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Recall  作者: ツナ缶
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四章 7

これにて四章、涼森直樹の物語は終了となります。明日佳とのドタバタ(物理)コメディは書いていて非常に楽しく、またシリアスな場面でも筆の進みが妙に早く、一番愛着のある主人公です。馬鹿ですけど。

一番これからに不安が残るも、きっと精一杯足掻いてくれるであろう彼を、どうか最後までよろしくお願いします。

 横たわっている俺を、柊弥の男の癖に妙に少女然とした、端正な顔が上から見下ろしていた。

「生きてる?」

「……ああ」

 痛みはもうない。立ち上がって体の様子を見てみるが、傷一つ残ってない。あれだけ何度も横たわったり、血が噴出したりしたのに服も染み一つ汚れ一つもない。

「君河さんも、大丈夫?」

「ええ、問題ないわ」

 明日佳の服も拳も、汚れ一つもなく綺麗なまんまだ。

「……便利だな、この世界」

「誰もいないけどね」

「それが一番の難点だな」

 傷がすぐ治っても。痛みはすぐ消えても。誰かがいないと意味がない。傷を治すのも、痛みを抱えるのも、全部。誰かのためにあるものだ。少なくとも俺は、自分一人しか存在出来ない世界で、すぐに立ち直ろうとは思わないだろう。

 俺に立ち直って欲しいと願う人がいるからこそ、俺はこれまでだって立ち直ってきた。俺以外にも、誰だって。

「……もう、君の贖罪は済んだのかい?」

「いいや、まだだ。まだ、これからだ」

 これから一生をかけて、明日佳を幸せにしないといけない。明日佳の人生を狂わしたのは俺なのだから、それを償うのは人生全てを賭けないと、割りに合わないだろう。

 ……そのためにも。

「帰らないと、な」

「……そう、だね」

 俺たちが生きる世界は、ここじゃない。俺たちを想ってくれている人たちがいる、あの世界だ。

「うん、そうするべきだ。君たちには帰る場所がある。帰れるなら、帰るべきだよ」

「……おまえは、これからどうするんだ?」

 俺や明日佳と違って、柊弥はこの世界にしか存在できない。肉体を持つ俺たちと違って、柊弥はすでに『記憶』の存在だからだ。記憶が形を持てるこの世界でしか、柊弥は存在することができない。

「僕はまだやることがあるし、やりたいこともある。大丈夫だよ。今はいないけど、僕はここでも一人じゃないから」

 一人じゃないなら、大丈夫だ。そう言って柊弥は笑う。俺が受けた罰と同じように、繰り返した悲劇の中の、その一人。現実に存在した誰かの悲劇をなぞって生まれた柊弥柊弥は、その人生も、人格すら、もしかしたら誰かのコピーなのかもしれない。

 それでも、こいつはそこから割って出た。明日佳に手助けされて抜け出した俺とは違う。自ら、自分を取り巻く悲劇を抜け出し、結末を変えようとしている。

「君河さん。僕は、あなたに償わなければいけないことあるかな」

 どこか物悲しい微笑を浮かべたまま、柊弥は明日佳に問いかける。

「……何もないわ」

「どうして? 僕は君の両親を殺したんだよ?」

「それは、違うだろう」

 思わず口を挟む。元が同じなだけで。それ以外は何もかも、違う。

「確かに僕と『あの人』は違うよ。けど、罪は同じだし。それを今償ってるんだから。なら僕は、君河明日佳さん。あなたに対しての償いも、あるはずだ」

「……私は、あなたの罪まで裁く余裕はないわ」

 そう言いながら、明日佳は俺の耳に手を伸ばして。

「この人だけで、手一杯」

「痛いっ、痛いからっ耳捻り上げるのやめて!? あれ? ていうかこれが初の長時間肉体接触じゃない!?」

 明日佳との肉体的接触に痛みが伴うのは、デフォルトなんだろうか。 

「……そっか」

 痛い痛いと声を上げる俺と、その俺の姿を見て意地悪く笑う明日佳を見て、柊弥は満足そうに頷く。

「それなら、僕からはもう何も言うことはないよ。君たちには助言なんていらないだろうし、ね」

「……ああ、そうだな」

 やるべきことは、すでに見えてる。そしてそのために、取り戻していかないといけないものがまだある。

「なぁ……いるんだろ。直樹」

 姿は見えない。けれど、きっとどこかで俺をずっと見ていたであろう奴に聞こえるように、声を張り上げる。そうして現われる、俺の幼い頃の姿。

 過去の俺の残滓は、射殺すような視線で俺を見ていた。

「よぉ、久しぶり、なのか? 俺にはよくわかんないけど」

 体感時間が、今この場では乱雑していて訳がわからなくなってる。思い出そうとすれば数年、何十年分もの俺じゃない俺の記憶が湧き出て来そうになる。それを意識的に振り払い、過去の俺を見る。

「……帰るのか」

「ああ、帰るよ」

 ここじゃない、みんながいる場所で明日佳を幸せにするために。そういう贖罪をするために。

「そうやって、また俺を切り捨てて行くんだ!」

 初めて、過去の俺が声を荒げた。

「必要ないからって、いらないからって! 辛いこと全部俺に押し付けておまえは、おまえだけが幸せになるんだ!!」

「……そうだな」

 俯き、地面に吐き捨てるように口にしたこいつの言葉を、俺は簡単には否定できない。

「俺はずっと、そうやって生きてきたな」

 自分のいらない部分を切り離して、真人間になったふりをしてみんなの中に溶け込んだ。自分がただ生きてることが自分で許せないから、少しでも明るく振舞おうと思った。関わってる人に、少しでも笑顔になってもらおうと躍起になっていた。

 ここにずっと、一人で苦しんでた奴がいるのに。

「だから、俺はおまえも連れて帰る」

 俺の宣言に、幼い頃の、今にも泣きそうに涙を目に溜めた男の子が顔を上げる。

「全部背負うんだ。何もかも全部、俺が自分の中で生み出した感情も全て。背負って生きていくんだ」

 放置していい感情なんて一つもない。全て背負って、携えていく。

「俺だって、過去は憶えてる。あの国で俺が受けた暴力も、母さんを突き飛ばした感触も、最後の母さんの表情も全部憶えてる」

 俺に突き飛ばされた時の母さんの表情は、驚愕と、悲しみで彩られてた。

 ……あれが、俺がした人生初めての裏切り。

「けど、憶えてるだけじゃダメなんだ。思い出すだけじゃダメなんだよ」

 そんな『出来事』があったねと、思い出すだけじゃ意味なんてなくて。

「その時に感じた想いを、感情を、全てを思い出して、この身に刻まないと意味がないんだ」

 だから、想い出す。その過去を、大事な想いを、思い出すんだ。

「過去は覆せない。それはもう絶対のことで、変えられない。だから全部を憶えてないといけないんだ。過去も、感情も、想いも全部。悲しいからって、辛いからって忘れてなかったことにするのは間違ってるんだ」

 苦しいからって、切り離すのなんてもっての他で。

「だから、俺はおまえを受け入れる。誰も信じられなくて全ての存在を怖がる『涼森直樹』を受け入れる。全部償うって決めたんだ。だったら、おまえを置いて帰るなんて間違ってる」

 俺を呆然と見つめる俺に、手を伸ばす。一緒に行くぞ、と。一緒に生きていくぞ、と。手を差し出す。

「帰るぞ、直樹」

「……無理、だよ」

「無理じゃねぇ。帰るんだ」

「だって、怖いよ。みんな、何もかもが怖いんだ。怖くて、誰も信じられないんだ……」

「それも全部受け入れる」

 信じられない悲しみも、恐怖も、痛みも。全部、俺のものにする。

「おまえは俺だ。だから人を信じられない、あの気持ちも辛さも全部理解してる。その上で、受け入れるって言ってるんだ」

 その重みを背負って、生きていくんだ。

「ほら」

 下を向いて涙を流す小さな男の子に、俺は手を差しのべる。

「まずは、俺を信じろ。自分を、信じろ」

「でも、でも俺、はっ……!」

 差し伸べられた手を、払いのけた時の悲しみを知っていても。その暖かい、確かな温度に触れる恐怖が身を竦ませる。

「……ほら」

 でも、それでも。俺は、その暖かさが、どれだけ心に救いを与えるか知ってるんだ。

「泣かないの」

 幼い俺に近付いた明日佳が、そっと両手を広げ、自身の胸に招いた。

「私も、人は信じられないよ。誰彼かまわず信用できるほど、お人よしでもないし、バカでもない裏切られるのが怖くて、触れることさえもできなかった臆病者だよ」

 人に触れることはできなかった。けれど、子どもになら触れることができた明日佳。それは、きっと、明日佳を大切に思っていた彼女の両親の想いを、心のどこかで憶えていたから、かもしれない。どれが理由なのかわからない。でも彼女は、それでも手を伸ばし、抱きしめられる。

「けど、それでも。それでも信じたいって、思ったの。せめて、こんな私でも、こんなに壊れてて、人を傷つけるだけしかでできなくて、誰かを幸せにすることもできない私を、信じてくれる人だけでも、信じたいって思うんだ」

 明日佳の手が、彼の頭を、背中を優しく撫でる。その手つきは、いつかの毛布お化けを思わせる、そんな拙いものだったけど。

「信頼は重くて、時に煩わしく感じてしまうこともあるけど。けどやっぱり、私に向けられた笑顔は嬉しくて、とっても温かかったから。だから、その信頼に応えられるぐらいに、強くなりたいんだ」

 明日佳の腕の中にいた彼の肩が、震える。次第に聞こえる嗚咽は、俺にも当然ながら聞き憶えがあって。俺が昔、母さんの胸の中で上げた、泣き虫だった頃の、俺の嗚咽。

 その震える体に、明日佳は優しく語り掛ける。

「……一緒に頑張ろうよ。すぐに全てが大丈夫になるとは思えないけど、いつかきっと、大丈夫になるから」

 先に進むと決めた者の、強い決意と決心を持って。

「だから、一緒に頑張ろう」

「……でも、俺は」

 それでも躊躇する、躊躇してしまう幼い頃の俺を、俺は責めることは出来ない。

「ほら、あなたも来なさいよ」

「え? お、俺?」

 明日佳が顔だけこちらに向けて言う。

「そう。ほら、はやく」

「い、いいのか?」

「……一生かけて償うんでしょう? 躊躇なんか、してないでよ」

「……ああ」

 ゆっくり、ゆっくりだけど。俺は足を進め、二人の傍に、膝を下ろして。俺は明日佳を左腕で、そしてこいつを、昔の俺を右腕でしっかりと。ゆっくりだけど、しっかりと。抱きしめた。

 初めて触れた明日佳の体は、想像していたよりもずっと柔らかくて。いつもよりもずっと近くで嗅いだ明日佳の香りは、泣きたくなるほど良い匂いで。

 もう記憶の中にしかない、昔の俺の体は、不安になるほど小さくて。鼻先に触れた髪の質感や、匂いが、悲しくなるほど、懐かしくて。この全てを俺は、背負うんだ。背負って、生きていくんだ。

 ……母さん。あなたを裏切って、死なせてしまった親不孝な俺だけど。このぬくもりだけは、もう絶対に、手放したくないんだ。

 そうして、生きていきたいんだ。

「……こうやって。こうやって抱きしめられると、安心するよね」

 明日佳の独り言のような、囁く声量に、俺たちは無言でただ頷く。

「触れられてるのに、こんなに近くにいるのに……人が怖かった私でも、安心するんだ。なんで、だろうね」

「……たぶん、憶えてるからじゃないかな」

 それが正解かわからないけど、俺なりの答えを口にする。

「記憶として憶えてなくても、体が、心が。こうやって抱きしめられた時を憶えてるんだよ。こうして、今生きてるってことは、誰かの手によって、産まれてきたってことだからさ」

 母親じゃないかもしれない。産まれた時側にいた看護士かもしれない。不器用に抱き上げた父親かもしれない。誰だっていいんだ。誰だって、いい。誰かがきっと、抱きしめて、その自身の熱を産まれたばかりの俺に教えてくれたから。

 だから誰かの温かさは、こんなにも安心するんだ。

「……俺も、誰かを信じられるかな。もう、裏切られずに済むかな……」

「それはわからない」

「ああ、そうだな」

「え……?」

 期待していた答えではなかったのだろう。幼い頃の俺は、どこか裏切られたような顔をして、俺たちを見上げる。だが、ここで簡単に肯定してはいけない。未来は誰にもわからないし、不確定だから。何が起こるかわからないから。簡単に無責任に、肯定することはできない。

「でもね。これだけは約束できるよ」

 笑いながら、しっかりと明日佳は幼い頃の俺の目を見て。

「私も、この人も、絶対君を裏切らない。ずっと、君を信じてるよ」

 なら俺も、絶対に目を逸らすわけにはいかない。幼い頃の俺を、痛みと苦しみしか知らない俺を、真正面から見つめる。

「さっきから言ってるだろ? 俺は、俺を信じるって。だから、おまえはおまえを信じろ」

 前を向こうとする自分を、痛みを携え、生きていこうとする自分を。

「そうやって、生きていくんだ」

「……うん」

 顔を歪め、目に涙を浮かべ、幼い頃の俺は明日佳の胸に顔を埋める。

「そうやって、生きていきたいよ……!」

「……ああ」

 そのくぐもった、けれど力強い希望の言葉を、俺たちはずっと聞きたかった。強く、もっと強く抱きしめる。温かい熱を感じる。抱きしめる腕に、二人を覆う肩に、触れた額に。確かに感じる熱がある。こんなにも尊く、大切な存在を、受け入れて、背負って、生きていく。

 それが、俺に課せられた罰。俺が、するべき贖罪。

 ああ……なんて、望むところだ。

「……それじゃ、今度こそさよならだ」

 そんな俺たち三人を、柊弥は微笑みながら見ていた。

「君たちはこれからもきっと苦労する。悲しむこともあると思う。だけど、きっと、幸せになれるよ」

「ええ、なってみせるわ」

「……うん。良い、返事だ」

 視界が潤む。水を落とされたように、目に映る全ての像が滲んで、揺らぐ。もうきっと、この世界には来ないだろう。この世界に来ることを、俺はもう二度と望んではいけないからだ。

 過去を望むのではなく、振り返ることはあっても、足を向けることはせずに。前を向いて、歩いていく。

「じゃあな、柊弥」

「うん、直樹も元気で」

 もう柊弥の顔もぼやけて、滲んで、まともに見えない。それでも俺は、一切の瞬きもしないで、彼の姿を記憶に写すように、映す。

「さようなら」

 滲んでまともに見えない視界の中で。

「僕の、理想の人」

 軽く、『また明日』なんて言う様に手を振って。

「僕も……君のように生きたかったよ」

 笑いながら、悲しい希望を告げた。




・涼森瑞穂


 白を基調として揃えた花束を手に、あたしは階段を登る。こじんまりとした霊園には人はいない。広く開けた空と、そこに浮かぶいくつもの雲。その雲から見え隠れする太陽だけが、私を見ている気がした。いくつも均等に並ぶ灰色の墓石を横目で見ながら歩いてくと、いつのまにか目標の墓前に着いた。

 『秋宮家』。と刻まれた墓石のを眺め、深々とため息を吐く。

「……だぁれも、来てないわね」

 墓石の周りには雑草が伸びっぱなし。お供え物の一つもない。花瓶に入れられた花束もくたびれて、枯れてしまっている。

「しかもこれ、あたしが供えたやつじゃない」

 今持ってる花束とまったく一緒。一年前と同じのを選んでみたつもりだったけど、こうして答え合わせができるとは思ってもなかった。

「まぁ。それでも、昔に比べちゃ良い方か」

 通り魔殺人。人殺し。犯罪者。極悪人。狂人。呼び方はそれこそいくつもある。間違ってないし、正しいけど、墓石にまでそれを刻まなくてもよかったんじゃないかなぁ、と思う。建て直す費用とか、そういうのも考えて欲しかった。

「……それも、身内贔屓かな」

 理不尽にも、家族を殺された側。被害者側からしたら仕方がないのかもねぇ。あたしだって、母さんを殺したあの国の人間が憎いし。もしあいつらの墓があったら、同じか、それ以上のことをしでかしてしまいそうだ。

 とりあえず、掃除してしまおう。雑草を抜き、持ってきたスポンジを水に濡らして墓石を拭く。枯れた花束を捨てて、新しく持ってきた花束を花瓶の中に入れた。

「あとは線香を立てて、と……どうせあたしだけなんだし、全部いっちゃえ」

 一束になった線香全部に火を点ける。

 ……煙がすごいことになった。

「ま、いいか」

 細かいことは気にしないで、墓前に供える。

「……久しぶり」

 この墓石の下に眠る、彼の姿を頭の中で思い出しながら。

「柊弥お兄ちゃん」

 彼の、あたしの従兄弟のお兄ちゃんの名前を、口に出して呼んだ。

 初めて会った時から、好きでした。なんて告白の常套句みたいなことが本当にあるとは、その時までは思ってもみなかった。母さんの旧姓は『秋宮』。柊弥お兄ちゃんのお父さんの妹だった母さん。つまり、柊弥お兄ちゃんとは従兄弟の関係で、幼い頃からよく遊んでいた。あたしは、ほら。昔からこういう、なんというか、好き勝手な性格というか。破天荒というか。まぁそんな感じの性格で、少し年の離れた柊弥お兄ちゃんにはよく怒られたし、迷惑もかけた。

「……我ながら、とんでもない子どもだったなぁ」

 何かしでかせば柊弥お兄ちゃんが怒ってくれる。かまってくれると嫌な悟りを開いてしまったあたしは、柊弥お兄ちゃんにかまってもらいたい一心で色々なことをしでかしたもんだ。

「今は丸くなったもんだよ。うんうん」

 ……誰に言い訳してんだか。

 とにかく、ずっと柊弥お兄ちゃんが好きだった。年の離れた、妹みたいなもんにしか見られなくても。ずっと、それでもいいやと思えるぐらいに好きだった。そんな純粋な恋心(本人には純粋さの欠片もなかったが)を伝える前に。柊弥お兄ちゃんはあたしから遠ざかってしまった。

 ご両親を事故で失ってしまった時の、柊弥お兄ちゃんの表情は今でもよく憶えている。凍りついたように、ぴくりとも動かない笑顔。子どもだった、という理由はある。けれどあの頃のあたしはその笑顔をただ見るだけで、彼に対して何もできなかった。うちとは古くから縁のある孤児院に預けられてからも、距離的な問題もあってか、どんどん疎遠になってしまった。

 だからこそそんな無力だったあたしに、あの人への嫉妬心なんて持つべきではなかったと今でも思える。

「琴美さんも、お久しぶり」

 このお墓には、柊弥お兄ちゃんの他にももう二人、眠っている。一人は、琴美さん。柊弥お兄ちゃんの奥さんで、あたしなんかが嫉妬の対象にするのは恐れ多いぐらい、よくできた女性。そして、その二人の娘さん。琴美さんも、その娘さんも、遺骨らしい遺骨は入ってない。娘さんに至っては、白い粉末のような遺骨が、琴美さんと一緒の骨壷に入っているだけだ。

 それでもこのお墓は、あの家族のお墓だ。

「……直樹が今、明日佳と一緒に孤児院に行ってます。憶えてますか? 直樹のこと。あの頃の直樹は、ちょっと、色々あったせいか、柊弥お兄ちゃんに対しても、逃げ回ってましたね」

 家族にも怯えて、敵意を剥き出しにして、誰も近付けないよう、近付かないよう生きていた弟の姿は、私の頭の中に嫌という程こびり付いて離れない。会ったことも、自分の親戚だってことすら憶えていないだろう。

「今では、あの子も立派になりました。まだまだ子どもだけど。ちゃんと、守るべき人を見つけて、頑張ってます」

 年の離れた弟が、丸っこくて、心配になるほど柔らかい手を地面につけて。膝を曲げて、ヨタヨタとふらつきながらも、必死になって前に進んでいた頃を思い出す。あたしが不安気に差し出した指先をあの子は、ぎゅって、ちっちゃな手でしっかりと握りしめて、笑った。

 そして成長して。その手で、柊弥お兄ちゃんを殺した。

「……できれば、恨まないであげてください。言われなくても、恨んでなんてないかもしれないですけどね。柊弥お兄ちゃん、お人良しだったし」

 誰もいない霊園で、墓石に向かって話しかける女性なんて傍から見たら不気味だろう。けど、誰もいないんだし、いいよね。

 一度、深く息を吸って、口を開く。

「……ずっと、自分が情けなかった」

 膝に置いた手を、強く握りしめる。思い出すだけでも自分が許せなくなることを、口に出していく。

「あなたの両親が亡くなった時も、あたしは何もできなかった。直樹があの国で囚われてる間も、あたしは何も気にせず遊んでいた。母さんが殺された時も、あたしは何もしなかった」

 そうやって、身近に起きた不幸に対して、私は何もしてこなかった。

「まぁ。あたし一人がいたからなんだって話なんですけど……だからって、何もしなかったのは、変わらないんですよね」

 だから、情けない。

「これまであたしは、何もしてこなかったあたしができることを探してきました」

 たくさんの人を救おうと、看護士になってみた。けど結局、救える人なんて限られた。たとえ医者になったとしても、どうしようもない事態なんて数え切れないほどある。医療とは、そういうものだ。自分は決して、医療の日進月歩を支える立場にはいない。今ある医療の限界まで、必死こいて無様に抗うだけだ。

「自分はこれでいいのかと、自問するような毎日でした」

 そして、自答は出来ない毎日。

「……でも、最近。ようやく答えらしきものが見つかった気がするんです」

 直樹と明日佳を、優と沙紀を、智明と春子さんを、院長と琴奈さんを見て。ようやく、自分の中で納得できる答えが見つかった気がする。

「何ができるかじゃないんです。別に、なにかできなきゃいけないわけじゃなかった。残された者は、幸せになろうとするべきなんです」

 だってそれは、きっと本当は誰もができることだ。

「幸せになるのはもちろんですけど。けどそれ以上に大事なのは、幸せになろうと努力することなんですよ。死んでしまった人の分まで、なんて小奇麗な理由じゃなくて。残されたから、生きていられるからこそ、幸せになりたいと思うべきなんだって」

 自分という存在が、命が、最後に燃え尽きるその瞬間まで。苦しくても、辛くても、どんな理不尽や不条理が襲い掛かってきても。幸せに、手を伸ばして。

「そうやって、生きていくべきなんだって……」

 それが、残された者が唯一できる、恩返し。

「あたし、これから色々とがんばってみます。まだまだ子どもの直樹を支えていかなきゃいけないし、仕事もバリバリこなします。けど、それだけじゃ今までと変わらないから。これからは、あたし自身の幸せも、探してみます。やっぱり、誰かを幸せにするなら、自分が幸せじゃないとダメで、それが、最低条件だと思うから」

 羨むこともなく、むしろ、幸せなあたしを羨まれるぐらいで、丁度良い。

「それに、あたしの周りってカップルばっかなんですもん。それにほとんど年下なんですよ? なんか悔しいじゃないですか。柊弥お兄ちゃん程良い男を見つけられるかわかんないけど。けど、頑張ってみようと思います」

 モクモクと立ち上っていた線香の煙も、次第に治まってきた。線香は灰となり、触ると簡単に、ボロボロになる……それでも、確かに燃えて、煙を放ち、その役目をこなした。

 生まれた意味を、果たした。

「……それじゃ、あたしの初恋と、人生初めての告白はこれにて終了とします。柊弥お兄ちゃん、琴美さん。ご清聴ありがとうございました」

 自分の夫が告白されてるんだから、琴美さんは良い思いはしなかったろうけど。これぐらいの優越は、いいじゃないか。あなたは最後の最後まで、彼を手に入れていた。

 愛する人と愛し合えるなんてことは、それだけで、きっととんでもない奇跡なんだから。

「次はきっと、直樹も明日佳も連れてきます。そんでもって、あたしの結婚報告も持って」

 ……なんか、二人の結婚報告のが早そうだけど、その時はその時だ、うん。

「ああそうだ、それと……院長が、琴美さんの日記を預かってたそうです。私も、読ませていただきました」

 そこに書かれていたのは、一つの家族が確かに幸せに生きてきた、その証と。一つの、名前。

「今度、その名前を刻みに来ます」

 意味の通った、あの二人の子どもとして相応しい名前。

「そんでもって、院長と琴奈さん、そして二人の娘さんも連れてきます。その名前を受け継いだ子を……」

 今度のお墓参りは、すごい大所帯になりそうだ。今回は私一人と寂しかったんだから、それもまた、いいかもしれない。

「……それじゃ、また」

 そう言って、私は墓前から離れ、歩き始める。今度は、もっと明るい報告をしよう。もっとたくさんの人を連れて、嫌がる人も、複雑な気持ちで来る人もいるだろうけど。みんなまとめて。柊弥お兄ちゃんのしたことは絶対に悪くて、許せないことだけど。その末で、幸せを掴んだ人がいるってことを、伝えに来よう。

 あたしの知り合いは、家族は、こんなにも強くて立派な人たちなんだって、伝えに来よう。

「婚活って、何からすればいいんだろうねぇ……」

 ……前途は多難だけど、ね。




・涼森直樹


「おぼぼぼぼぼぼぼぼ!!」

 目に、鼻に、口に。とんでもなくとんでもない量の水流が飛び込んでくる。もちろんそんな衝撃に耐え切れなかった俺は、ゴロゴロと転がりながら木の幹に頭を強かに打ちつけた。

 ……え? なに、これ。

「変わらないわね、ほんと……」

 小旅行にしては少なめな荷物を下ろした明日佳が、山の中にポツンと立った古臭い建物の屋根に立つ女性を見てため息を吐く。

「我が家の歓迎はこれ一択。少なくともあたしが死ぬまで変える気はないね」

「あと何世紀続くのかしら」

「あたしゃ化け物か」

「……いや、誰か後頭部を強かにぶつけた俺の心配に来いよ」

 嬉々として子どもたちが水鉄砲片手にこっちに駆けてくるけど……どう見ても追い討ちする気満々ですよね。


*


「ほぉ~、あんたが瑞穂の弟かい。その割にはさっきは随分と無様だったねぇ」

 タオルで濡れた体を拭きながら、居間のテーブルに着きお茶を飲んでいる妙齢の女性。この人がこの孤児院の院長なのだろう。見た目や言動の荒唐無稽さから見て。

「ドアを開けた瞬間何本ものホースが俺に向けられて一切の躊躇なく水を打ち込まれるとか普通想像できねぇしそんな常識も糞もないことをいい年した婆さんが子どもたちにやらせるとは思ってもみなかったから油断してたってことにしていいですかねこの糞ババァ」

「はっはっは。あれがウチの挨拶なんでね、大目にみてくれ」

「そんな挨拶が交わされる孤児院はどうかと思う。いや、笑い事じゃなく」

 確信した。ここ絶対孤児院じゃない。ソルジャー養成所だ。孤児院の皮を被った軍事施設の主である婆さんには早々に見切りをつけ、俺の反論をまともに聞いてくれそうな明日佳を見る。明日佳は明日佳で、俺がさっきまで子どもたちに狩猟民族顔負けの獲物の追い詰め方で攻められていた俺を無視して、今みたいに落ち着いた様子でお茶を飲んでいる辺り、共犯といえば共犯だが。

「そもそも明日佳さん? わかってたなら止めてくれてもよかったんじゃないですかね」

「だって、まともに成功しないと家に入れてくれないし」

「子どもにも程があるだろ!?」

「てへっ」

「うわっ、俺もよくやるけど傍から見るとすっげぇうざい!」

 自分がやるのと見るのでは大違いだ。人のふり見て我がふり直せとはよく言ったものですね。

「年を考えてからやってよ。見苦しい」

「心はいつまでも十代だから仕方ないんだよ」

「なんで誇らしげにそんなこと言えるんだ、この婆さん。見た目明らかに七十超えて」

「見た目明らかに七十超えてる婆さん今やかんを大きく振りかぶって第一級投げ」

「るなぁぁーー!! そのやかん熱湯入ってるだろ!!」

 おそらく、お茶のおかわりのために用意していたのであろうやかんを手に振りかぶっている婆さんから、そのやかんを奪い取る。フリだけかと思ったら本当に並々と熱湯が入ってる辺り、俺の姉さんよりも質が悪い。

「はぁ……いいねぇ、この言葉の応酬……こないだ智明が帰ってきて以来だよ」

「……よくこんな家で暮らせてこれたよな、おまえ」

「あなたの家もそう大差ないから、傍から見ると同類だから」

「ええぇ~、超心外……」

 俺が本気でそう思っていると、何故か明日佳が深々とため息を吐く。冗談かもしれないが、その冗談への本気具合が違うと思うんだよ、涼森家とこの婆さんは。

「だいぶ言うのが遅れたけど、ただいま」

 明日佳の、その真っ直ぐな帰還報告に婆さんは少しだけ目を見開き、驚いていた。すぐにその驚きはなくなり、婆さんの顔には柔和な笑顔が戻る。

「ああ、おかえり。元気にしてたかい?」

「それなりにね」

「涼森の家はどうだい、仲良くやれてるかい?」

「ええもちろん毎日くんずほぐれず嬌声あげてはエロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞っちゃってま――」

 はい恒例の腹部への強烈なブロー決まりましたよ。

「……すいませんでした」

「それなりに、良くしてもらってるわ」

「……そのようだね。やっぱりあんたを涼森の家に預けるのは正解だったようだね。あたしの目と勘に間違いはなかった。きっとあんたにも智明にも、いい経験になったろう」

「智明さん、未だに瑞穂さんの名前を聞くだけで顔青くして涙目になって落ち込むけど」

「……どんな経験も、人生の肥やしになるもんさ」

「物は言い様ね」

 色々したからなぁ、姉さん。智明さん、家を出る間際には生ける屍になりかけてたし。今度会ったらとりあえず謝っとかないと。

「……それで。用があるんだろう? 何もないのにわざわざ顔を見せるほど、おまえはできた娘じゃなかったろうに」

 ふざけた雰囲気は鳴りを潜め、婆さんの顔から笑みが消える。俺も同様に、わざわざ謹慎が明けた学校を休んでまでこの孤児院にやってきた理由を頭に思い描き、振る舞いを正す。

「……先に、俺からいいですか?」

「なんだい?」

 俺の表情から、これから話す内容が笑いながら語れることじゃないと察してくれたようだ。緊張で思わず一度喉を鳴らした後、搾り出すように声を出す。

「秋宮柊弥を、ご存知ですか?」

「……ああ、よぉく知ってるさ……あたしの、大事な息子だよ」

「……ごめんなさい」

 畳に額を押し付け、土下座する。

「俺が、秋宮柊弥を殺しました」

 血に塗れ、顔を狂気と、抗いようもない後悔に歪ませながら、自分の行いを悔いる彼を。同じように。自分のしたことが許せなかった俺が、せめてもの罪滅ぼしのために。

「あの人の胸に、包丁を突き刺して、殺しました」

 俺の告白を、婆さんは黙って聞いていた。長い、とても長く感じる沈黙。畳しか見えない視界の中、婆さんの「顔を上げな」という短い声だけが聞こえた。躊躇しながらも、言葉通り顔を上げた俺の視界に映っていた婆さんの表情は、あろうことか、笑っていて。

「琴美という人を、知ってるかい?」

「……はい、調べました」

 今まで俺はあの事件に極力触れないように生きてきた。自分のしでかしたことに向き合うのが怖かったからだ。だからその事件の背景も、なぜあのような惨劇が起こったのかも知らずにいた。だから、調べた。どうして秋宮柊弥が公園にいた人間を皆殺しにしたのか。どうして、あんなことをしなければならなかったのか。

 どうして、あんなことができてしまうほどに、壊れてしまったのか。

「柊弥と琴美は、たまたま同時期にこの孤児院に来た子だった。二人とも、両親を事故で亡くしていてね。琴美は特にひどく塞ぎこんでた。だから余計に気になったんだろうね。そんな琴美に対して、柊弥は近づいていった。でも、柊弥が何をやっても琴美は気にもしないで、ずっと泣いてばかりだった。柊弥ももちろん、琴美とは同じ境遇だったのにね……女の子が泣いてるのが嫌だって思える、素直な男の子だったんだ」

 何年も前のことを、つい昨日のことのように話す。幼い頃の二人の姿を脳裏に描いているのか、その表情はとても穏やかで、安らいでいるように見えた。

「……そこであたしは、この本を琴美に渡したんだ」

 そう言って、婆さんは立ち上がり、一冊の本を持ってきた。それは、絵本だった。角はささくれ、紙自体もかなり劣化した古い絵本を見た明日佳が目を見開いて驚く。

「この本……」

「見憶えあるだろう。あんたにも読み聞かせてやったこともある」

「世界を救う、勇者の話……」

 俺はその絵本を受け取り、丁寧にページを捲る。内容は子ども物の冒険活劇。一人の勇者が世界を救うために旅を続け、仲間と助け合い、始めから決まっていたかのような大団円で終わる、ありふれた物語。

「これは昔、あたしの息子が書いた絵本なんだ」

「息子、ですか……?」

「ああ。血の繋がった、実の息子のさ。戦争のせいで、あたしは早いうちから未亡人でね。旦那は出兵しては早々に骨になって帰ってきたから、あたしにはあの子しかいなくて。けどあの子は、生まれつき体が弱くてね。ずっと病院で暮らしてたようなもんだったから、やってたことは本を読むか、絵を描くことぐらいでね。人生で一冊だけ、この絵本を書き上げたんだ」

 本を読み、絵を描き続けることしかできなかった少年が描いた、絵空事の空想劇。少年が外を駆けて冒険する話に、その少年はどれだけの憧憬を込めていたのかが、絵や物語から伝わってくる。

「だからまぁ、誰かに知って欲しかったんだよ。あんな時代に、こんなお話を書ける息子がいたんだよってね。絵本だから近所の子どもに読み聞かせてたら、いつのまにかこんな孤児院ができ上がってた。そして、あの子たちにも読んで欲しくってね。渡したんだ……息子が描いた拙い絵本を読んで、あの子たちが笑ってくれたのを今でもよく憶えてるよ」

 絵本の中の勇者には、特別な力なんてなかった。剣技も、魔法の力も強くない。どこにでもいる平凡な男の子だった。

 けど、彼は世界を救った。誰にも負けない、誰をも信じる心だけを持って。大事な人たちを守った。

「あたしは柊弥に、そんな人間になって欲しかったんだよ。特別な力や技術なんていらないから。誰か一人、たった一人だけでもいいから、大事な人を守れる人になって欲しいって」

 ……けど、彼はなれなかった。自分は病に伏し、たった一人の大事な人は目の前で、理不尽に殺された。

「結局あたしも、何もできなかったんだよねぇ……塞ぎこんで一言も喋らない柊弥を置いて帰ったら、あの子はあんな事件を起こして……」

 彼は許せなかった。理不尽に襲い掛かる不幸を。それを許容する不条理な世界を。自分たちが果たせなかった幸せを、なんの不自由もなく得た彼らを。

「そしてせめてもの罪滅ぼしに、春子と明日佳を引き取って……けど結局、その二人を助けたのもあたしじゃあないんだ。春子は智明が。明日佳は、あんたが助けた……直樹、あんたは謝ることなんかないんだよ。むしろ、あたしが礼を言いたいぐらいなんだ」

 正座になり、腰を曲げ、俺がした土下座よりも深々と、堂の入った動作で婆さんが頭を下げる。

「明日佳を、あたしの娘を助けて、救ってくれて、ありがとう」

 その声はどこか掠れて、涙ぐんでいるかのようにも思えて。

「本当に、ありがとう……」

 違う。違うだろ。そうじゃないだろ。俺は礼を言われる筋合いなんてないんだ。何も褒められることなんかしてない。おかしいだろ。どうして、今こうしてこの人に頭を下げられてるんだ。

「……それは、違うよ」

 俺が否定する前に、優しく、労わるような声色で、隣に座る明日佳が否定する。思わぬところからの否定に、婆さんが驚き顔を上げる。

 そして明日佳は、婆さんの手を取った。

「明日佳、あんた、手……」

「あなただって、私を助けてくれたじゃない」

 人に触れられなかった、人を恐れ、近付くことを恐がった少女は、育ての親の手をそっと、力強く握りしめる。

「いつまでたっても懐かなかった可愛げのない私にずっと、優しくしてくれたでしょ。何もできない無力な私に、誰かを守れるようにって、格闘技を教えてくれたでしょ」

 最初は罪滅ぼしのつもりだったかもしれない。責任感の表れかもしれない。それでも、明日佳にとっては、自身を助け、育ててくれた親代わりの存在で。

「最初に私を救ってくれたのは、あなたでしょ。こんな、しわくちゃな手で、こんな私を育ててくれたのはあなたなんだよ……」

 どれだけ凄惨な事件を経ても、勘違いとはいえ、人から裏切られた経験を持ちながらも、生来の優しさを失わせず、自分を守る術を教えてくれた人に、明日佳は感謝の言葉を紡ぎ続ける。

「何もできなかったなんて言わないでよ……あなたがいなかったら私はどうなってたかわからないよ。罪滅ぼしでもなんでもいいよ。あなたは私を、こんな私を育て上げてくれた。それだけでもう十分、救ってくれたんだよ。私に、私のお婆ちゃんは、もっとずっと、立派な人なんだって、誇らせてよ……」

 明日佳は、婆さんの手を握りしめたまま、涙を流していた。嗚咽すら漏らす程の涙を見て、婆さんの目にも涙が浮かぶ。

「自慢の、お婆ちゃんなんだって、思わせてよ……」

「……ああ、うん……そう、だねぇ……」

 一筋、また一筋と。止め処なく溢れる涙。明日佳の手を握る婆さんの手が震える。震える程に、力が込められる。

「あたしも、こんないい娘を、育てられたんだねぇ……」

 握られた明日佳の手に、何度も、何度もいくつもの皺が伸びる頬を沿わせる。

「柔らかいねぇ……明日佳、あんたの手は柔らかくて、あったかいねぇ……」

「お婆ちゃんの手は……やっぱり、しわしわだね」

 初めて触った、ずっとお世話になってきた大切な人の手を、何度も擦りながら明日佳は言う。

「……でも、暖かいよ」

 二人はそうして、ずっとお互いの手を握り合っていた。

 そういう、家族の姿が、そこにはあった。


*


「……いい家だったな」

「そうね、自慢の我が家よ」

 どこもかしこも空席な車内の中、俺たちは並んで座って、電車が出発するのを待っていた。

「場所は……森というか、森林のど真ん中で不便ではあったけど」

「暮らしていれば慣れるわ」

「定期的に子どもたちが攻撃しかけてくるけど」

「隙を見せるからよ」

 落ち着ける空間ぐらい、家なんだからあって欲しい。

「夜は電灯に寄ってきた虫が網戸にへばりついて、下手したらトラウマものの光景が広がってたけど」

「貴重なタンパク質」

「マジで!?」

「冗談よ」

「無表情で淡々と冗談言うのやめてくれる!? とても判断し辛い! しかもあの家だとありえなくもなく聞こえるから余計信憑性があって厄介だ!!」

 無人の駅舎に俺のツッコミの声が無駄に大きく響く。晩飯に平気でイナゴの佃煮とか出てきたからな。いや、食べ物として認知されてる文化なのはわかるけど。おいしかったけど。

「でも。あそこは普通の家よ。子どもが多くて、親は一人しかいないけど。どこにも劣らない、立派な家」

「まぁ、そうだな」

 一日しか滞在してないけど、それぐらいは理解できた。

「……中々出発しないんだな」

 電車は未だ出発する気はないのか、車掌の姿も見えない。呑気だなぁ、田舎。

「田舎の路線だからね、何もかもがゆっくりしてる」

「ま、急いでないからいいけどな」

 開きっぱなしのドアから風が入り込んでくる。涼しくて心地のいい風は、俺の髪も、明日佳のその長い髪も揺らして、吹き抜けていった。

「……柊弥のこと、嘘吐いちゃったよ」

 孤児院を出る別れ際、あの婆さんが俺にした質問を思い出す。

『あの子は、柊弥は……最後は、笑ってたかい?』

「……嘘は、吐いてないじゃない」

「そう、だけど」

 俺はその質問に、自分が知っている秋宮柊弥が最後に浮かべた表情を思い出して、答えた。

「……俺は、あの事件の顛末をよく憶えてない。罪悪感で一杯になって、とにかくなんとかしなきゃって、無我夢中であの人を、柊弥を刺して。気が付いたら、家のベットの上だったから」

 だから、婆さんの質問の答えは、俺にはわからない。俺に刺された後、彼はどうしたのだろうか。泣きながら、逝ったのだろうか。

 それとも……。

「私だって、何も憶えてない。けど、私たちが知っている彼が最後に浮かべた表情は、よく憶えてる」

 悲しく。けれどそれでも、笑顔だった。

「それで、いいじゃない」

「……ああ」

 そうして、また会話が途切れる。元々、明日佳は積極的に会話を楽しむタイプでもないし。俺も、いつもの軽口が出るほど心に余裕もなければ、そういう空気でもないことだってわかってるから。二人してただ黙って列車の出発を待っていると、誰もいない無音のホームからカツンカツンと、何かを叩くような音が聞こえてきた。

「あら、こんなお若い方がいるなんて」

 ゆったりとした足取りで、熟年の夫婦が列車に乗り込んだ。旦那さんは足が悪いのか、片手には杖を持ち、もう片方の手には奥さんの手を握っていた。

「どうも、こんにちは」

「……どうも」

 俺と明日佳も挨拶を返す。人が恐くなくなったとはいえ、それでもまだ多少のぎこちなさが残る明日佳の挨拶は、どこか無愛想にも思えたが老夫婦の二人には気にならなかったようだ。にこやかに笑いながら、俺たちに話しかけてくる。

「お二人は、里帰りか何かかな?」

「ええ、まぁ、そんなところです。」

「あらそうなの。お二人は、どういうご関係? ご兄妹かしら」

「いえ、もちろん恋人――ではない関係です」

 殺気というか、殺意というか。とにかくそんな感じのどす黒そうな何かを感じて、俺は早急に言論の自由を破棄した。

「……家族です」

 とはいえ、ぶっきらぼうに、不機嫌そうにではあるが、明日佳がそう言ってくれただけで、現状の俺は充分満足で、文句なんか出るはずもない。

「随分仲が良さそうに見えたから、てっきり恋人かと思っちゃったわ」

「そ、そうですか。あはは……」

 乾いた笑いしかできない。すいません、俺が蒔いた種ではありますが、その手のワードが出るたびに俺の寿命が一日減る錯覚を憶えるぐらいの寒気がするんで、勘弁してください。

「それじゃあ、道中気をつけてね」

「あ、はい。そちらこそお気をつけて」

 俺がそう言ったそばから、杖の先が電車の床を滑り、お爺さんの膝が崩れる。

「おっ、と」

「――っ!?」

 思わず立ち上がって手を差し出した。両手のお爺さんの重みが伝わる。重みだけじゃない、人の体の感触、熱が手から伝わって。

 瞬時に脳裏を走る、懐かしい感覚。


 痛い顔を殴られて頭を蹴られて頬を踏まれて。

 嬲られて嬲られて嬲られて殴られて蹴られて絞められて縛られて吊るされて殴られて蹴られて殴られて落とされて踏まれて蹴られて潰されて炙られて切られて引きずり回されて投げられて詰められて殴られて落とされてぶつけられて殴られて殴られて殴られて。

 騙されて騙されて裏切られて騙されて騙されて傷つけられて騙されて裏切られて裏切られて騙されて騙されて騙されて裏切られて。

 裏切った。


「ああすいませんっ」

「申し訳ない。年をとると足腰がどうにも言うことを聞かなくて」

「――いえ、いいですよ」

 震える声。必死な作り笑顔。それらを何とか搾り出し、俺はお爺さんを体を支える手を離した。

「どうもありがとうございました。それでは」

「長い旅になるでしょうけど、ごゆっくり」

 また杖を滑らせないように気をつけたまま、二人の姿が遠ざかっていく。俺はその光景を見ることすら出来ず、体を丸め、両手で体を抱き締める。

「……直樹?」

「…………ごめんなさい」


 ごめんなさいごめんなさい裏切ってごめんなさい怖かったんだ怖かったんだよ痛いのはもう嫌だったんだごめんなさい怖くてしょうがなかったんだよ嫌だもう嫌だ痛いのは嫌だ怖い怖い嫌だ殴られるのは嫌だ蹴られるのは嫌だ怖い怖いからもうやめてよやめてやめてくださいもう砂なんて食べたくない喉が痛いからやめてお願いします痛いのは嫌なんだ怖いんだ裏切られるのは怖いんだ怖いからやめて近寄らないでそばに来ないで裏切りたくないんだけど怖いんだ痛いから嫌なんだ殴らないで蹴らないで信じるから信じますから蹴らないで踏まないでお願いしますごめんなさい裏切ってごめんなさい本当は裏切りたくなんてなかったんだわかってよ怖くてしょうがなかったから怖くて怖くて怖くて怖くて信じられなくて怖いから信じられなくて怖くてだから来ないで触れないでそばに来ないで来ないでお願いだから来ないでください怖いんだ怖がってごめんなさい怖がりたくなんてないんだけど怖いんだ信じられないんだ怖くて怖くてきっと痛いことされるから信じられないから来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで怖い怖い怖い怖い怖い怖い!!


「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、ごめ、ごめんなさ、い………」

 痛みが、苦しみが、後悔が、罪悪感が、いくつもいくつも湧き出て止まらなくなる。自分の腕を握る手の力が緩まるどころか、爪が食い込みかねない程に強くなっていく。ここに、俺が平然と暮らし、息をしていることすら許せない大罪と思える程に、自分が、許せなくて。

「手、出して。ほら……」

 温かい、熱。柔らかい、感触。

「怖くない。怖くないよ」

 自分の腕に爪を立てていた手が解かれる。その手は、明日佳の手のひらに乗せられていて。

「大丈夫だから、ね?」

 優しく、触れるだけの手のひら。

「……ああ、ごめん。ありがとう」

 大きく息を吸って、吐く。その単純な動作を何度も、何度も。動悸と、波立った心が収まるまで続ける。

「悪い、またやっちまった……」

「……まだ、私以外はダメなの?」

「ああ」

 あの世界から帰ってきた俺にはもう一つ、俺自身に帰ってきたものがあった。

「やっぱり、ダメみたいだ。話したりとか、そういうのは平気なんだけど……触れられるのは、怖い」

 記憶だけではなく、あの時感じた想いまでも取り戻した俺には、いくつもの障害ができていた。人に、触れることができない。明日佳以外の人間に触れた途端、過去の記憶が、痛めつけられた頃の痛みや母さんを突き飛ばしてしまった時の後悔や罪悪感が湧き出て、呼吸すら危うくなってしまう。

「情けないな……」

 全部背負うって決めたのに。これじゃ、俺一人で手一杯じゃないか。明日佳を、自分以外の他の誰か一人を背負うなんて、できてないじゃないか。

「大丈夫よ。私とあなたの、立場が逆になっただけじゃない」

「……いや、それが不甲斐ないなぁとか思ってるわけで」

「そもそも、最初っからあなたに全部が全部、なんとかできるだなんて思ってないわよ。まだ私も、あなたも。ただの子どもでしかないのに」

「でも、それでも俺は……」

 繰り返し失う罰を放棄して、そうして受け入れる覚悟を決めた罰ですら、俺は満足に果たすことは出来ないなんて。

「だから、今のあなたには期待なんてしてない」

 明日佳と握られた手に、鈍い痛みが走る。その痛みは、明日佳が握る手に少しだけ力を込めただけのもの。

「時間がかかってもいい。ゆっくりでいいから。これから少しずつ、背負ってくれればいいよ」

 人と手を握るだけでも、多少の痛みはある。柔らかく、気持ちのいいだけじゃない。腕にかかる重さも、摩擦を生まれていく。その重みを、熱を、俺は耐えてかなければならない。でも、そんなことは、誰もがやって、続けてきたことで。

「私は、一生待ってるから」

「……ああ」

 今はまだ無理でも。きっと、なんとかしてみせる。間かかるかもしれないけど。けど、なんとかしてみせるから。

「帰ったらやらなきゃいけないことたくさんあるんだから、立ち止まってる暇なんてないのよ?」

「そうだな、やりたいことだって一杯ある」

「まず部活のみんなに謝る。そして全部洗いざらい話して、協力してもらわないと。今度は私じゃなくて、あなたの、だけど」

「あいつらなら、きっと手伝ってくれるよな」

 優とは、一度喧嘩して以来会ってないもんな。謝らないと。沙紀ちゃんにも心配かけたし。孝志にも、礼を言いたい。姉さんにだって、話したいことが一杯ある。父さんにも久しぶりに電話しよう。相談したいこと、報告したいことが一杯ある。

 ……母さんにも、報告に行こう。ずっと、行けなかったけど、墓前に立って、ちゃんと自分の口で、伝えに行こう。頑張るって。こんなにも情けない俺だけど、生きていくって。それと。

 大切にしたい人を、見つけたって。

「第二天文部も、ちゃんと活動しないとな。学校に掛け合って天体観測できるようにしようぜ。そしたら春子先生に頼んで、部費が下りるようにしてもらってさ、天体望遠鏡も安いのでもいいから買っちゃおう」

 不安がない、と言ったら嘘だ。嘘でしかない。不安だらけで、心の中には暗雲しかない。

 それでも。

「肉眼で見るだけでも綺麗だけど、きっと、それは楽しいよ」

「……ええ。やりたいこと、一杯ね」

「ああ」

 全部背負うって、決めたから。この背で、頼りないけど、背負うって誓ったんだ。

 そうやって生きていくって、誓ったんだ。

「……少し、眠くなってきたな」

「昨日、夜遅くまではしゃいでたからよ」

「寝ようとすると、あいつら闇に紛れて攻撃してくんだもん」

 おかげで一睡もしていない、眠気でぼやけた頭に時折開いた窓や扉から入り込む風が心地よく、その風が木の葉を揺らす音や、小鳥の囀りが気分を穏やかにさせる。そして何より、隣に座る、心から信用できる、信用したい存在がいることが、嬉しくてたまらなくて。

「寝てもいいわよ。時間なら、たっぷりあるし」

「……なぁ、肩、借りていいか?」

「……ええ」

「悪いな」

「いいわよ、別に」

 明日佳の肩に、頭を乗せる。彼女の長く黒い髪の毛に、日の光が反射してキラキラと光り輝いて、綺麗で。

 その光の束から香る匂いが、涙が出る程、良い、香りで。

「……私も借りるから」

「ああ……」

 俺の頭に、何かが寄りかかる感触。それは、きっと明日佳が俺の頭に、自分の頭を乗せた。今は、こうして、寄り添ってるけど。いつか、必ず背負って歩いてみせるから。

 だから。

 今だけは、このまま……。


*


「……あら。ほら、見てくださいよお爺さん」

「ん?……ほぉ」

「うふふ、いいものを見せてもらったわね」

「ああ、あの二人、自分たちでは家族って言ってたけど」

「ええ。まるで、とっても仲の良い、恋人みたいだわ」




 四章  了


たぶんこれからも、きっと直樹は定期的に殴られるでしょう。殴られてくれ、頼む。

さて、ようやくこの長ったらしい物語も終わりの終章へと辿り着きました。文庫本換算でだいたい五冊ちょっとものそれなりに長いお話ですが、できれば誰もに納得できる終わりになればと思います。

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