第6話 濃紺の速度
今回は「違いを知る話」です。
同じ線路を走っていても、車体の癖も、止まり方も、守っている基準も違う。
時刻はその差異を「ミス」ではなく、「性質」として見ている気がします。
そして地上では、今日も自分のホームを確認している。そんな話です。
改札を抜けて、少し止まった。
ホームが、二つある。
一番線と二番線。どちらだったか。
三年住んでいる最寄り駅で、どちらのホームから乗るのか、
今日も思い出せなかった。
左の案内板を見る。上り方面、一番線。
いつも確認している。毎朝。
≪地上の私は、自分の乗り場すら覚えられない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
西崎がモニターを二画面切り替えながら、こちらを振り返った。
「おはようございます。今日は相中、落ち着いてますよ」
私はヘッドセットを手に取りながら、モニターを一舐めした。
落ち着いていない。
表面は静かだった。
信号は正常。
運行本数も定数通り。
しかし相中の直通車両の停車時間のログが、昨夜から微妙に揺れている。
前のときとは、揺れ方が少し違った。
あのときは停車時間が延びていた。
今日は逆だ。
わずかに、短い。
「ログ、出してもらえる? 相中の直通、今週の停車時間の実績値」
「はい——あ、これ、また六秒ですか?」
「今度は短い方」
「......短い?」
「平均より四秒から六秒、停車時間が短くなってる。二日前から」
西崎が画面を見た。しばらく無言だった。
「......短いのは、いいことじゃないですか。違うんですか?」
そうではない。
停車時間が短いということは、制動が遅くなっているということだ。
ホームの停止位置に近いところでブレーキをかけている。
乗客の乗降時間を削ってでも、定刻に合わせようとしている。
前回の指摘を受けて、運転士が意識しすぎているのかもしれない。
「乗降時間を削って帳尻を合わせてる。
ドアの開閉が急になれば、乗り遅れる乗客が出る。転倒のリスクもある」
「......あ」
「前回と同じ車両の担当かどうか確認してもらえる」
西崎がデータを引いた。
「......同じです」
そうだろうと思っていた。
* * *
午前十時を少し過ぎたころ、電話が来た。
大沼だった。
「——時刻さん。今日の直通、何かありますか?」
先に聞いてきた。
「あります」
「やはり」
一拍の間があった。
大沼も気づいていた。
気づいた上で、確認を入れてきた。
「停車時間が短くなっています。
前回の指摘の後、担当の運転士が意識しすぎているようです」
「......そう見えますか」
「数字がそう言っています」
また間が空く。
「担当者に確認したところ、制動のタイミングを前回より意識して、
修正しているとのことでした。ご迷惑をおかけしています」
「迷惑ではないですよ。ただ、今の状態が続くと乗降時間が削られる。
転倒リスクが出ます」
「......わかりました。過剰修正しないよう、改めて指導します」
「あと一点だけ」
「はい」
「相中の車両は、SRの車両より車体が少し長い。
ホームの停止位置との兼ね合いで、制動の感覚がSRとは違うはずです。
うちのホームに入るときの基準を、文書で共有しましょうか。
相中の運転士の方に合わせた数値で」
少し長い沈黙だった。
「......それは、助かります」
「一週間以内に送ります」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
西崎が口を開いた。
「......時刻さん、相中の車体の長さ、知ってたんですか」
「ええ、知ってるわ」
「なんで?」
「相中の車両がSRのホームに入るとき、毎回停止位置の誤差を見てるから」
西崎が何か言いかけて、やめた。
私はモニターに向き直りながら、少し考えた。
相中の濃紺の車両には、独特の走り方がある。
SR車両より車体が重く、加速のカーブが緩やかだ。
制動を始めるタイミングが早く、停止直前の速度の落とし方が、
SRとは違う曲線を描く。
それを最初に気づいたのは、半年ほど前だった。
数字ではなく、目で見て気づいた。
モニターの中の、小さな光点の動き方で。
胃が痛くなる相手だ、とずっと思ってきた。
しかし相中の車両の動き方には、独特の律儀さがある。
自社のルールを丁寧に守ろうとする、少し頑固な正確さ。
それがSRのホームの上では、ときどき噛み合わない。
噛み合わないのは、どちらが悪いのでもない。
ただ、違う。
* * *
昼過ぎに、西崎がホームの停止基準の草案を作ってきた。
「こんな感じですかね」
画面を見る。数値が三つ、不足していた。
「ここと、ここと、ここ」
「あ——全部、相中の車体諸元から出すやつですか」
「メーカーの仕様書に載ってる」
「......持ってるんですか、相中車両のメーカー仕様書」
「直通してる車両は全部持ってる」
西崎が「正気ですか」と呟いた。
それから「いや、もう驚かないようにしようと思ったんですけど」と続けた。
草案を修正して、大沼宛に送った。
十分後、短い返信が来た。
≪確認しました。使わせていただきます。≫
それだけだった。大沼らしい返信だった。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰りの電車の中。
ホームに降り立って、出口へ向かいながら、ふと思った。
相中の車両が今日も、このどこかを走っている。
濃紺の車体で、少し頑固な速度の落とし方で、自社のルールを丁寧に守りながら。
改札を抜けた。
外は、少し風が強かった。
* * *
帰宅すると、標が玄関のすぐ手前に立っていた。
何かを持っている。
紙だった。
「これ」
受け取る。手書きの表だった。
標の几帳面な字で、駅名と、ホーム番号と、乗り場の方角が、一覧になっていた。
最寄り駅から、職場の最寄りまで。よく使う乗換駅も、全部。
「毎朝、案内板を見てるでしょ」
黙って、表を見た。
「財布に入れておいて」
標は特に何も言わなかった。台所に戻っていった。
私は表を折りたたんで、財布に入れた。
定期入れのすぐ後ろに。
ソファに座る。
時刻表を引き寄せる。
今夜はどこを読もうか——ページをめくる手が、少しだけ、ゆっくりだった。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間三十七分。
* * *
次話 第7話「目覚ましの朝」
相中の「濃紺の速度」は、時刻にとって厄介で、でも嫌いではない存在として描きました。
数字の向こうに、人の癖や会社の文化が滲む。指令業務の面白さはそこにある気がしています。
あと標は、たぶん今後も静かに生活インフラを整備し続けます。
ホーム番号一覧を財布に入れるシーンは、個人的にかなり好きです。




