両親のことのせいでドタバタしてたし。そして何より、怖かったんだ。あの世界での、あの時の僕は、まだ誰かを好きになるってことはなかったから。恋愛なんてどこか遠い存在のように思えてたんだ。ごめんね、君の想いに応えられなくて。

 そして、ありがとうございました。

 君は僕にとっては妹みたいな存在だったけど、同時に、お姉さんみたいな存在にもなっていたんだ。君の知らないところでね。たくさん救われたよ。たくさん、助けてもらった。どうか君は、これからもお幸せに。家事だってやればできるんだし、何より美人だ。立派な旦那さんを見つけて、幸せに暮らしていくのもいいと思う。

 けどその前に、直樹と明日佳さんのことをよろしく。あの二人は、まだまだ君の助けが必要だと思う。せめて二人が立派な大人になるまでは、どうか見守ってあげてね。

 そう、遠くない未来だろうから。

「せっかくだし、琴美の病室にも行こうか」

「……いいの? あの部屋には、琴美さんはいないのに」

 誰もいない病室を見ても、平気なのかと。そう彼女は気遣ってくれている。

「いいじゃないか。最後なんだし」

 意識して、『最後』だなんて言葉を使う。終わりはもう、目に見えているから。

「……ええ」

 久しぶりに、本当に久しぶりに入った、琴美の病室。当たり前だけど、何も変わってない。布団の捲れ方も、窓から差し込む月明かりも全部。僕が琴美を連れて行ったあの時のままだ。

「そういえばさ。ずっと見てたって言ったけど、それって僕だけを? 琴美や、他の人のことは見てなかったの?」

「……そうね、その時の気分でコロコロ変えてたわ。ずっとあなたばかり見てるのは飽きてもいたし、色々な人を見てきた」

「あ、飽きましたか……」

「合計して何年見てると思ってるのよ。それこそ、何年も何十年もずっとよ。いくら経緯や結末が違うと言っても、基本は同じだからあなたを見ていてもただの繰り返しなのよ。飽きもするわ」

「なるほど……」

 展開は違うが、結末が同じ物語を永遠と見ているということは本当につまらなく、辛いことなのだろう。その途中にどれだけ幸せで、突飛な展開があろうと、結末は同じ。なら、その途中に一喜一憂などしていられない。その感覚は、想像できる。

「だから、琴美さんのこともずっと見てきたわ。この病室にいた琴美さんも、他の琴美さんも全部」

「……そっか」

 僕も、やろうと思えば思い出すことはできる。けれどそれは、今の僕には必要のない、無意味なことだ。

「……琴美さんはいつも、泣いてたわ。あなたが帰った後、部屋の電気を消して、鍵を閉めて、一人で……それでも、一頻り泣いた後は、必ず笑ってた。ご飯を持ってくる看護士には絶対に泣き顔は見せなかったし、泣いてることも悟らせなかった」

「いじっぱりだし、恥ずかしがり屋だったからなぁ、あいつ」

「もちろん、それもあるだろうけど。一番の理由は、それを見られて、瑞穂さんや院長を経由してあなたに知られるのが嫌だったから、でしょうね」

 もし、僕が琴美が毎晩泣いていることを知ったら、決して離れようとはしなかっただろう。一晩中だって傍にいてあげようとしただろう。もしかしたら琴美は、本当はそうして欲しかったのかもしれない。

 でも、琴美は隠し通した。その理由を、意味を、推し量ることは、できる。

「……どうしてこの世界には、琴奈さんがいなかったんだろうね」

 もし、現実と同じように、琴奈さんが今でも生きていてくれたら。泣いてる琴美を慰めることもできたんじゃないか。

「さぁ。単純に、この世界の元となった誰かの記憶には、琴美さんのポジションにいる人に母親がいなかっただけじゃないかしら」

「まぁ、そんなところだろうけどね」

 相変わらず、穴だらけのシナリオだ。即席の量産型悲劇。いや、実際にその悲劇を現実で受けた人がいるんだから、こんな言い方は失礼かもしれないけど。

「……巻き込んじゃってるんだなぁ」

 琴奈さんはもちろん、院長も、本来なら受ける必要もない悲しみを受けた。最愛の奥さんの死、娘の、あまりにも早すぎる死。きっと今頃、現実での院長はいつもみたく、明るく笑っているんだろうけど。『僕』が知ってる、短いながらも僕の人生、シナリオに関わった院長には、無駄に辛い想いをさせた。

 もちろん、現実の彼らがそれを憶えているわけではない。現実の彼らは、僕のことを、満永琴美と幼馴染だった僕を知らない。そもそも、現実の院長には琴美なんて娘はいない。初めの僕にとっての罰になるように、登場人物を全て知人や、大切な人に置き換えて。

 ……馬鹿みたいだなぁ、ほんと。そんな贖罪に、いったい何の意味があるんだろう。

「……そろそろ、終わりにしようか」

 もう、この世界は必要ない。

 長く、とても長く生き過ぎた僕を。

 今こそ、終わらせよう。


*


 冬の、小さな公園。錆び付いたシーソーも、寂れた砂場も、ペンキの剥げたジャングルジムも。何も変わらない。冷たくなった琴美を抱き締めていたあの夜と、同じ風景。

「これから、この世界を終わらせる」

 何度も繰り返し、大切な人を失わせるという罰。

 それを、終わらせる。

「もうこれで最後だ。もうこれ以上罰は続かない。意味なんてないんだって、もうわかってるんだから」

 罰を下されるべき者が決めた罰に、意味なんてない。それは償いではなく、ただの自己満足だ。

「僕は元々、この世界での『秋宮柊弥』だ。だから、この世界の終わりと同時に、僕は消えてなくなる」

「……それじゃ、あなたの願いはどうなるの」

 少女は真っ直ぐ僕を見ていた。目を逸らすことを許さないような、強い視線。

「僕の願いは、琴美にもう一度会って、話をしたいだけだよ。それだけでいい」

「……本当に、それだけでいいの?」

「もちろん」

 それだけでも、破格の願いだ。初めから存在しなかった者同士の出会いなのに。出会って、想いを告げて、手を取り合って、たった一瞬でも幸せになれた。

「……私には、あなたをずっと幸せにできる」

「何それ、プロポーズ?」

「茶化さないで。私が、もう一度あなたの世界を再現する。今度は何も失わない。不幸だらけの世界じゃない、幸せだけが続く世界を。私には、それができる」

「……それは、いいよ」

「――どうしてっ!?」

 物静かで冷静だった少女が、初めて本気で、声を荒げた。

「願いを叶えるって、そのために頑張ってきたんでしょ!? 何度も何度も失って失って! ようやく掴んだチャンスじゃない!! それなのに、話をする? それだけで、いいわけがないじゃない!! 嘘をつくなっ、バカッ!!」

 自分のことでもないのに、必死になって声を上げて、目には、涙を滲ませて。

「あなたは何も悪くない! 悪いのは、最初のあなただけでしょ!? あなたは幸せになったっていい! ずっと見てきた私だからわかるっ! あなたにはその権利があるじゃない!!」

「……ううん、違うよ」

「違わないっ!!」

「違う、違うんだよ」

 過去を、これまでの生活を、琴美と過ごした日々を思い出す。

 ……ああ。うん、やっぱり、これだけは、断言できる。

「僕はずっと、幸せだったんだから」

「……な、にを」

「そもそもさ、僕って不幸だったのかな」

「そんなの、決まってる!」

「ううん、僕はそうは思わない。僕は、僕自身が不幸だったなんてこれっぽっちも思っちゃいない」

「どうしてよっ! 愛する人を、琴美さんを失ってっ、それがあなたのせいでもなんでもないのよ!? 理不尽じゃない、不幸じゃない!」

「……そうだね。確かに、結果だけを見れば僕は不幸だ」

 何度、理不尽を呪ったかわからない。どうして僕たちがって、何度も憤った。もっと他に、不幸になるべき人間はたくさんいるじゃないかって、本音を言えばもっとたくさんの罵詈雑言は生まれてくる。

「けどさ、それでもやっぱり、僕は自分が幸せだったと思うんだ。誰にも、他の誰にも負けないくらい、幸せだったって胸を張って誇れるんだ」

 虚勢でもなんでもなく、心の底から断言できる。

「だってさ、好きな人と一緒にいれたんだもん。僕が好きな人が僕のこと、好きだって、言ってくれたんだ」

「……そんなの、ありふれてる。どこにでもあるじゃない」

「そう、こんなのもの、どこにでもある」

 ありふれて、どこにでもある。そんなことはわかってる。

「でもさ、考えてもみてよ。この世の中にはさ、何億人って人がいて、その中の何億人って人が、誰かを好きになる。相思相愛になる。そういうのが、何年も何十年も続いてきたんだよ。何代もその命を繋げて、この世に数限りなくある命の危機を切り抜けて、僕たちは産まれ、生きている。そしてまた、僕たちは何億もの人の中から、たった一人の大切な人を出会って、互いに恋に落ちた……これって、すごいことだよね。まるで奇跡だ。そんな奇跡みたいな確率を経て、僕たちは生きている……それだけで、僕は幸せを感じられる。」

 産まれて生きてきた日々の中に、どれだけの危険があっただろう。どれだけの苦難があっただろう。僕よりも前、両親や、そのまた両親。何年も何代も続いた歴史の中で、どれだけの人が、数々の危機や苦しみを乗り越えて来たんだろう。

 そしてどれだけの人が、自分を愛してくれる、自分が愛せれる人を見つけてこれたんだろう。

「この世には、そんな奇跡は溢れかえってる。どこにでも広がっていて、人の数ほど、その奇跡は存在している。けどそれを、誰もが奇跡だとは思わない。そんなの当たり前のことだから。奇跡ってのはもっと、高尚なものだと勘違いしてるから」

 起こらないから奇跡。違う、そんなことはない。僕たちはこれまで、たくさんの奇跡の末に生きてきた。

「奇跡ってのは、自分にとって都合のいい偶然だよ」

 愛する人と、愛し合える。

 そんなありふれた偶然を、僕たちは奇跡だって気づかずに、何度も繰り返して生きている。

「その奇跡を、僕は何度も繰り返した。何度も味わった。十分、幸せ者じゃないか」

「けど、その分失った!」

 いつのまにか、少女の瞳からは涙が溢れていた。

「確かにあなたは幸せだったかもしれない! けど、あなたに降りかかった結末は、それさえも塗り替えてしまえる。幸せなんて、なかったことにできてしまうほど、ひどくて、凄惨だったじゃないか! それなのに、どうして自分は幸せだったなんて思えるのよ!!」

「……確かに、何度だって失ったよ。それこそ数え切れないほど、失ったし、悲しんだ」

 全部を見てきたわけではない。けれど、わかってる。全て、最後には奪われてきた。

「それでもさ、やっぱり。僕は幸せだったって思えるんだ。失ったけど、たくさん失ったけど。その分、得たものがあるってことだから。不幸になった分だけの、幸せがあったってことだから」

「……けど、それでも不幸になったら、失ったら、それでお終いだよ」

「ううん、お終いなんかじゃない」

 本当にお終いなら、僕は今ここにいない。

「だって、僕は憶えてる。幸せに生きたことを、琴美と笑い合えた日々があることを、全部憶えてる。忘れてなんかない。無くしてなんてない。幸せは確かにあったんだ。ならそれでいいんだよ。例えそれが不幸に塗り替えられても、幸せは確かにあったんだ」

 僕はここにいる。ここにいて、まだ生きて、憶えている。無くなってなんか、ない。

「なら、その幸せを憶えてるだけでいいんだ。記憶していればいいんだ。幸せは確かにあったんだって、憶えてるだけでいいんだ。そうすれば、少なくとも僕は幸せだったんだって、思えるんだ」

「けどっ、その記憶さえあなたは無くしてしまう! この世界であったことなんて記憶されない! 何にも残らない! それじゃあ、あなたは幸せになんてなれない!!」

 息を荒げて、肩で息をしながら、彼女は俯いてしまった。時折聞こえてくる嗚咽がなければ、ただただ怒っているようにしか見えなかっただろう。

 彼女は、泣いている。泣いてくれている。僕のために。僕なんかのために、彼女は泣いているんだ。

 ……そろそろ、お願いするには良いタイミングかな。

「だから、君に最後のお願いをしたいんだ」

「え?」

 これから僕が言うことは、とても自分勝手だと思う。自分のことしか考えてない、利己的なものだ。これからの彼女の在り方を、僕が、押し付けてしまう。

「僕のことを、ずっと憶えていて、忘れないで欲しい。僕が受けてきた罰も、その日々も、君が見てきた僕の全てを忘れないで欲しい」

 誰かが憶えていてくれるなら。それだけで、僕が生きた証になる。

 僕が幸せに生きてきた、証明を残せる。

「この世界で、ずっと一人でも、ずっと、忘れないで欲しい」

「……それが、あなたの願い?」

「うん……叶えて、くれないかな」

「……うん」

 ずっと俯いていた彼女が、ゆっくりと顔を上げる。

「だって私は、そのために生まれたんだもの」

 その表情を、僕は、決して忘れない。

「あなたの願いを叶えるために、生まれてきたのだから」

 僕のためを想い、僕のために浮かべた笑顔を、僕は決して、忘れない。

「……ありがとう。それじゃあお礼に、一つ、君にプレゼントをあげるよ」

 面倒事を押し付けて、何も対価がないのはあんまりだから。

「プレゼント……?」

「うん。この世界じゃ、形に残るものなんてないから、探すの苦労したんだ」

 だからずっと、僕の、『秋宮柊弥』の記憶を思い出していた。

「その、プレゼントって……」

「君の、名前だよ」

 君とか少女とか、そんな言葉で君を表すのはもう嫌だから。

「僕が、最初の僕と最初の琴美が、自分たちの子どもにつけようとしていた名前を、君にあげる」

「……なんて、名前?」

「……柊」

「ひい、らぎ……?」

「うん」

 植物の。ギザギザした葉っぱで。花もなんだか地味に見える。あの柊。

「意味は、君が見つけて」

 彼女が考えた意味を。独りよがりではない、しっかりと意味の通った名づけの意味を。君が、ここから見つけるんだ。

「……わかった」

「約束、できるね?」

「うん……」

 幸せな人生だったか? 自分に向けて、そう質問する。

 ああ、もちろん。そう答える。

 見てよ。こんなにもかわいくて良い娘が、僕のために泣いてくれてるじゃないか。僕のことを想って、涙を流してるじゃないか。誰かに想われてるだけで、幸せじゃないか。

 これで不幸だなんて、ありえない。

「それじゃあ」

 手を大きく振る。もういいよ、お疲れ様と。この世界を労うように。

 ありがとう、さようならと。この世界に別れを告げるように。


 大きく、大きく、手を振った。


「――忘れないからっ!」

 彼女の、柊の言葉が、胸に響く。

「あなたが生きてきたことをっ! 何度も幸せを掴んだことも! 何度も彼女を幸せにしたことをっ!! 全部、忘れないからっ! ずっと憶えてるからっ!!」

 涙混じりの、掠れた声でも。

「絶対に、忘れないからっ!!」

 それは、これまでに僕の人生を報うための、労いの言葉にも思えた。

「……ああ、約束だよ」

 白い光が溢れる。僕から、世界から。眩しくて白い光は、僕の何もかもを包み込んでいく。

 その、白い光の中に。

「――琴美」

 幻覚かもしれない。僕が最後に見た夢かもしれない。けど、そんなことはどうでもいい。

 暖かい陽気。萌える草木。確かな温度。やわらかい感触。握り返してくる小さな手のひら。やわらかい唇。唖然とした表情。次第に潤む瞳。流れる涙と、咲き誇る花のような笑顔。月の光の中、抱きしめた小さな体。震える肩。胸に滲む涙。雪の中、抱き締めあった体、寄せあった頬、消えそうな吐息、最後の笑顔。

 伝えられなかった、想い。

「……僕、頑張ったよね?」

 思わず震える声は、決して、緊張のせいじゃなくて。

「みんなを、幸せにできたよね……?」

 涙が視界をぼやかせる。やめろ、止まれ。今だけは、真っ直ぐ、琴美を、見たいんだ。

「……君を、幸せにできたよね?」

 僕の問いかけに、琴美は。

『うんっ』

 笑って、頷いた。

 ……それだけで、よかった。僕が頑張ってきた意味なんて。

 たった、それだけで、よかったんだ。




・柊


 柊弥が消えても、この世界は変わらない。私はずっと、彼が消えた場所を見ていた。

 これから私は、この世界で、一人きりで生きていく。誰とも関わらない。触れ合わない。誰も私を知る人はいない。

 たった一人きりで、生きていく。

「……それでも」

 それでも。私が生きる、意味はある。価値も、意味も、ちゃんとある。ここから、探そう。全てを記憶していくこの世界で、探し物をしよう。

 それは、誰もが憶えていること。

 そして、誰もが忘れてしまうこと。

 だから、誰もが想い出したいこと。

 それを探しに行こう。この世界で、たった一人きりでも。彼が生きてきた軌跡を携えて。誰もいないこの世界で、何もかもがあるこの世界で。生きていこう。

「生きて、いくんだ」

 それが、私が最後に交わした約束だから。


 茶番は終わった。

 さぁ、始めよう。

 辛いことも、悲しいことも一杯ある世界の中を。

 精一杯、胸を張って、生きていこう。



 終章    了

はい、すみません。まだ続きます。

続くといってもちょっとしたエピローグというか、あるキャラのその後のようなものです。ですが、そこにこの長く設定だけは壮大な物語の末に書きたかった自分なりの答え、目指すべきものを詰め込みました。

たくさんの大切なものを失った彼が、またその手に掴むものを、どうかお時間の許す限り見届けてくださると嬉しいです。

この後書きのポエムっぷりを晒すのが段々快感になってきた。やばい。そして最後にそんなことって。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。