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Recall  作者: ツナ缶
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16/19

四章 6

幼馴染美少女とのドタバタラブコメティー「Recall」はっじまっるよー!

…………いや、すみませんでした。

・涼森直樹



 誰かが俺を呼んでる。

「……てよ。もう……」

 まだ覚醒を迎えない意識に向けて、ゆっくりと、けれど確実に侵食していく声。

「起きてよ。もう朝だよ」

「ん……」

 目を開けると、黒くしなやかな髪が視界に飛び込んでくる。その髪は、朝の強烈な日差しを遮ぎってくれていた。

「やっと起きた。ほら早く着替えて。学校遅れるよ?」

 俺の顔を覗き込んでいたのか、長く伸びた彼女の髪の毛の毛先が顔にかかり、少しくすぐったい。けれど、それは全く嫌ではなく。むしろ朝から彼女の髪の香りがして、これ以上なく素晴らしい目覚ましとなっていた。

「ああ、そうだな。悪い。『明日佳』」

 彼女は君河明日佳。隣の家に住んでいて、生まれてからの長い付き合い。俗に言う幼馴染という奴だ。

 そして。

「悪いと思ってるなら改善しようとしてよね、もう」

 極端に寝起きの悪い俺を毎朝こうして起こしに来てくれる世話焼きで。

「そうなんだけどさ、やっぱ嬉しいんだよ。目が覚めて最初に見るのが明日佳なのが」

 俺の、大切な彼女だ。

「……もう。そうやって言えば私が黙ると思ってるんでしょ」

 両手を組み、すでに学校の制服に身を包んでいる明日佳は俺を半眼で睨みながら言う。

「思ってねぇよ。素直な感想言ってるだけだろ?」

「はいはい、その感想を素直に受け取れない捻くれ者でごめんなさいね」

 そう言って優しい微笑を浮かべる。いっつも一緒で、だからこそこんなにも居心地がよくて、こんなにも大切な存在。

「いつものお世辞タイムはこのくらいにして。ほんと時間ないんだから、ほら着替えて着替えて」

「お世辞じゃないってのに。いつまで経っても俺のお姫様は俺の愛を受け入れてくれませんねぇ」

「そういう歯の浮くセリフをさらっと言うから説得力ないんでしょうが」

「なるほど、んじゃ次はもっと緊迫した雰囲気の中で言うから」

「普通に暮らしてれば早々起きないからね、そんなシーン。漫画の読み過ぎ」

「少女漫画フリークのおまえに言われたくないなぁ……」

「あーもうっ! いいから早く準備してよっ。また私まで遅刻しちゃうでしょ!」

 なら俺を置いて、先に登校すればいいのに。と毎回思わなくもないが、こいつの世話焼き精神がそれを許さないのだろう。これ以上駄々をこねるのもやめて、素直に起きるとしよう。

「はいはいわかりましたよ。んじゃ着替えるから……それとも俺のお着替えシーン、一部始終見てく?」

「見るかバーカ!」

 毎日やってるんじゃないかってぐらいの会話でも、わざわざ顔を真っ赤にして声を荒げて、明日佳は部屋から出て行った。

「ま、そういうとこが可愛いんだけどね」

 イジリ甲斐があるというかなんというか。しっかり反応をしてくれるからこそ、ボケたりふざけてしまうわけで。

「さてとっ、んじゃさっさと準備しますかね」

 こうして俺、涼森直樹の一日はいつも通り始まった。


*


「いや~毎度毎度悪いな。起こしにきてもらった上に飯まで作ってもらって」

「別に、料理は好きだからいいよ。それに、悪いって思ってるなら自分で起きてよね」

 早々に登校の準備を終わらせた俺は、明日佳と並んで通学路を歩いていた。時刻は登校するには遅くもなく早くもない時間。そのためか、周りには俺ら以外の生徒の姿も多く、道はそれなりに混んでいる。

「いやいや、それだとおまえに起こしてもらえないじゃないか」

「起こしてもらうのが誰だって変わらないでしょ。あんたの場合」

「何を言うか。今の今まで俺が目覚まし時計とかの電子機器を使って目覚めたことがあったか!?」

「自信持って言うことじゃないよ」

「やっぱ人に起こしてもらうのが一番嬉しいんだよなぁ。こう、なんだ。ぬくもりというか温かみというか……」

「だからって毎朝私が来るまで頑として布団から出ようとしないのもどうなのよ。一度私が風邪引いて起こしに行けなかった時、あんた夕方まで寝こけてたでしょ」

「ああ……あれにはびっくりした。カラスの鳴き声で目を覚ますってのは、妙に不吉な一日を予感させたよ」

 夕日の鮮やかなオレンジ色の光で目が覚めるという経験は、中々に空虚感を誘うとその時になって知ったものだ。

「すでにその一日の半分が過ぎてたわけだけどね」

「その後ちゃんとお見舞いに行ったんだからいいじゃないか」

「『ちゃんと』なんて言葉を使うなら、ちゃんと学校に行きなさいよ。まったくもう……」

 こういう呆れた物言いを聞くようになって、もうどれくらいになるだろうか。昔は……明日佳は物静かで引っ込み思案というか、自分からあまり前に出たがるようなタイプではなかった。それが今じゃ、こうして俺に対してもズバズバ自分の意見を言い、クラスでも中心的な存在となっている。そりゃ、年を取れば人間変わっていくものだけど。基本的な、明日佳の優しさや強さが変わらないのなら、俺としては困ることではないし。むしろ、良いことだと思える。

「まぁとにかくさ。悪いんだけどこれからも起こしてもらいたいな。好きな女の子に朝起こしてもらえるのは男のロマンだからさ」

「……だから、そういうことサラッと言わないでよ。反応に困るじゃない」

「全部本当のことなんだからそれこそさらっと受け取ればいいんだよ」

 そう。全部本当のこと。

 俺たちは早い段階から自分自身の気持ちに気づき、こうして彼氏彼女の関係も高校二年の身でありながらすでに二桁に到達している。普通、漫画とかだと幼馴染同士がくっつくような場合、昔からの気持ちに気づかずにモヤモヤ、とかなんとかで一悶着あるもんだけど。俺たちの場合はさっぱりそんな気配は欠片もなかった。長い間ずっと一緒にいるもんだから、そりゃ昔は散々周囲にからかわれたりもしたもんだ。

「簡単に言わないでよ。私は直樹と違って恥も外聞も持ち合わせてるの」

「ただの照れ屋なだけだろうに」

「うっさいわね」

 こうして、少しからかっただけで不機嫌になるのも昔からちっとも変わらない。そのくせすぐにその怒りを治めてしまうのだから、我が彼女ながら単純というか。

「まぁそういうところが大好きなんですけどね!!」

「いきなり大声で何叫んでんのよっ!!」

「いやぁつい」

「ああもう恥ずかしい! ほらみんな見てるじゃない!」

「ああ……うん。確かに見られてるけど。みんな『またか』みたいな呆れた目をしてるから、別にいいだろ」

 日常茶飯事過ぎて、もう誰も突っ込んでこないし、おかしいと思うことすらないらしい。

「ちっともよくないよっ! もう先行くからねっ!!」

 恥じらいが臨界点を突破したのか、顔を真っ赤にして通学路を爆走する俺の彼女。

「……ああ」

 思わずにやける顔を誰かに見られないよう、空を見上げる。

「幸せだなぁ」

 そう呟いても仕方がないくらい、俺は幸せだったんだ。


*


 ただいま授業中。サンサンと照りつける日差し。その光線を一身に受ける窓際の席。隣に座る明日佳がノートにペンを走らせる音が耳に心地よく響く空間。

「……眠い」

 カツカツと小気味のいい音を立てながらチョークが踊る。その軌道から描かれる文章を段々と瞼が落ちてくる視界で収めようとするのだが……。

「………………眠い」

 睡眠時間が足りないわけではなく、単純に、今この状況が眠気を誘う。

「ダメだダメだ。寝ちゃダメだ」

 そう呟いて意識をはっきりとさせようと努力してみるが。

「……………………………………………………………………………………はっ」

 今、寝てたよな、俺。時計を見ても自分がいつ気を失ったか憶えてないのでどのくらい寝ていたのかわからない。どちらにしろ先生に注意されなかったのは不幸中の幸いとしか言いようがない。

「このままじゃダメだ。何か、何か考えるんだ」

 考え事をして意識を取り戻そう。何かこう、哲学的というかとにかく難しそうなことを考えて…………今こうしている自分という存在。それは果たして本当に今この瞬間此処に存在していると言えるのだろうか…………ダメだ。これ俺のキャラで考えて答えが出る問題じゃない。そもそもこれって図書室で明日佳を驚かせようとして小難しい哲学書を読んだ時、その本に書いてあったやつだっけ……。(もちろん失敗した)あれ? 答えというか、著者の見解らしきものが載ってた気がするんだけど……デチャルト? テカリト? なんかそんな語感の名前の人だったような……。

「………………………………………………はっ」

 あれ? 今俺寝てた? それとも時間が経つのを忘れるほど熟考してた……あ、口の端によだれがついてますね。これは寝てましたね。垂れる前に起きてよかったですね。ダメだ。俺の考え事にするには哲学はレベルが高すぎる。結局何が何だか読んでもさっぱりだったもんな。やめだ、やめ。

 さて、そうなると何について考えよう。というか、もうこの「何について考えよう」ってのがすでに考え事な気がするけど……まぁこんなのじゃすぐに寝る。あ、もう瞼落ちてきた……。

「だから寝るな~~……」

 そうだ。一人で悶々と考え事なんかしたってダメなんだ。他の存在が介在することによって自己の意識は明確化されるのだから。無駄に高尚な言い回しは昨日呑んだ哲学書の影響か?

(ねぇ、さっきから一人で何やってるの?)

(……さすがクイーンオブグットタイミング)

(は?)

 こうして明日佳はいつも、俺に対して良いタイミングで助け舟を出してくれる。俺はできる限り小声で明日佳に話しかける。

(眠いんだ。すっごい眠いんだ。なんとかしてくんない?)

(なんとかって……授業に集中すればいいでしょ。そうすれば眠気なんて沸かないわよ)

(はぁ……あのなぁ、それじゃダメなんだって。わかるだろ?)

(なんであんたがこっちを諭すような口調になってるのよ)

(とにかく眠くてしょうがないんだよ。少しでいいから付き合ってくんない?)

(いやよ。あの先生板書早いんだから、のんびりしてるとわからなくなるし)

 こうして小声で会話しながらも明日佳の指は巧みにペンを動かしている。器用な奴だな。俺なんて今回の授業で一回もペンを握ってないというのに。まぁ、間違いなく俺の方がおかしいわけだが。

(寝そうになったら起こしてあげるから。少しは自分でも努力しなさい)

 これまで自分でその努力とやらをしてたのですが……結果が伴ってないんだから意味なんてないですね、すみません。

(邪魔にならない程度でいいからさ、少し話そうぜ。な?)

(すでに充分邪魔になってるんだけどね……はぁ。まぁいいや)

(え? いいの?)

 ため息を吐きながら、明日佳が今まで走らせていたペンを机に置いてしまう。

(あの先生板書の量は多いけど、その大半はテストに出さないのよね。これぐらい写しとけばなんとかなるわ)

(へぇ~~)

(……あんたもこういうことは気にしときなさいよね。また期末の時に泣きついてきても知らないんだから)

(何を言うか。テストのことに関して俺たちはギブ&テイクの関係じゃないか)

(は? 私がいつあんたに教えをこいたのよ)

(保健体育について、一晩中おまえの体に直接叩き込んであげたじゃないか)

(……私まだ処女だけど?)

(…………あの、冗談に対してそうはっきり言われると、とても反応に困るのですが)

(何よ、あんたが手を出さないってだけの話でしょ)

(あー……まぁそうなんだけど)

 ……というか、俺たちはいったい授業中だというのに何て話をしてるんだ。

(だって、ほら。それは『約束』だろ?)

 俺たちが末永く、心身ともに健康に過ごしていくために決めた、いくつもの約束事。その内の一つを思い出し、言ってみると明日佳はまた呆れたようにため息を吐いた。

(……そうだけどね。あんたも、普段おちゃらけて意志薄弱の権化みたいな人間なのに、妙なところで意地張るんだから)

 サラリとひどいこと言いませんでした? このお嬢さん。

(だって、俺が自分で決めたことだからな)

(……ま、まぁ。あんたのそういうところ、嫌いじゃないけどね。むしろ……)

(ん? むしろ?)

(なんでもない)

 思わず口走りそうになったのか、明日佳はごまかすように前を向いた。話をこれ以上はする気はないのか、目線を真っ直ぐ前に向け、こちらを見ようともしない。黒板の文字をノートに写す作業を再開したようだ。ならば好都合と、俺はその前を向く明日佳の横顔を肘を机に着き、頬に手を当て眺めていた。こうして黙って会話もせず、明日佳の顔をじっと見るという機会も中々ない。

 整った顔立ちにキリっとした目。美人的な様相の中、ふとした時に見せる笑顔は可愛く、どちらの要素を持つ外見。太ももまで伸びた漆黒の長い髪もその美しさを際立たせるパーツであり、またそれ単体でも充分、美を現せるぐらいに澄んだ線の集合体。

 ……見れば見る程、考えれば考える程。俺が明日佳と付き合えているのが、彼氏彼女恋人の関係になれたのか不思議でならない。確かに、生まれた時からの付き合いで、ずっと長いこと一緒の時を過ごしてきた。けど、それだけじゃない。長い間一緒にいた人なんて明日佳ほどじゃないにしろ他にもたくさんいる。明日佳にとっても、俺以外にたくさん人と関わり、生きてきた。

 その中で、どうして俺だったのか。俺だけが、明日佳の恋人というたった一つしかない椅子を勝ち取れたのか。

 ……直接聞いた方が早いか。

(なぁ)

(何よ)

 小声で話しかけても明日佳は俺の方を見ずに、黒板の文字を目で追いながらおざなりに返事をする。そういう対応にも慣れたものなので、俺は気にせず、自分の聞きたいことを聞くことにした。

(なんで俺のこと好きなの? おまえ)

「はぁ!?」

 顔を真っ赤にして、椅子から飛び上がるようにして立ち上がって、俺を見る。今は授業中で、教師が教壇に立って話をしている最中なのだから当然、クラス中の注目が突然大声を上げて立ち上がった明日佳に向けられることになり。

「あ……」

「どうした君河。何か私の授業で納得いかない箇所でもあったか?」

「い、いえ。何も、ないです」

「そうか。なら急に声を上げるな」

「すみません……」

 頭を下げて静々と着席する明日佳。顔をこれ以上ない程に真っ赤にした明日佳に、俺はもう一度聞きたいことを聞くことにする。

(何いきなり大声上げてんのおまえ)

(あんたがいきなり変なこと聞いてくるからでしょうがっ!!)

 小声で怒鳴るって、器用だな。

(別に変なことでもないだろ)

(いやいや変だから、充分変だから)

(なら変なことでいいや。で、なんで?)

(なんで、って……)

(一度考えたら気になっちゃってさ。で、なんで俺のこと好きになったの?)

 自分で言うのもなんだが、俺に良いところってあるのだろうか。勉強ができるわけでもない。運動神経が特別良いわけでもない。親父に幼い頃から習わされ、今でも通っている格闘技の道場のおかげもあり、他の同年代の男子よりも腕っ節には自信があるが、精々それぐらいだ。まさか明日佳がその腕っ節に惚れている、なんてことはないだろう。それなら、俺以上の存在なんていくらでもいるのだから。

(う、それは、その……こ、こんなところで言えるわけないでしょっ)

 確かに、さっきの明日佳の大声のせいで俺たちは妙に注目されてる気がする。こうして小声で話しているのすら、誰かが聞き耳を立ててそうだ。

(そ、その。後で言うから……)

(ん、わかった)

 顔を真っ赤にして照れてる明日佳を見るのはもう、本当に、ほんっとうに楽しいけど、やりすぎるのは俺の思想に反するしな。これぐらいで話を切り上げとこう。精神的Sは行き過ぎるとただの性悪でしかない。引きどころを見極めることも大事だ。

 そうして話をしていると授業も終わりに近づいてきたのか、先生は板書もせず他の生徒たちと授業とは関係ない話をしている。ならばこれ幸いと、俺はほんのり冴えかけてた意識をまた太陽光線の熱に溶かすように、目を閉じて眠ることにした。


*


「さて、飯どうするかな」

 昼休みの時間は多くない。悠長にしているとすぐに次の授業の時間になるから余裕もないわけで。

「……ねぇ、本当にいいのよ? 別にお弁当一個作るのも二個作るのもたいして手間は変わらないんだし」

 教室を出ようとする俺に、明日佳が声をかけてくれる。気持ちは嬉しいが、明日佳はこっちがどれだけ言っても、弁当の材料代を受け取ろうとしない。決してタダではないのに、そしてその材料費は自分の小遣いから出しているのに、頑なまでに受け取ろうとしない。それならば、と。俺は昼食は自分で用意するようにしていた。

「いいって、普段から世話になってるんだからこれ以上は、な。こっちは適当に済ますよ。ほら、友達待ってるぞ」

「あ、うん」

 勉強もできて運動神経も良い。料理もうまくて家事全般もそつなくこなし、性格も人当たりがよく誰からも好かれる。そんな完璧超人でもある明日佳の傍には、そりゃもうたくさんの同姓の友達がいるわけで。

「いい? ちゃんと食べるのよ。ご飯抜いていいことなんて人間何一つないんだからね」

 そんな、同年代の多感な年頃の女性に対して軽く喧嘩を売るようなことを言う。

「……それあんまり、友達に言うなよ?」

「え、なんで?」

「嫌味みたいに取られるだろ。私は食べても太らないって公言してるようなもんだ」

「私だってダイエットしてるわよ」

「え? 嘘、どこが?」

「もちろん見えないところで、よ。しっかり食べて、しっかり運動する。これが一番なの」

 ……それってダイエットっていうより、現状維持なんじゃ……。

「とにかく、あんまり言わないようにな」

 ただでさえ妬まれてもおかしくない容姿してるんだからさ。


*


 明日佳と別れた俺は一人寂しく、量と値段は申し分ないが、いかんせん味がイマイチなことに定評のある学食へ足を向けた。出遅れたせいか席はだいぶ埋まっている。とりあえず先に食券を購入し食堂のおばちゃんへ見せる。頼んだのは無難なところのかけうどん。乗せる具を選べる中、今日は少し奮発してかき揚げを頼んでみた。仕事慣れしたおばさんたちの絶妙なチームワークですぐさま運ばれてくるどんぶり。お盆の上に乗せる時に勢い余って汁が多少こぼれる辺りも、学校の食堂らしいっちゃらしいよな。

「さて、どこで食うかな」

 見回すと空席はいくつもない。そうなるとおのずと座る席など限られてくるんだけど……。

「おーい、こっちこっち」

「ん?」

 聞き憶えの声がする方向に目を向けると、一人の男が俺を見て手を振っている。

「ちょいちょい、お嬢さん」

 俺は近くにいた、おそらく下級生であろう女の子に声をかける。突然見知らぬ男に声をかけられた彼女は、驚きながらも応対してくれた。

「え? な、なんですか?」

「あちらの方が君とランチを一緒に取りたいそうなんだけど、どうかな?」

「え、えっと……すみません。遠慮します……」

「ああうん、いいんだ。いきなり変なこと言ってごめんね」

 ぺこりと頭を下げて去っていく女の子に軽く手を振り、声を上げていた男の傍の席に着く。

「ダメだってさ」

「なんでオレ無駄にフラされた!?」

「いやぁ、つい」

「何照れてんの!? ほんと何照れてんの!?」

「だってあの子がおまえのこと見てたからさ……」

「おまえに呼びかけたんだからその近くにいたあの子がこっちを見てもなんらおかしくないじゃん! 理由それだよ! それ以外に彼女がオレを見てた理由なんてないよ!!」

「……おまえ、それ自分で言ってて悲しくない?」

「そんなことよりこの状況下が一番悲しいわ!!」

「と、騒がしくしてるのは俺の友達の日比谷孝志。中学校からの付き合いで性格は見ての通り、クラスでのポジションも見ての通りって言ったところかな」

「何いきなり隣の子にオレの紹介始めてんだよ!!」

「いやぁ……」

「だからなんで照れるの!?」

 日比谷孝志。落ち着きなし。成績満年最下位クラス。一言で表すとバカ。二言で表すとすごいバカ。古文で表すといと愚か。この学校に入ってからの付き合いではあるが、からかうと面白く、普段の趣味や性格も合っていて良く一緒にいる相手だ。

「ああ、くそ、やっぱり直樹なんて呼ぶんじゃなかった……」

「まぁまぁ、俺のために席取ってくれてありがとうって言ってあげるから機嫌直せよ。からあげうめぇ……」

「どうして上からの発言になったのか不思議でしょうがない。ってなんで人のからあげ食ってんだよ!!」

「物々交換だ。ほら、この七味をあげよう」

「それ各テーブル備え付けのやつじゃん!」

「まぁまぁ。後で醤油を大量に入れた水っていうコーラおごってやるからさ」

「ただの醤油水じゃねぇか!」

「しょうがないな。ほら、かきあげ一口やるから機嫌直せよ」

「最初からそうしてくれればいいのにさ……」

「あ、からあげとかきあげって一文字違いだな」

「どうでもいいよ……」

 うーん、俺の周りにはからかうと面白い奴が多いなぁ。明日佳にしろ孝志にしろ、こんなにも打てば響くとこっちもやりがいがあるというか、つい、ね。

「しっかし、おまえが食堂来るなんて珍しいな。普段昼休みだろうがなんだろうが明日佳ちゃんと一緒にいるのに」

「別に年がら年中一緒にいるわけじゃないぞ? あいつにだってあいつの付き合いがあるんだから」

 そりゃ確かに長いこと一緒にいて過ごしてきたけど、俺には俺の、明日佳には明日佳の付き合いってものがある。同姓の友達ってのは恋人の有無関係なく、あるに越したことはない。

「へぇへぇ。さすが名物カップル。もはや恋人というより夫婦みたいな関係だな」

「いやまぁそうだけどさぁ」

「ここで認めるどころか惚気るのか。すげぇ……」

 いや、まぁ、事実だし。特別惚気てるつもりはないが、謙虚な態度を取ったところで難癖付けられることもあるのだから、いっそ開き直るようにしてる。

「くっそぉ……どうしてこんな下衆野朗にあんな可愛い彼女がいるんだよ……世の中間違ってるだろ……」

「あー、まぁ、それは俺もたまに思うよ。けど人から言われるのは単純にイラっとくるな」

「どうせあれだろ!? 学校では節度保ってイチャイチャして、一度家に帰ればエロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞っちゃったりしてんだろ!? 普段はお姉さんチックな明日佳ちゃんも、ベットの上では『や、優しくしてね……』とかって瞳に涙溜めて言っちゃったりしてクハァァーーーー!!」

 血走った目で、公共の場でありながらそんなことを叫ぶ孝志を、食堂中の生徒が気味悪がって見ていた。

「……俺が何もしなくても、自分で勝手に自分の価値落としてるよな、おまえ」

「そんなことねぇって。大抵おまえのせいだ」

「……どうだか」

 いや、こいつが言ってることも間違ってないけどね。全部が全部俺のせいか? と聞かれるとさすがにそれは違うと思う。

「そもそもなぁ、別に家に帰っても変わらないぞ、俺たち」

「……エロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞っちゃわないの?」

「ねぇよ。あとさっきから何そのフレーズ、気に入ってんの?」

 語感が良くて、つい俺も使ってしまいそうになる。とはいえ、エロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞ってはいないことは事実なわけで。

「……嘘だろ? おまえら何歳だ? 思春期真っ盛りの男女が付き合っててエロスのエの字もないって……もう倦怠期?」

「普段の俺たちを見ろ。倦怠期なわけがないだろ」

「わかるけどさ、だからこそ意外なんだって」

「別に、付き合ってるからってそういうことやらなきゃいけないわけじゃないだろ?」

 学生らしい、節度ある付き合いをしているのに文句を言われる筋合いはない。

「そりゃまぁ、義務でも何でもねぇけどさ…………あ、もしかして…………不能?」

「からあげうめぇぇぇぇーー!!」

「冗談です冗談悪質な冗談で申し訳なかったですから次々とオレのからあげ食わないでぇぇぇ!!」

 口一杯に放り込んだからあげを全部咀嚼し終わった後、水を飲んで一息吐く。

「ったく、そんなわけないだろ。しっかりしてるよ。うちの息子は」

「だったら尚のこと、なんでだ? まさか、明日香ちゃん処女ってことはない、よな……?」

「………………」

 急に確信を突かれ、思わず何も言わずに沈黙してしまう。そんな俺の反応だけで小癪にも読み取ったのか、孝志も数秒沈黙する。

「……え? マジ?」

 再度問われても答えることは出来ずにいたが、それが何よりの肯定だと判断されたのか。突然、孝志は持っていた箸をテーブルに叩きつけ、勢い良く立ち上がり。

「興奮してきたああああああああああ!!」

 数分後。

「はい……はい、すみません。公共の場で騒いですみませんでした。はい、ほんと、ごめんなさい」

「ねえ、なんであの人食堂のおばさんたちに土下座してるの?」

「さぁ……とりあえず写メっとこっか」

 パシャパシャと携帯カメラのシャッター音が鳴り響く食堂。土下座を繰り返し続ける孝志。構わずうどんをすする俺……ほんと、なんなんだろうね、この状況。

「あー……疲れた」

「ごちそうさま」

「オレのからあげがまるごとなくなってる!!?」

「ああ、クラスの奴らが来て、みんなで一つずつ取ってった」

「なんで止めてくれないの!?」

「いやいや、先導したの俺だぜ? 無理だって」

「尚更なんで!?」

「まぁほら。ちゃんと残してあるだろ?」

「レモン一切れだけがしっかりとなぁ! むしろ嫌がらせで残してるだろ!!」

「いや、みんないらないって」

「まともな理由だったな……いや、まともか?」

「でもほら、それレモン一切れ分のビタミンC入ってんだぜ?」

「当たり前だろ!!」

 これまでずっと食堂のおばさんに説教されていたのは孝志の自業自得としか言いようがないが、とはいえ俺もいくつかこいつの昼食を食べてしまっていたことは事実だ。仕方なく、俺は食堂の近くに隣接した購買に行き、売れ残っていたあんパンを買って孝志へと手渡す。

「パン一個でオレの気が済むと思ったらムグムグ、大間違いモグモグだぜ?」

「ホクホク顔で何を言ってるんでしょうね、この人」

 昼休みは残り少なくなり、ぼちぼち食堂からも人がいなくなって、空席が目立つようになってきた。

「でさぁモグモグ、さっきの話モグモグに戻るけど」

「食べ終わってから話せよ」

「ゴクン。で、なんで明日佳ちゃんに手ぇ出してないわけ? あそこまで仲の良いカップルだってのに、キス止まりって何かの罰ゲームとしか思えないぞ」

「罰ゲームって……別に、そこまで悪い状況でもないぞ」

 ……そもそも、キスすらしてないことは黙っておこう。たぶん、さっきと同じような展開になって、昼休みが終わる。

「いいや、罰ゲームだね。思春期の性欲真っ盛りなこの時期そんな苦行を強いられてるだなんて、ドMか」

「Mじゃねぇよ。どちらかと言うとSだ」

「しっかし。付き合ってもう二桁いくだろ、おまえら。それなのに未だ、なんて。まぁあれだけ可愛くて綺麗だったらそれぐらいの身持ちで丁度いいのかもしれないけど」

「あー、その、な?」

 明日佳が拒んでいる、という認識は誤りだ。そこは、一応あいつの名誉を守るべく訂正しておくとしよう。

「別に、あいつが拒否してるわけじゃないんだよ。俺の勝手な都合で、な」

「…………ああ?」

「な、なんだよその目」

 血走ってるというか、瞳孔開きすぎて人類の目に見えないぞ。

「…………バッッッッッカじゃねぇの?」

「おまえにしみじみ言われるのも侮辱としか思えないけど、否定はできないな」

 一般的で健康な男子として、色々と無理をしてる実感は俺にだってある。

「……一応な、ちゃんとした理由はあるんだよ」

「不能以外に?」

「蹴り上げるよ?」

「どこを!?」

 身を竦ませて両手で股間を守る孝志。なんだ、わかってるじゃないか。

 まぁ、こうしておちゃらけた奴だけど、口はけっこう堅いし、信頼はできるか。

「実は、俺と明日佳って兄妹なんだ」

「……は?」

 今日一番の「こいつ何言ってんだ?」といった感じの反応をされる。面と向かってこのことを話すのは孝志が初めてではあるが、こういった反応は予想出来ていた。

「兄妹って言っても義理だけどな。父親も違うし、母親も違う。まるっきり赤の他人だ」

「……でも兄妹、なんだろ? 何かしら関係があるんじゃ……」

「いや、何もない。本当に赤の他人なんだ」

 もし、俺と明日佳に、例えば血縁関係とか、とにかくそういう関連性があったら、もっと話はこんがらがっていたかもしれない。けれど、そういう関連性があったなら、明日佳はもっと生きやすく、幸せな幼少時代を送れたのかもしれない。そう考えると、心中複雑ではある。

「……孤児なんだよ、明日佳は」

 明日佳の親を俺は見たことがない。そもそも顔が見たいとも思えないし、もし出会ってしまったらその場で傷害事件を起こしてしまえそうなほど、憎んでいる。

「孤児院に無理矢理押し付けたんだ。できてしまって、産んでみたけどやっぱり育てられないってな」

 まだ立ち上がれない幼児が、粗末な毛布に包んで。無計画な生殖行為の果てに。確かに産み落とされた命が、『いらない』と勝手に括られて捨て去られた。

「それから何年かして、うちの両親が引き取って育てたんだ。だから、正真正銘赤の他人」

「けど、義理とはいえ兄妹なんだろ? だったら赤の他人ってのはさすがに言い過ぎじゃないのか? 引き取ったっていうなら、戸籍も一緒で、苗字だって同じになるんじゃないのか?」

「……まぁ、こっからさっきの話に繋がるんだけどさ」

 説明するために、一度自分で今の状況やこれまでの経緯を思い出してみると、我ながら……なんて面倒な事態を経てきたのかと感心する。

「晴れて兄妹となった俺たちだけど、結局今は付き合ってるだろ? うちの親に関しては、そういうのに寛大、むしろバッチコーイというか、まったく考えてないというか、放任主義の極みでな。特に何も問題はなかったんだけど」

 むしろ、俺と明日佳が意を決して交際の事実を両親に伝えた時の第一声が「ですよねー」だったのには、さすがに親としてそれはどうなんだと思った。

「とはいえ……世間はそれを許してくれないわけだ」

 幼い頃からずっと彼氏彼女。いわゆる恋人関係となっていると、周囲にはそれはそれは思春期らしく、孝志の言葉を借りるとエロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞ってるんじゃないかと、勘ぐられることもあった。

「聞いたことあんだろ? 明日佳の噂」

「まぁ、な。妬まれても仕方ないぐらい美人だから、仕方ないっちゃ仕方ないけど」

 妬みや嫉みを買うのは美人の宿命ではあるけど、明日佳の場合、度が超えていた。学校内の生徒だけならともかく、教師や学外の住人にまで、俺と明日佳の関係は知れ渡っていて。長い間、明日佳は謂われもない、誹謗と中傷を受けてきた。

「そうやってあいつが勘違いされるのが嫌なんだよ。終いには親が親なら子も子だ、なんて何の根拠もないことまで言われたし」

 そんな、これまでの明日佳の、親がいないなりに頑張ってきた人生を否定するようなことを言われて、俺が我慢できるわけがない。

「だから、そんな根も葉もない事実を本当にしないようにしたいんだ」

 例え誰一人血のつながった人間が側にいない世界でも、明日佳は精一杯生きてきた。その事実を捻じ曲げてしまうような、そんな悪意にあいつを晒したくない。

「……ま、そういう気持ちも大切だよな。けど、そうやって考えられるお前たちなら、絶対間違いなんて起こさないだろうに。避妊をしないで後先考えず、なんてありえないだろ?」

「そりゃ、ありえねぇけどさ」

「だろ? だったらいいじゃねぇか。ちゃんと気をつけてるってことを周りは考えてくれるって」

「んー、でもなぁ。もうここまで来たんだ。あと少しだし」

「あと少しって、何が?」

「俺、高校出たら働くからさ。その後、明日佳と結婚する。そしたら威風堂々とエロス入り乱れ咲き乱れ淫らに宙を舞ってやるさ」

「……好きにしてくれ」

 呆れたように両手をあげる孝志。いや、実際呆れてるのか。

「……たまに、俺って産まれる時代を間違えたなって思う時がある」

「貞操観念が明治昭和だもんな」

「きっと過ごしやすかったろうな、俺と明日佳」

 今の生活ももちろん豊かで、過ごしやすくて立派だけど。考え方は、その頃の方が性に合ってる。

「ま、そういう考えがあるなら、オレは何も言えねぇよ」

「……ありがとうな」

 自分でも、自分のした選択が正しいという実感も、保障も正直に言えばなかった。だからこうして、明日佳以外の人間に俺の選択が受け入れられたことが……絶対こいつに言わないが、全身が脱力しそうになる程に嬉しく思う。

 とはいえ、さっきのことは、このままスルーしていい話題ではないわけで。

「で、それとこれとは話が別なんだが」

「ん? どうした?」

「……なんでおまえはさっき、明日佳が処女だって知って興奮してたんだ? ああ?」

 俺の質問に、冷や汗と脂汗が混ざったような大量の汗を流し始める孝志。

「……深い意味はないよ?」

「レモンって目薬代わりにできるかなぁ……」

「すみません明日佳さんが処女だって知って全力で興奮しましたごめんなさい!!」

 テーブルに額を叩きつけて謝罪する孝志を見て、溜飲を下げておく。大人気ないかもしれないが、俺だって長年我慢してきたんだ。これぐらいの嫉妬や、焼き餅や、独占したい気持ちは許してもらいたい。

 俺以外の誰かに明日佳を奪われるなんて、想像すらしたくない程なのだから。


*


「そ、そのほらっ!」

 放課後の帰り道。夕暮れの綺麗なオレンジ色をボケーっと見ながら歩いていると、急に明日佳が口を開いた。

「助けてくれたことあったじゃない!」

「はい?」

 いや、急過ぎて意味がわからない。

「どうしちゃったの俺のマイフェアレディ」

「意味重複してるよ。ってそうじゃなくて! その、昔、幼稚園の頃……」

「助けて、って…………ああ」

 あれはまだ、明日佳と兄妹として暮らすようになってからまだあんまり日が経ってなかった頃だ。俺も明日佳も、年の近い子が急に「兄妹だよ。仲良くしてね」だなんて親から言われて。もちろん、そんなすぐに互いに馴染めるわけもなくて。別に嫌い合ってたわけじゃないんだけど、どこかギクシャクしていた。

「親がいないって理由で私がいじめられてたのを、直樹が助けてくれたじゃない」

「あー……うん、まぁ……」

 子どもってのはやっぱり社会の物事をよく理解できてなくて、普通と違うってことにはきっと何かしら仕方がない事情があるのに、『違う』ってだけで切り捨てて考えてしまう。

 親がいないから『おかしい』。親がいるのが『普通』なのに。それ自体は一切、全く、なんの罪もないというのに、何故かそれが『悪いこと』だと決め付けて、凶弾してしまう。それが自分と同じ命だと理解していないから、一列に並んで歩く蟻の行列を踏み潰して殺してしまうように。自分がもし同じことを言われたら『悲しい』のに、理解できず攻め立てた。

 そんなことにも気づかないあいつらが憎たらしくて、俺は明日佳をかばうように。

「あの時の直樹すごかったよね。いきなり『うるせぇ!!』って叫んでとび蹴りだもん」

「いやー、俺も若かったというか」

「あの頃から直樹って喧嘩強かったよね。5人ぐらいいたのに、勝っちゃうんだもん」

「最初のとび蹴りでみんなある程度びびってたからなぁ。後はもう、やりたい放題」

 数少ない親父からの親としての命令が、『男として、いざという時戦える力を持て!』だったからな。その言いつけを守って、今でも道場には週3回ぐらいで通ってる。痛いのも、相手に痛い思いをさせるのも嫌いだが、いざという時に何も出来ずに後悔するような真似はしたくなかった。

「あの時本当に嬉しかったんだよ。初めて直樹がお兄ちゃんに見えた瞬間で」

 続く言葉を、明日佳は夕日に照らされていながらも、見てわかるぐらい顔を真っ赤にして。

「……初めて、人を好きになった瞬間だった」

 はにかみながら、そう言い切った。

「…………」

「な、何よそんな驚いた顔して」

「ああいや、いきなり何恥ずかしいこと言ってんだろうなぁ……って」


「あんたが聞いたんでしょうがーーーーーー!!」


「え? あれそうだっけ」

 全然記憶にないんだけど。

「そうよっ! あんたがいきなり! 授業中に! 『いつ俺のこと好きになったの?』なんて質問してきたから今私がこうして答えてあげたんでしょうが!!」

「……ああー、うん、言ったねぇ」

 そのあとすぐ寝ちゃったから、その辺りの記憶があやふやなんだよな。

「ああああもう……言うんじゃなかった」

「でも、嬉しかったぞ。ああそっか、明日佳はあの時から俺のことが好きだったのか。そうかそうか……へぇ……」

「しみじみ呟くのもやめてよっ!」

「でもさ」

 今日考えついた……いや、本当はずっと思っていた疑問を、口にするのに抵抗はある。けれど、これだけは、聞かなければ解決しないことだ。

「それだけ、なのか?」

「それだけって?」

「だから……それだけで、そんなことだけで俺のことを好きになったのか?」

 傍目から見なくてもわかる。俺と明日佳は、恋人として釣り合えてない。対等の立場ではない。美人で性格が良くて、勉強が出来て、何でも人並み以上にこなせる明日佳は、どうしたって俺より、ずっと上の、俺が必死に手を伸ばしても届かない高みにいるような人間で。別に優劣とか、そういうのを競い合う間柄でもないのに。

 それでも、やっぱり俺は明日佳に対して足りてないんだ。

「……てい」

「ゴッ!?」

 自分の考えに気が沈んで顔を俯かせていた俺は、いきなり後頭部から走った重い衝撃に足元から崩れ落ちる。

「何一人で落ち込んでるのよ。バカ」

「おま……カバン、角……」

 後頭部を両手で抱えながら痛みにのたうち回る。いや、これ本気で痛いんですが……。

「あ、辞書とか全部持って帰ってきてるんだった」

「だいぶ鈍器だよそれ!!」

「大丈夫、血は出てない……あ、出てない。出てないよー」

「今どう見てもごまかした!! 出てんの!? まさかの流血沙汰!?」

「大丈夫だって。何も出てないよー」

「そう言いながらなんで頭に包帯ぐるぐる巻いてんだよ!!」

「まぁ応急処置はこれくらいにして」

「今応急って言った!? それ後でしっかりと処置する必要があるってことだよな!!」

 明日佳は冗談よ、と言いながら巻いていた包帯を自ら解く。本当に血が出ていてもおかしくないぐらい痛かったが、どうやらそう大したことないみたいだ。とはいえ、未だ後頭部はズキズキと痛むが。

「あのね、あんたが何を気にしてんだが知らないけど。そんなのまったくする必要もないんだからね」

「……別に、気にしてなんかねぇよ」

 ただ、誰だって考えてしまうと思う。付き合ってる相手に、自分が釣り合っているのか。相手にとって、重みになっていないか。対等なパートナーとして一緒にいれているのか。そういう心配は、きっと誰もが持っていると思う。

「大方私と比べて自分は劣ってるとか、釣り合ってないとか、恋人として対等の立場じゃないとかそんなこと考えてたんだろうけど」

「エスパー!?」

「何年一緒にいると思ってんのよ。あんたが考えてることくらい顔見ればわかるわ」

 ……その理論、俺の方にはあまり通用していないんですが。俺はおまえの顔だけで、そこまで心情を深く読み解けないぞ。

「……ほんと、何年一緒にいると思ってんのよ」

「……え?」

 身動きできなかったのは、呆気に取られていたこともあるかもしれない。未だ明るく光を放つオレンジ色の夕日をちょうど明日佳が背にして、その姿がよく見えなかったせいもあるかもしれない。

 どちらにせよ、俺の唇に触れた柔らかい感触が、目の前にいた明日佳の唇の感触だと気づくのは、もう明日佳が俺の高さに合わせるべく上げていた踵を下ろした後で。

「明日佳、おまえ……」

「何よ、付き合ってるんだからキスぐらい普通でしょ?」

「……いや、まあ、そうだけどさ」

 突然の明日佳の行動に、俺は頭が真っ白になっていた。いや、普通、なのか? 普通、なんだろうな、うん。けど、なんていうか、明日佳からってのは想像してなかったし、このタイミングは完璧予想外過ぎてなんというかもう意味がわからない。

「私はあんたが好き。大好きなのよ。キスなんて何度でもしたいし、その先だって、すっごいしたい。それぐらい好きなのよ。何年一緒にいると思ってんの。助けられたことだけが理由だったらこんなに長い間想い続けていられないわよ」

 顔を真っ赤に、言葉を吐くごとに更に赤く。頭に血が昇って倒れてしまうじゃないかと思うぐらい赤くして。それでも明日佳は、俺の目を見て、口を開く。

「いい? 私はあんたが好きなの。いじめられてた私を助けた直樹じゃない、今ここにいる涼森直樹が好きなの。助けてもらったのがきっかけに過ぎないことぐらい、わかってよ。ずっと一緒にいるんだから、あんたのことが好きな理由なんてもう腐るほどあるってことぐらいわかってよ。助けてもらったことだけが理由だったら、こんなに長く好きでいられないわよ……そもそも、こんなこと言わせないでよ。察してよ。何年一緒にいるのよ! バカっ!!」

 顔を夕日にも負けないくらい真っ赤にして、早口で。そして。

 勘違いされていたことからの悲しみゆえか、勘違いさせてしまったことからの自責か。澄んでいて綺麗な瞳を涙で潤ませながら俺への愛を語る明日佳を見て。

 俺の心にいつまでも、疑念なんて残るわけがない。

 明日佳の両肩に手を置き、今度は俺から唇が少し触れる程度のキスをする。

「ああ、くそ。失敗した」

 キスを、じゃない。そんな失敗は、これからいくらでも取り戻せる。

「絶対泣かせないって、ずっと思ってたのに」

「な、泣いてないわよ」

「いいや、泣いてるんだよ」

 明日佳の体を、両腕をしっかりと抱きしめる。震える肩、響く嗚咽、しがみつく両手。俺の彼女は、こんなにも小さい……小さかったのに。

 劣ってるのがなんだ、釣り合えてないからなんだってんだ。そんなの関係ないんだ、これっぽっちも関係ないんだ。劣っていても、釣り合えていなくても。好きなんだよ。誰が何と言おうと、俺は明日佳と恋人になって、笑って生きていくって誓ったんじゃないのか。守って生きていくんだって、誓ったんじゃないのかよ。

 なのに、どうして俺は明日佳を泣かしてるんだ。

「ごめん」

「……なんで謝ってるのよ」

「おまえを、泣かした」

 明日佳は俺の腕で抱え込めてしまうぐらい、小さい体をしていた。腕の中で、すん、と鼻を啜る可愛らしい音が聞こえる。けれど、それすらも、本当は耳にするべきではなかった音なのに。

「そうだよな。好きだから、何年も一緒にいるんだもんな」

「……そうよ、バカ。わざわざ言わせないでよバカ」

「まぁ、バカだから言われないとわからないというか」

「じゃあクズ」

「それ最早ただの悪口じゃないか?」

「……やっぱりバカよ」

「ああ、バカだよ」

 小さい頃はよくこうして、泣いてる明日佳を抱きしめて、背中を撫でてあやしていた。もう長いことやってない。俺たちが恋人になってから、明日佳は一度も泣いたことはなかった。それからずっと、だらしない俺を支えようとしてくれて。だから、泣いてる暇なんてなかったんだろう。

「そういやおまえ、泣き虫だったよなぁ」

「……そうよ。泣き虫なのに、あんたがだらしないから泣けなかったんじゃない」

「ああ、そうだな」

 けど、もう違う。頑張るよ。明日佳がいつでも泣けるよう、本来の明日佳の姿を受け入れる場所を作るよ。

 まだまだ頼りない胸板だけど、頑張るから。

「ああもう、顔ぐっちゃぐっちゃだよ。誰かさんのせいで」

「ああ、ごめん」

「……だから、責任とって隠しなさい。私が泣き止むまで」

「……それぐらい、いつでもやるよ」

 更に押し付けられた顔を隠すように、腕で覆う。胸に明日佳の鼻先の感触を憶えた。夕日に彩られた、オレンジ色の通学路で長いこと俺たちはそうやって抱き合っていた。周囲からは「またやってるよ…」と呆れられるぐらい、俺たちは一緒にいた。

 そしてこれからも、俺たちはこうして一緒に生きていく。生きたいと、そう思った。


*


「どう? 鼻、まだ赤い?」

「いや、もう大丈夫。黒いよ」

「黒いってどういうこと!?」

 家に帰った明日佳が最初にやったことは、冷水で顔を洗いまくることだった。ぐちゃぐちゃに泣き崩したのが恥ずかしいんだろうけど、なんとも色気がない。いやまぁ、俺たちらしいけど。

「あー、明日までに腫れ収まるかなぁ。ね、大丈夫だよね」

「大丈夫だって。言う程ひどくないぞ。むしろなんか子どもみたいでそれはそれで―――――」

「えい」

「けどやっぱり明日佳は見た目が美人だから普段どおりが俺的にベストなんで素振り感覚で包丁を振り回すのは勘弁してください二撃目ストップ」

 怖い、怖すぎるよ俺の彼女。結婚後の姿に俺がひざまつき頭を垂れる未来像しか浮かばないくらい……それでもするけどさ、結婚。

「そういや式場どこにするか決めたっけ?」

「急になんの話!?」

「いや、話しといて損はない話題だしさ」

「早い! 損はないかもしんないけど早いよ! それにこう、そういう話って普通プロポーズの後とか、そもそも婚姻してからというか……」

「そうなこともあろうかと、ここに婚姻届が」

 通学カバンに常時忍ばせている婚姻届を取り出し、机に置く。

「なんで!? うわほんとだ! これ本物だ!!」

「ほら、あとはここに氏名年齢住所と好きな童謡を書けば完成だよ」

「書かないわよ! まだ!! というか童謡のくだりはどう考えてもいらないと思うんだけど!?」

「まぁ未来への予行練習はこれくらいにしておいて」

「こんなロマンの欠片もない未来はいやーーーーー!!」

「そういや明日、親父たちが帰ってくるんだってよ」

 天文関係の仕事に就いている両親は、しばしば家を空けて海外へ行くことが多い。日本からでは見られる星が限られるし、季節によっても星の運行は大きく変わる。海外を転々としなければいけない仕事ってのも、考えものだよなぁ。特に親としては。その分子どもほったらかしてるわけだし。

「あ、そんなんだ。じゃあ明日料理作りにくるね」

「それはありがたいけどさ、わざわざ自宅戻らなくても、今日ぐらいは泊まっていけよ。部屋はそのまんまなんだしさ」

「……それは、ダメ。なんのために私が一人暮らししてると思ってるのよ」

 戸籍から外し、住む家を変えてようやく明日佳の噂は鳴りを潜めた。確かに、それで今日泊まっていったら本末転倒だけど。

「けど、今日ぐらいはいいじゃないか。顔、まだ赤いし。明日には親父たちも帰ってくるんだしさ」

「ううん、やっぱりダメだよ」

「……ちなみにだけど、泊まっていくからって、俺は手を出さないぞ。ここまで来たんだ。高校卒業して、就職して、それからちゃんと結婚してからにするつもりだし」

 キスはしてしまったが、これ以上は俺の精神力で何とかセーブしてみせる。むしろ、キスをして、お互いの想いを確かめ合った今となっては、更にその決意を固める意志が強まった気さえしている。

「うん、わかってるよ。けどね、理由はそれじゃないの。むしろ私だけの問題」

「……どっこと?」

「あの、ね。今日は本当に嬉しかったの。直樹に抱きしめてもらって、キスまでしてもらって。だからその、嬉しすぎて……勢い余って」

 ようやく赤みが治まってきた目元や鼻、それどころか、また顔全体を真っ赤にさせて。

「……私が、直樹のこと襲っちゃうかも」

 ………………あの、すみません。どこかに頭をいくら打ちつけても近隣の方の迷惑にならない、硬くしっかりした電信柱はありますか?

「……ああ、うん。それは、やばいな」

「やばいでしょ?」

「ああ、やばい」

 今日の明日佳は、ちょっと、いやかなり可愛すぎる。これでもし迫られたら…………あかん。あかんですたい。それはいかんったいばい。

 ……もはや何語だ。

「だからね、今日は大人しく帰るよ」

「そう、だな。送ってくよ」

 正直に言ってしまえば、吐血しそうになる程悔しく、逃したくない据え膳ではあるけれど。そこは鉄の理性の出番だ。鋼の意志にも頑張ってもらう。

「別にいいよ? 一分もかからないぐらい近いところなんだから」

「いいんだ。送りたいんだよ」

 今日という日を、家の玄関で別れて終わらせるのはもったいなく思えて。

「……うん」

 靴を履いて、家を出る。夕日はとっくに地平線の向こうに消え、空は紺色に覆われていた。星々がささやかながらも光を放っている空の下を、俺と明日佳は並んで歩いていた。久しぶりに、手を繋いでみたりもして。明日佳の手は、家事で忙しいから多少荒れてはいるけど、それでも男の俺よりずっと柔らかくて、温かい。

「直樹の手って、思ったよりもごつごつしてるよね」

「まぁ、これでも格闘技習ってますし」

「昔は私より体も小さいくて、手も私と変わらないくらいプニプニしてたのにね」

「努力してるんだよ。これでも」

 手のひらはそうでもないけど、手の甲や指先はひどい荒れようだ。格闘技などの、どうしても拳を酷使しなければいけないものを続けてるんだから、仕方ないけど。

「努力してるもんね、直樹は」

 親から言われて始めたことだけど、今では自らの意思でしっかりと続けている。力もついてきた。それを扱う技術も、今では確かにある。その証として大会での成績も残してきた。強くなっている、その自信も、自覚もある。

「やっぱり、私を守るため?」

「ああ」

 迷いなく、言い切る。それ以外に理由はない。人を殴るのは嫌いだし、蹴るのも嫌だ。格闘技だなんてものをやってるからこそ、殴られた時の、蹴られた時の痛みをよく知ってる。だからこそ好き好んで、誰かを傷つけたくなんてない。

 けど、守るためには、どうしたって力は必要だから。

「もちろん、使う機会なんてないに限るけどな」

 けど、なにもできず、誰も守れずに終わるのだけは嫌だから。

「……直樹って、ほんと意志強いよね」

「どう、だろうなぁ。意志っていうより、意地な気もする」

「どっちでもいいよ。私はやっぱり、直樹のそういうところが、一番好き」

「……そっか」

 それから、俺たちはたった明日佳が借りているマンションまでの道程の一分間を、噛み締めるように、ゆっくりと歩いていた。話すことはなく、ただ黙って。けれど、話す言葉がないわけじゃなくて、むしろこれまで多くのことを、俺たちは語り合ってきた。だからこそ、この二人で黙って、手を繋いで歩くこの時間が、俺たちにとっては何よりも新鮮で、かけがえのないものに思えた。

 そうして、たった一分間の短い道程を歩き切り、明日佳が借りているマンションのエントランスまで来た。

「それじゃ、ここまででいいよ」

「……どうせだし、部屋まで送らせてくれよ」

「ダーメ」

 明日佳は持っていたカバンから鍵を取り出し、エントランスに備え付けられている鍵穴に入れる。女の子の一人暮らしなのだから、セキュリティのしっかりしたマンションにした方が良いと両親が奮発してくれているマンションは、今だけは俺たちを隔てる壁として存在していた。

「私も来て欲しいけど、たぶん、限りがないからね」

「……それもそうか」

 それじゃあ、また明日、と。そう言おうとした瞬間。どこからか、何かが炸裂するような、心臓に直接響くような爆音が聞こえてきた。その音が聞こえたのだろう。明日佳は走って俺の元まで戻ってきて、俺の手を取りマンションから出る。そして、俺たちは手を繋いだまま空を見上げていると。

 また心臓に響く程大きな音がして、夜空に色鮮やかな花が咲いていた。

「花火……」

「そういえば今日だったか、花火大会」

 大会という程大きなものではないけど。30分ぐらい続けざまに次々と花火を打ち上げるだけの質素な催しだ。

「見てくか?」

「うんっ」

 それでも、二人で見れば楽しく、素晴らしいものになると思った。

「なら公園に行こう。あそこならベンチもあるし」

 明日佳は頷いて、俺の腕を取った。恋人がよくやる女の子が胸に男の腕を抱くポーズ。

「……初めてやるけど、恥ずかしいな。これ」

「うん……けどまぁ、これはこれで……」

「ああ、いいな」

 大き過ぎず小さ過ぎずのベストサイズな明日佳の胸が腕に当たってるけど、不思議といやらしい気持ちにはならない。やわらかくて、温かくて。ただそれだけの感触が心地いい。

「ずっとさ。直樹が私に何もしてこないのって、約束のこともあるけど。私自身に魅力がないのかも、とか思ってた」

「は? なにそれバカかおまえ。アホか。脳みそ大丈夫ですか? 蛆でも沸いてるんですかね。一度脳外科医にでも往診に来てもらおうかそうしよう」

「私そんなに罵倒されるようなこと言った!?」

「いやいや、だってそんなわけないじゃんか。ありえないありえない」

 自分がどれだけ恵まれた容姿をしてるかわかってないのか、こいつは。

 公園に着いた俺たちは、さっそく空いていたベンチに二人並んで座る。少々高めの木々に覆われた公園は、正直花火を見るには適してはいない。だが、高度が高めの花火でなら何とかベンチに座りながらでも見れる。もったいなくはあるが、今更会場近くの広場に向かうのは時間が足りないだろう。

「断言してくれるのは嬉しいけど、不安に思っちゃってた時期もあったってこと」

「時期ってことは、今はもう違うんだろ?」

「うん……だって、その……見ちゃったし」

「見たって、何を」

「直樹が……その、部屋で私の写真を持って……一人で」


「わぎゃああああああああぁぁぁぁぁ!!」


 すでに太陽は沈み切り、夜空に大輪が咲いている中、花火の音に負けないぐらいに俺の叫びが周囲に轟いた。

「だっ、大丈夫だよ! 男の子はみんなやるってよく友達も言ってるしっ。そんな恥ずかしいことじゃ……」


「いやああああああああぁぁぁぁ!!」


 なに、なにこれ。世界の終わりか何か? 俺終了のお知らせ? 涼森直樹先生の来世にご期待ください的な?

「終わった、なんかもう色々と終わった……」

「そ、そんなに落ち込まなくても……」

 いや、落ち込んでるんじゃなくて……なんていうか、そういう浅はかな問題じゃなくて……こう、魂の問題というか。

「……それ、いつのこと?」

「いつって……最近だと」

「最近ってことは何回も見られてるってことじゃないですかああああああああああぁぁぁぁぁ!!」

 回数の問題ではないにせよ! 何度も目撃されてるとか! 勘弁してください! 俺もう半ば泣いてますよ! 彼女と腕組みながら頭抱えて泣きそうになってるってどんな状況だよちくしょう!!

「だ、だって直樹が気づかないのが悪いんじゃない!」

「いやまぁその通りなんですけどね!!」

 だから自分を責めてるんだよ! 過去の自分にこの迸る後悔の念を送りつけてやりたいんだよ!

「だから、そんなに大声出さないでよ。せっかくの花火なのに」

「もう落ち着いて見れねぇよ……何予想もしなかったタイミングで爆弾投下してんだ……」

「ま、まぁとにかく。そういうことがあって、私の不安は払拭されたわけ! いいじゃない。私の心の平穏のために一役買ったんだから」

 おまえの心の平穏のために、俺の心の平穏は木っ端微塵なんですが。

「ああ……もう、ほんと……こういう話やめませんか? 俺の心がメキメキ折れていく音がするからさ」

「うん、ごめんね……」

「いやまぁ、もういいけどさ。おまえだって困るだろ? 逆の立場で同じこと言われたら」

「え!? 見たことあるの!?」

 ……うん、この沈黙は、決して居心地の良いものではなくて、単純に口にするべき言葉が見当たらないだけの沈黙でして。

「……………………ないけど」


「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


「これは俺のせいじゃないだろ!? 完全におまえの墓穴でしかないよね!?」

 辞書やら何やらが詰められ攻撃力が数段に上がったカバンを、これまで鍛え抜いてきた体裁きで何とか避けながら弁明する。

「うううるさいうるさいうるさい!! もうなんなの、今日ってなんなのよ!!」

 その重いカバンを振り回すのが疲れたのか、カバンを放り出して子どもが駄々をこねるように、ポカポカと殴りかかってくる。

「痛いっ、痛いって! そもそもなんで俺が殴られてんのかわかんないんだけど!!」



「うわああぁぁぁ!!!」



 花火の炸裂音に紛れて聞こえた、誰かの叫び声。俺の、じゃない。ただ彼女にポカポカと殴られているだけで、あそこまで悲痛な叫びを上げる程、俺はか弱い男ではない。俺たちが今まで上げていた叫びよりもずっと、本気で、切羽詰った、重い叫び。いったい誰の悲鳴なのか。

「……聞こえた?」

「ああ」

 明日佳もすぐに異常な事態だと察知したのか、真面目な顔つきとなって声のした方向を目で追う。公園の、奥。木々が乱立して入り組んだ先は、人気もなく太陽が昇っている時でも日の光が差し込まないため、いつも暗い。だから普段は誰も近付くことはない場所なのだが……。

 意を決して、俺たちは足音を立てないよう注意を払いながら、その奥へと歩いていく。そして、その先には。

「はっ、離せっ、離せよぉ!!」

「いやっ、いやああぁぁ!!」

 ガラの悪い男が五人、男女のカップルを囲んでいた。公園の敷地内からは木々が乱立していて見え辛い上に、今は花火の炸裂音で彼らの声も聞こえず、本来なら気づかずにいただろう。

 ……まぁ、こっちは気づいちゃったわけだが。

「どうする?」

「どうするも何も、助けるに決まってるじゃない」

「ですよねー」

 大方、花火の途中ムラムラときちゃって雑木林の中入って、運悪く見つかっちゃって……とかそんなところだろうけど。

「……見過ごすわけには、いかないよな」

 あのカップルだって、俺たちのように幸せをかみ締めていたんだろう。二人の想いが通じ合うだなんて、まるで奇跡のような現実を。

 それを壊されるのは、納得出来ないはずだ。俺も、あの彼氏も。

 だからこそ、あんなにも必死に、足掻いている。

「明日佳は警察に連絡した後、隙を見てあの二人の手を引いてどこかに逃げてくれ」

「直樹は?」

「あいつらを取り押さえる」

「……平気なの?」

「負けはしないさ。怪我の一つや二つは覚悟してるけど」

「……わかった」

 背後で警察に連絡をする明日佳の声を聞きながら、俺はじりじりと連中へ距離を詰める。距離にして3メートルもない。あいつらは気が立ってるのか周囲への警戒がないようだ。二人は彼女を羽交い絞めにし無理矢理服を脱がせようとしてる。あとの三人は助けを叫ぶ男に向けて蹴りや拳をぶつけてる。

 横目で明日佳を見る。連絡はついたと、目で答えられた。

 すぐさま俺は植木から飛び出し、一足で距離を詰める。最初は服を脱がされまいと必死に抵抗をしている彼女から。こちらが気づかれる前に、彼女の両手を押さえてる男の後頭部に思い切り肘を叩き込む。

「がっ!?」

 続けざま、勢いを殺さず今度は服を脱がせようとしていた男の顔に向けて前蹴りを放った。作法も糞もない、ただ体重と勢いを乗せた蹴りを胸に受けてもう一人の男は頭から地面に落ちる。

「なんだてめぇ!!」

 彼氏を嬲っていた一人が俺に気づいて声を上げ、同時に拳を放つ。大振りのジャブ。それを膝を曲げて落ちるように避け、重心の乗っている足に向けて蹴りを撃つ。重心を失い、バランスを崩しこっちに倒れこんでくる顔面を、立ち上がる勢いを乗せた膝で受けた。重力によって底上げされた威力を顔面に受けて、男が一人鼻血を噴き出して倒れる。

 ……これで、残りの男たちの意識は完全に俺に向けられた。

「走れっ!!」

 未だ倒れこむ彼氏に向かって言い放つ。すでに彼女の方は明日佳の元へ走り逃げている。彼氏も痛めた体のまま、顔をしかめながらも明日佳の元へ駆け寄る。

「逃がすかぁ!!」

 残りの男が一人、二人を連れて逃げる明日佳を追いかける。それを阻止しようと回り込むが。

「うらぁ!!!」

「っ!」

 残りの男がそこらにでも落ちていたような木の棒切れを振り下ろす。当たっても痛いだけで済むが反射的に距離をとるように避けてしまい、明日佳とは大きく離れてしまった。

「走れっ!! 逃げろ!」

 明日佳が彼氏の手を取り、走り出す。彼氏は彼女の手を取り、足をもたつかせながらも懸命に走る。

「邪魔、だっ!!」

 棒切れを持つ手の手首を掴み、捻り上げながら空いた腹に膝を叩き込む。続けて、背を丸め崩れた後頭部に向かって肘を落とす。

「振り返るな! 走れ!!」

「止まらないで! 走ってっ!」

 俺もすぐさま明日佳を追いかけようとするが、後頭部に肘を入れても意識を失わなかったのか、男が俺の足を掴んだせいで、身動きが取れない。空いた足で踏みつけるが、掴んだ手は緩まない。女の足と、怪我だらけの男の足だ。距離はどんどん詰められ、一番後ろを走っていた彼女の服に男の手が届きそうになる。

「ひっ」

「……え?」

 明日佳が思わず上げた戸惑いの声が、離れた距離にいながら聞こえた気がした。

「う、うわあああぁぁぁぁぁ!!」

 搾り出したような、情けない叫びを上げて、カップルが逃げていく。

 あいつ、今何をした? 助けに来て、手を引いてもらっていたってのに。その明日佳の手を逆に引いて、転ばせた?

 助けに来た明日佳を、囮にした?

「て、てめえぇぇ!!」

 足首を掴んでいた腕に向けて、空いていた足の踵を振り落とす。相手の骨に損傷を与えたような嫌な感触が足の裏に感じるが、それすら今はどうでもいい。そうして自由になった足で、俺は明日佳の元へ駆ける。

 どうして、どうしてだ!? この人でなしが! 助けてもらった相手に何をした! ふざけんな、逃げるな! 止まれっ、逃がすか! 恩を仇で返しやがって!

「は、離してっ!!」

 明日佳が起き上がり逃げようとするも、追いついた男は明日佳の手を掴み、羽交い絞めにする。

「明日佳ぁ!!」

「動くなっ!!」

 明日佳の首筋に、光る何かが押し付けられた。

「動くなよ、動くと、わかるだろ?」

 直径五センチにも満たない銀光、果物ナイフよりも小さい。凶器として、武器として携帯するにはあまり頼りにはならなそうな、小さいナイフ。

「な、おき……」

 けれど、れっきとした刃物。

 ……大丈夫だ。あんな刃物、大した傷なんて付けられない。ほら、近づいて手首を取れ。そうして捻り上げればいいだけだ。そのあと蹴りでも拳でもなんでも叩きこんでやりゃいいだけだ。できるだろ? そういう練習を何度もしてきたじゃないか。ほら、早くやれよ。うまくいく確証も、ないけど。

 ……ないのに、できるか。

「うらぁ!!」

「ぐっ!」

 回復した男たちが一斉に襲い掛かる。腹を殴られ、腿を蹴られた。痛みに膝を曲げてしまう途中、肩と背中を殴打される。痛い、痛い。こめかみを横殴りのジャブで殴られた。頭がふらついて、たたらを踏んでると、棒切れが脳天を叩き伏せた。

「直樹!!」

 ああ、そんな叫ぶなって。喉、枯れるだろ? せっかく綺麗な声してんだからさ、そんな、声、上げんなって。痛いのなんて、慣れてるんだ。殴られるのも蹴られるのも、へっちゃらだっての。だから、心配すんなよ。

「くそがぁ!!」

 ガンガンと、頭を踏みつけられる。おいおい、そこまでするか? 踵で踏むなよ。俺の明晰な頭脳に傷でもついたらどうするんだ。整った顔立ちにおまえらの汚い足跡つけんな。いや、痛いって。ほんと。

「やめて!! やめてよぉ!!!」

 だから、心配すんなって。大丈夫だから。なんてことないから。

 おまえが無事なら、俺は大丈夫だから。

「うるせぇ!!」

「っ!!」

 明日佳の頬に、男の拳が刺さる。その光景を見た瞬間、目の前が真っ赤になる程、堪えようのない怒りが湧いて出てくる。

「てめえぇぇぇぇ!!」

 明日佳に手を出すな!! おまえらを殴ったのは俺だろう! 蹴りを入れたのは俺だろうが! 明日佳には手を出すな! 明日佳は何もしてないだろうが!!

「やめろ! 明日佳に手を出すんじゃねぇ!! 殺すぞ! おい! てめぇらぁ!!」

 また踏みつけられた。手を踏まれた時、嫌な音がした。折れたかもしれない。二度とまともに字を書けないかもしれない。箸も持てないかもしれない。

「直樹! 直樹ぃ!! 離してっ、離してよ!! 直樹がっ、やめて! やめてよぉ!!」

 けどそんなことがなんだよ。明日佳の方が大事だろ。やめろよ。明日佳には手を出すなよ。関係ないだろ。俺だけにしろよ。俺だけならいくらだって殴っていいよ。好きにしろよ。どんなことしたっていいよ。けど、明日佳だけはやめてくれよ。そいつは何もしてないんだよ。何も悪いことなんてしてないんだよ。俺はいいよ、俺はおまえらを殴った。傷つけた。だから傷つけられたって文句は言えねぇよ。因果応報だろ? 覚悟はしてるよ。けど明日佳だけは、やめてくれよ。そいつは幸せになるんだよ。不幸な生まれだなんてバカにされても、嘲笑われても、笑顔で、頑張ってきたんだよ。幸せになりたがってんだよ。それぐらいいいじゃないか。なんでだよ、なんで明日佳がこんなに悲しまなきゃいけないんだよ。ずっと笑わしてくれたっていいじゃないか。

 明日佳を幸せにするのが俺じゃなくたっていいよ。誰でもいいよ。誰でもいいからあいつを笑わせてやってくれよ。幸せにしてやってくれよ。毎日笑顔でいさせてくれよ。笑っていいんだって、幸せでいいんだって。頷くだけでもいいから。肯定してやってくれよ。

「直樹!! 直樹ぃ!!!」

 俺をいくら嬲ったってかまわないからさ。好きなだけ殴ってもいいよ。蹴ってもいいよ。もっと踏みつけたって構わないよ。俺の背中にでも乗ってピョンピョン跳ねたっていいよ。棒切れなんかじゃなくて鉄パイプでも持って来い。そのナイフは俺に向けろよ。どんどんやれよ。痛いけど、苦しいけど。けど、そんなことは耐えられるからさ。痛みになんて、慣れてるからさ。

 だから、だからさ。あいつだけは、明日佳だけは、泣かせないでくれよ。頼むよ。お願いだよ。お願いだ。明日佳だけは、泣かせないでくれ。悲しませないでくれ。笑顔が一番似合うんだよ。すっげぇ綺麗なんだよ。笑った顔が一番綺麗なんだ。だから、泣かせないでくれ。

 あいつの笑顔を、曇らせないでくれよ。


 ――先に曇らせたのは、誰だよ。


「え?」


 ――おまえだろ。


 ――おまえが、あの娘の笑顔を曇らせたんだろ。


『……僕、知ってるよ』

 ――何も知らないくせに。

『君が嫌いなんだよ』

 ――何の根拠もないくせに。

『君が嫌いだから。冷たくするんだ』

 ――何も、見てないくせに。

『見ていればわかるよ。君はいつも泣いてばかりで、周りに迷惑をかけて。それでよく自分は好かれていると思えるよ』

 ――偉そうに。

『例え違うとしても、好かれてはいないだろうね』

 ――誇らしげに。

『……今のうちだよ』

 ――それが『良い事』だなんて勘違いして。

『これ以上傷つきたくないなら、泣きたくないなら。一つだけ、方法があるよ』

 ――馬鹿みたいに得意げに。

『簡単だよ』

 ――馬鹿みたいな。

『誰も、信じなければいい』

 ――間違った答えを突き付けた。


「あ、ああああ……」

 喉の奥から、声が漏れる。叫びに叫び、最早掠れた音しか出ない喉から、それでも、呻くような、声が漏れる。


 ――明日佳の笑顔を一番最初に曇らせたのは、おまえじゃないか。


 ――事実を捻じ曲げて、自分が得た真実だけが確かなものだなんて妄信して。


 ――一人の女の子の、人生を、笑顔を、幸せを、台無しにしたのは。


 ――おまえだろう。


 ――涼森直樹。


「ああ、あああああああっ、ああああああああああ!!」

 そうだ。俺だ。俺じゃないか!

 最初に明日佳の笑顔を曇らせたのも、明日香の人生を台無しにしたのも、全部っ! 俺じゃないか!!

 ――よく見ろよ。

「いやっ離して!! やめてよぉ!!」

「大人しくしろ!!」

 ――目を逸らすなよ。

「やめてぇ!! 触れないでよ!! あんたたちなんかに触れられたくない!!」

「口塞げ! もう邪魔されるのはごめんだぞ!」

 ――瞬きもするな。

「やめてっ! 離してぇ!!」

 ――少しの一瞬でも見逃すな。

「殴ってもいい! 蹴ってもいいよ! けどやめてっ、それだけはやめてよ!!」

 ――その目に、脳に、焼き付けろ。

「初めては直樹にって! ずっと待ってたの! 約束してたの! だからお願い、それ以外ならなんだってするから!! やめてっ、やめてよぉ!!」


 ――あれが、おまえの罰だ。


「やめろおおおぉぉぉ!!」


 ――あれが、おまえの贖罪だ。


「頼む、頼むよお願いだやめてくれ!! やめろ、やめてくれよぉ!! なんでもするっ、なんでもするよ!! 死ねっていうなら今すぐ死んだっていい! なんでもする! なんだってするから!!」

 押さえつけられた体を懸命に、泣きながら、喚きながら、必死に動かす。それでも、男たちの拘束は剥がれない。俺を黙らせようとまた棒切れが頭を直撃する。痛みと衝撃で視界が歪む。それでも、その視界には、泣き叫び助けを請う明日佳の姿が映っていて。

「やめ、やめてくれ! そいつに、明日佳には何もしないでくれ!! お願いだ! お願いします!! なんだってするから、なんだってするからやめてくれよおおぉぉぉ!!」


 ――叫ぶだけ叫べばいい。後悔でもなんでもすればいい。


 ――だが、罪はそんなことではなくならない。


「じゃあどうすればなくなるんだ! 教えてくれよ! どうすればいいんだよ! お願いだっ、教えてくれ! 頼むよ! 教えて、教えてください! 早く、頼むからっ!」

 この声が、頭に直接響くような声が誰のものか。そんなものはわからない。どうだっていい。


 ――繰り返せ。


 ――たった一度じゃ足りない。それじゃあ『同じ』だ。


 ――何度でも、何度だって繰り返せ。二度三度四度。もっと繰り返し、この苦痛を味わえ。


 ――形を変え、性質を変え、何度だって同じ苦しみを味わえ!


「わかった繰り返す!! 何度だっていい! 何度だって繰り返してやるよ!! 俺が苦しむだけだったら何度だって耐えられるからっ、だから、明日佳は今ここで助けてくれよぉ! 明日佳を、あいつを助けることができるなら、俺はどんなことだってするから!」


 ――最後まで見ろ。目を逸らすな。瞬きもするな。一瞬でさえ見逃すな。


「わかったよ! わかったから!! だから、明日佳を、あいつは、助けてくれぇぇぇ!!」


 ――それが、おまえの贖罪だ。







「そんなもの、私は望んでない」


 その声は、今までに聞いたことない程、怜悧で、鋭く。

「…………え?」

「離せ、気持ち悪い」

 一人、一瞬で男の膝が折れる。また一人、また一人と。さっきまでニタニタと笑っていた男たちの笑顔が消え、吹き飛ばされていく。

「黙って聞いていれば何を馬鹿げたことをグダグダグダグダ……」

 怜悧な声を放った……明日佳は、さっきまで自分を掴んでいた男の頭を踏みつけた後、倒れこむ俺を睨みつける。

「立ちなさい」

「は、はい」

 訳がわからず、言われるがまま立ち上がる……え、なんで立てるんだ? 俺、さっきまで男二人に押さえつけられていたのに、いつのまにか、誰もいなくなっていて。それにここは、どこだ? 森の中にいたはずなのに、いつのまにか、見憶えのある公園の真ん中に、俺は立っていた。

「ふざけないで。いつ私がそんなことを望んだ」

「あ、す……か?」

 い、や? 明日佳、か? 俺が知ってる明日佳は、一瞬にして三人もの男を叩き伏せることなんて、できただろうか。

「いつもいつも勝手なことばかりして、自分一人で突っ走って。いい加減にしなさい。人の話を聞きなさい。いつ誰がどこで、そんな……贖罪だなんてふざけたものを望んだ」

「え……? あす、か? え?」

「質問に答えなさい」

 言葉と共に彼女のつま先が、棒立ちになってる俺の腹に食い込む。

「げふぅ!!」

 ……意味が、意味がわからな過ぎる。どうなってんだ、これ。俺、なんで明日佳に腹蹴られて、痛みに悶絶して地面に額こすり付けてるの? あれ?

「まだ理解できてない? いつまで自分で作り上げた妄想の世界に入り浸ってるの。目を覚ますまで蹴り続けようか?」

「痛い痛い痛い! ちょっ、踏んでる!! 頭踏んでるから!!」

「誰かしらね、あの明日佳って子。あれがあなたの理想の私ってことなのかしらねぇ……ごめんなさいねぇ可愛げの欠片もない人間で」

「あ、いや、その。あの、まだよく思い出せてないと言いますか……」

 この痛み……それに、この容赦のない物言いをどこか、どこかで、経験したことがあるような……。

「頭に向けて地団駄を踏むというショック療法を始めます」

「待った待った時間かければ全部思い出すからそんな強硬手段はストップ!」

 そう、明日佳。こいつは、君河明日佳。人嫌いというか人恐怖症の癖に暴力的で、怒った時は容赦がなくて、だけど優しく、気が利いて、そういう時々垣間見える女の子らしさが、すごく可愛らしい奴で……俺が、過去の俺が、取り返しのつかないことをしてしまった、何よりも謝り、許しを請うべき、相手。

「……明日佳さん、怒りのあまりキャラ変わってません?」

「怒ってるから、今までになく」

 ……その声、柊弥もいるのか? 地面しか見えないから、今俺が置かれている状況が全くわからない。俺、さっきまで公園の奥、管理が全然出来てなくて気や草が生えっぱなしの地面に転がってなかったっけ? あれ?

「あの……とりあえず、後頭部から足、どけてくれません?」

「質問に答えてから」

「し、質問ですか……え、えっと、何が何やらわからないので、まずは状況説明を……」

「少しずつ体重をかけていくわ」

「いやいや! 痛みやら急展開やらのせいで頭回ってないんだって!!」

 これ以上頭を踏まれていては回る頭も回らないと、俺は何とかずっと踏んづけられていた状況から抜け出し、地面にへたり込んだまま周囲を見渡す。ここは、そう、公園だ。俺がさっきまで、明日佳とベンチに座って花火を見ようとしてた、公園だ。そしたら襲われてるカップルがいたから助けて、それで。

 それ、で……。


『初めては直樹にって! ずっと待ってたの! 約束してたの! だからお願い、それ以外ならなんだってしてあげるから!! やめてっ、やめてよぉ!!』


 ……あれは、なんだ。あの悪夢のような、地獄のような。あの光景は、いったい……。

「あれが、君の贖罪なんだよ」

「贖罪……?」

 柊弥の言葉を、そのまま問い返してしまう。

「そう。悲しいことに、この世界には『ああいう悲劇』はたくさん保存されている。そして君は自ら、自分にあった悲劇を吸出し、キャストを入れ替え、それを再現した。望んだ分だけ、好きなだけ。自分が犯した罪と同じか、それ以上の悲劇を繰り返そうとした。ここはまぁ、精神世界のようなものだから。今の君には傷一つ付いてないだろうけど」

 地面にへたり込む俺に柊弥は近付き、地面に膝をつける。そうして近くなった目線の高さ。柊弥が伸ばした指先は、俺の胸の位置を指差していた。

「……痛みは、憶えてるでしょ?」

「あれが……贖罪……」

 頭にこびりついて離れない、泣き叫び助けを呼ぶ明日佳の声。痛めつけられた体の持った熱に、怒りと、悲しみ。あれを、俺はあと何度繰り返す気だったんだ?

 ……いや。

 あれはいったい、『何度目』だったんだ……?

「いや、でも」

 俺への罰は、確かに存在するべきだ。罰されるべきことを俺はやったのだから。何度だって、繰り返したって、受けるべき罰はある。それがどれだけ凄惨なものであろうと。

「……俺は、何度でも、あれを受けないと」

 思い出すだけでも吐き気がして、身を切り裂かれるような痛みを感じる。大切にしていた人間の、大切だった記憶や過去が蘇ると共に、それを失った喪失感、空虚感。理不尽に対する怒りや恨みが次々と湧き上がる。

 ……でも、俺はそれを、目の前の明日佳に与えてしまった。

「だから、いつ私がそんなことを望んだんだ」

「おまえが望んだとか、そんなことは関係ないんだよ。受けるべき罰があるから受ける。それだけなんだ」

 起き上がり、明日佳を正面から見たまま、そう宣言する。同じか、それ以上の痛みや苦しみを受けて、それで、許されると決まったわけじゃないけど。それでも……!

「俺は、そうやって償うしか」

「だ、か、らっ!」

 言い切る前に、がら空きだった俺の腹部に体重の乗ったブローが突き刺さおうええぇぇぇ……。

「うっわぁ……痛そう……」

「み、みぞ……みぞお、ち……」

「いい加減にしなさいこのバカっ!!」

 またしても痛みに苦しみ地面でのたうち回ってる俺を見下ろしながら、明日佳が今までに見たことがない程、怒りを表に出して、声を荒げる。

「私はそんな罰なんて望んでない! 何を勝手なことばかり言ってるんだ! いつ誰がどこで、あんな悲劇を繰り広げろだなんて言った!!」

「だからっ……! 俺は罰を受けるべき人間なんだよ!!」

 もう一度鳩尾を殴られることになろうとも、俺は臆せず叫ぶ。

「おまえだって憶えてるだろう!? あの場で何人もの人が死んだ! 俺は黙って見てただけなんだよ! 何もせず、ただ黙って人が殺されるのを見ていた!! 良い機会だと思ったからっ、あのわからず屋の女の子に現実を見せ付ける良い機会だってふざけた考えで……! 何人もの人を見殺しにした!」

 自分の過去の罪は、言葉にすればする程、その凄惨さがありありとわかる。人が死ぬことが、誰かの助けになんてなるわけがないのに。俺はたくさんの人を見殺しにした。助けられたかもしれない命を見捨てた。ただ、自分の言葉を信じてくれなかった女の子に仕返しをする。そんな、そんなくだらないことのために。

「子どもの俺にだって、できることはあったはずなんだよ! すぐに助けを呼びにいくことだってっ、何かしらできたはずなんだ! けど俺はやらなかった! いい気味だって、俺の言うことを信じないからだって、俺が誰も信じないくせにそんな自分勝手な考えを抱いて、その上でおまえの両親を見殺しにしたんだ!! おまえの両親は立派だったよ! おまえのことを少しも嫌ってなんかなかった! 最後までおまえを守ろうとした! 勇敢に立ち向かったし、おまえを背にして立ち塞がった! そんな立派な人たちを俺は見殺しにしたんだよ!!」

 その事実に気づいた瞬間を、今でも憶えている。死にたくて、自分を殺してしまいたくて仕方がなかった。それぐらい自分がしたことが許せなかった。

 だから俺は、せめて彼女だけは、自分のせいで痛みを負った明日佳だけは、死なせるわけにはいかないと、落ちていた包丁を手にしてあいつに、秋宮柊弥に向かって……。

「俺が、俺がおまえに何も言わなければ……間違った答えを言わなければ、おまえの両親は死なずに済んだはずなんだよ!!」

 俺が明日佳に何も言わなければ、明日佳が一人で公園に来ることもなかった。それを彼女の両親が迎えに来る必要もなかった。

 幸せな家族を惨劇の舞台に上げたのは、俺なんだ。

「最悪だろ!? 最悪なんだよ俺は!! そんな自分が許せなくて、憎くて、消してしまいたくて……!」

 だから、自分を分けた。許せない部分を切り離し、この場所に置いて逃げた。あいつが俺を恨むのも、当たり前のことなんだ。だからこそ俺は、あいつの分まで罰を受けるべきだ。

「だから望んだんだ! 自分への罰を、最上級の償いを! そうするべきだ

ろ!? 俺はそんな罰を受けるべきじゃないのかっ!?」

 これまで幸せに生きてきた。その報いを、俺は受けるべきで。

「そうね」

「……え?」

「罰を受けるな、償うな。そこまで言った覚えはないわ」

 いつのまにか、明日佳の口調は和らいでいて。俺を見る目は、決して優しくはないけれど。怒りは薄れていて……どこか、哀しそうに見えた。

「現にあなたのせいで死んでしまった人や、心に傷を負った人はいる。それはもう覆らない事実だし、変えようがないことよ」

 でも、と明日佳は言葉を繋げる。魂を込めるかのように、一言一言、力強く。

「けど、だからといってさっきの償いになんの意味があるの? 同じ苦しみや痛みを味わう。そんな『自分で決めた罰』に意味なんてあるの? 一人で勝手に苦しんで、悲しんで、痛んで。それで何? ただの自虐じゃない。そんなものはただの自己満足よ。自分一人で完結してる。そんなものは償いじゃない」

「……じゃあ、どうするんだよ」

 俺がやろうとしてることがただの自虐だなんて、そんなことわかってた。わかってたんだよ。

「自分が許せないんだ。今まで笑ってた自分が憎くてしょうがないんだ。悪いのは俺なのに、おまえを救うだなんて偉そうに言って。俺のせいで、おまえは人を信じられなくなったのに……!」

 明日佳の人生を壊したのは、俺なんだ。俺が何も言わなければ、明日佳はずっとこの町で普通の女の子のように。笑って、悲しんで、誰かと触れ合って。そんな、当たり前の日々を過ごせたはずなのに。

「……そうね、そうかもしれないわね」

 そんな『もしも』を明日佳は否定しない。

「……だからっ」

 声と共に放たれた拳は、へたり込んでいた俺の頬を容赦なく貫く。その衝撃をまともに受けた俺の体は後ろに跳ばされ、地面に転がる。

「私が、あなたを裁く」

 握った拳は解かれることなく、次の一撃を放つためにまた強固に握られる。

「あなたが許せないあなたを、私が今ここで罰する」

 立ちなさい。そう明日佳は言い放った。その言葉は、命令のような言葉でありながら、手を差し出すような、そんな優しさすら感じて。

「……私は、あなたが許せない。確証もないことを言って、私を惑わせて。私の人生を狂わしたあなたが憎い……けど、許したい。これまでの日々で、私に笑いかけて、私の力になりたいと願ったあなたを。誰も信じられなくなる程辛い目にあっても、泣いてる女の子は助けてあげたいと思った、優しいあなたを許したいから。だから、私があなたを許せるようになるぐらい。私の気が済むまで殴らせろ」

 私が与える痛みを、あなたの贖罪にしろ、と。人に触れることを恐がっていた、本当は弱く、虚勢を張って生きてきた彼女が口にする。

「そして、私を幸せにしろ。あの時教室で交わした約束を、この先一生をかけて守りなさい」

 何も知らない、何も気づいてなかった頃の俺が、明日佳に送った言葉。

 俺がおまえを引きずり出してやる。

 その言葉を、約束を、これから果たしていけと。

「それが、私の望む。あなたの贖罪だ」

「……はっ」

 それは、破格の条件にも程がある。俺が望んだ罰よりもずっと、痛くて、苦しい。

「ああ、いいよ」

 彼女の優しさが、何よりも胸に響いて、苦しくて、泣きたくなる。それぐらい、辛い罰だ。

「俺は人より丈夫だし、殴られ慣れてるから。遠慮なんかしないで、全力で構わない」

「……ええ」

 一歩。また一歩と、彼女が俺に罰を与えるべく近付いてくる。

「もう、人なんて怖くともなんともなから。触れることに恐怖なんてないから」

 それは、処刑人の行進のはずのなのに。俺にはその歩みが、これっぽっちも恐ろしく思えなくて。

「遠慮なんか、したくてもできない」

 最初の一撃が、振り下ろされる。

「っ!」

 頬骨が砕けるぐらいの衝撃。その衝撃は骨を伝い、脳にまで響く。

「――っ!」

 今度は腰の入った横殴りのジャブ。こめかみにぶち当たり、今度は直接脳に衝撃が走る。

「私はっ!」

 ふらついた視界に明日佳の長い足が見えた。その足先は綺麗な弧を描き、流れるように俺の脇腹を蹴り抜く。

「お父さんが大好きだった!」

 内臓を圧迫され、口から空気が漏れる。その空気は少しすっぱい味と、匂いがした。

「お母さんが大好きだった!」

 崩れかけた両足に渇を入れ、踏ん張る。しっかり立って前を向いた瞬間、顔面に拳が突き刺さった。

「二人とも仕事が忙しくてもっ、毎日が大変でもっ、それでも私を育てようと頑張ってくれていた!!」

 切れた唇から出た血が明日佳の拳を汚す。それを拭う素振りすらなく、そのまま連続したワンツーがまた顔面に叩き込まれる。

「大好きだった! 大好きで大好きで、自分がこの両親の子どもであることが何よりの誇りだった!!」

 明日佳の拳にまた血が付く。いや、あれは俺の血じゃない。明日佳の拳が俺の歯に当たって切れてしまったんだ。深く広く切れた傷口から滴る血さえ、明日佳は気にも留めず、握り締めた拳を俺の胸へと突き刺す。

「けどっ……!」

 肺を叩かれ呻く俺に、明日佳の振り下ろすような上段蹴りが落とされる。ああ、俯いていなければパンツが見えたかもしれない。そんな邪な考えも、脳天への衝撃で跡形もなく吹き飛んだ。

「大好きで、大好きだったけどっ!」

 何度も何度も、繰り返すラッシュが顔面に叩き込まれる。視界は狭まって、うっすらと見える光景は俺の口や鼻から飛沫を上げる血と。

「大好きと同じぐらいっ、大嫌いだったっ!!」

 いくつもの筋となって落ちていく、明日佳の涙。

「一緒にいてくれるだけでよかったのに! 良い生活なんて一回も望んだことなんてないのに! ただ一緒にいてくれればそれだけでよかったのに!!」

 泣きながら、明日佳は拳を振るう。涙はいくつもの水滴となって飛び散る。

「たったそれだけでよかったのに! どうして、それがわかってくれなかったのよ!!」

 大降りの右ストレートが顎を揺らした。その振りぬいた勢いのまま、明日佳の体が反転。速度も威力も乗った横蹴りが俺の腹を貫いた。

「傍にいてくれなかったのよ!!」

 ふらついた足でその威力に耐えられるわけがなく、俺は無様に吹き飛んで、背中を擦るように地面に横たわった。

「はぁ、は、はあっ、あ、はぁ……!」

 痛い、苦しい、辛い。

 けど、横たわってるわけにはいかないんだと。おまえは立ってなきゃいけないんだと。自分で自分を叱咤する。

 痛いのなんて慣れてる。苦しいからなんだ。辛いからなんだっていうんだ。確かに痛いよ。顔なんてもうぐちゃぐちゃで、血みどろでひどい有様だろうさ。体だって焼けるように痛い。骨の数本なんてとっくに折れてるだろうさ。けどさ、そんなのここじゃすぐ直るよ。柊弥だってそう言ってたじゃないか。そんなの問題でもなんでもないだろう。

 そもそもさ、違うだろ。苦しいのも痛いの、俺じゃないだろ。

 いつだって、その痛みに耐えてきた女の子がいるだろ。

「はぁ、はぁ、うぅ、あぁ……!」

 あそこで、声を上げて泣きはらしてる女の子が、一番痛いんだろ。

 今まで、痛くて苦しい想いをしてきたんだろ。

「ぐっ、ああ、はぁ……!」

 寝転がってんじゃねぇよ。立ち上がれよ。両足で踏ん張って、真正面から受け止めろよ。怖がるな、前を見ろ。泣きながらも拳を振るう彼女の姿を脳裏に焼き付けろ。ふらつくな、ちゃんと立て。痛みに顔をしかめる権利なんかおまえにはないだろう。苦しくなんてないだろう。涙で視界を曇らせるな。しっかりと目を見開いて、痛くても苦しくてもちゃんと二本の足で立って。

 彼女の痛みも、苦しさも悲しみも。

 『殴る』だなんて、辛い選択をした彼女の優しさを。

 全てこの身で、受け止めろ。

「ああ、うああああぁぁぁ!!」

 この拳は、彼女の優しさだ。

 裏切られるのが怖くて、また失うのが怖くて。だから遠ざける術を求めた、他を排除する技を求めた。近づけさせないために、遠ざけるために。他の誰かを傷つける力を身につけた。

 彼女はいつも優しかった。両親に裏切られる。そんな勘違いを経ても、彼女はその生来持っていた優しさを失わなかった。

 優しいから、嫌いになりたくなかった。

 信じたくってしょうがなかった。けど、信じられないから。だから、遠ざけるしかなかったんだ。殴りたくて殴ってるんじゃない。蹴りたくて蹴ってるんじゃない。ただ、近づいてほしくないだけ。

 そのためだけに身につけた、悲しい実力。

「ごめん、ごめんなさいっ……!」

 傷つける痛みを知っていて、それでも傷つけるという覚悟があるから。

 だからこんなにも、彼女の拳は胸に響くんだ。

「お父さんは立ち向かったんだよね? 逃げ出したんじゃないよね? お母さんも、私を守ろうとしたんだよね? だから背中を向けたんだよね?」

 自分を最後まで、最後の瞬間まで、命を賭して守ろうとした両親に泣きながら謝る姿は、どの拳や蹴りよりも、俺にとっては、痛い。

「ごめん、ごめんねっ。信じられなくてごめんなさい! 勘違いしてごめんなさい!!」

 泣きながら殴り、殴りながら、謝る。矛盾してるだろう。けど、これで正しいんだよ。だって、これは俺の贖罪だから。殴られるよりも、蹴られるよりも。彼女の泣き声が、嗚咽が、涙が、痛いんだ。

 心に、強く強く、響くんだ。

 明日佳の謝罪は、俺への罵倒でもあって。きっと明日佳は無自覚なんだろうけど、それが何よりも、痛いんだ。

 そういう、贖罪なんだ。

 肉も破け骨まで見えるほどボロボロになった明日佳の拳が、鈍い音を立てて俺の顔面に突き刺さった。


次ぐらいで四章は終わります。

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