第5話 醤油は四本
人は、ときどき同じものを何度も買ってしまう。
確認したはずなのに忘れていて、忘れていることにも気づかない。
けれど仕事の現場では、たった数秒の違和感も見逃さない人がいる。
今回は、そんな「日常」と「指令室」の温度差の話です。
棚の前で、少し止まった。
スーパーの調味料の棚。
醤油のコーナー。
いつものものを手に取り、かごに入れた。
それから思い出した。
先週も買った。
先々週も買ったかもしれない。
確かめに戻るのは面倒だった。
かごに入れたまま、レジへ向かった。
* * *
帰宅すると、標がちょうど夕食の片付けをしているところだった。
袋を棚に置く。瓶を取り出す。標が手を止めた。
「……また醤油?」
「在庫がなかったかもしれない」
「あるよ。もう四本も......」
四本。
「新記録じゃないかな」
標は特に怒った顔をしていなかった。
ただ少し、遠い目をしていた。
醤油の瓶を五本目として棚に並べながら、何かを計算しているような顔だった。
おそらく消費ペースを。
≪地上の私は、目の前の棚すら確認できない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
翌朝、東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は普段と、少し違う日だった。
月に一度の合同輸送障害訓練。
相模中央鉄道との共同名義で行われる、仮想障害対応の訓練だ。
机上のシミュレーションではなく、
実際の指令室どうしが無線と電話でやりとりしながら、
架空の事象に対処する。
西崎が訓練用のシナリオ資料を広げていた。
「今日の想定、去年より規模が大きいですね」
「相中が設定を変えてきた」
「え、また?」
「毎年少しずつ難しくしてる。去年の訓練で、
うちが早く解決しすぎたのが気に入らなかったんじゃないかしら」
「……それって嫌みですか、それとも褒めてるんですか」と西崎が呟いた。
どちらでもない。観察だ。
無線が入った。相中の指令室からだ。
「——こちら相中指令、大沼です。本日の合同訓練、よろしくお願いします」
「こちらSR、時刻です。よろしくお願いします」
訓練開始の形式的な挨拶だった。
しかし大沼の声は、いつもの電話より、わずかに温度が違った。
訓練が始まった。
* * *
想定シナリオは、相中・SR双方の接続駅付近での架線断線だった。
上下線ともに運転見合わせ。
乗客の誘導、代替ルートの案内、バス振替の手配——
相中とSRがそれぞれの担当区間を持ちながら、接続部分を共同で処理する。
最初の十五分は順調だった。
問題が起きたのは、シナリオの第二フェーズだった。
架線断線の復旧が遅れる想定が加わり、代替バスの輸送量が限界に近づく。
相中は自社の代替ルートを優先し、SR側の乗客が取り残されかけた。
大沼から無線が入った。
「SR、代替バスの第三便をそちらに回せますか。
うちの優先区間の処理が終われば——」
「待って」
間があった。
「相中の優先区間の処理が終わる前に、SR側の乗客があと十七分で飽和します。
第三便を今すぐ回してもらわないと間に合わない」
「......うちの優先区間がまだ」
「大沼さん、相中の優先区間の乗客数と、SR側の現在の滞留人数、
比較してもらえますか」
少し間が空いた。シナリオ内のデータを確認している間だ。
「......SR側の方が、多い」
「倍近くある。どちらを先に動かすか、数字が答えを出してますよ」
また間があった。今度は短かった。
「......わかりました。第三便、SR優先で回します」
訓練の中の大沼は、実際の大沼とよく似ていた。
感情で判断しかけて、数字で修正する。
その速度が、今日は少し早かった。
* * *
訓練終了後、無線越しに大沼の声が戻ってきた。
「......時刻さん」
「はい」
「第二フェーズ、うちの判断が遅かった。SR側の滞留数を先に確認すべきでした」
訓練の講評を、自分から始めた。
「相中の優先区間への対応は正しかった。
ただ、次のフェーズの数字を手元に持っておく必要があった、ということですね」
「そうです。......次回に活かします」
短い。いつもの大沼の短さだった。
しかし今日のそれは、電話口の圧力とは、少し重さが違った。
「こちらも勉強になりました」
「......お互い様で」
無線が切れた。
西崎が資料を片付けながら、独り言のように言った。
「大沼さん、訓練だと素直ですね」
私はモニターの電源を落とした。
「訓練だから、じゃないと思う」
「じゃあ何ですか」
「共同作業だったから」
西崎が、少し考える顔をした。
何かを言いかけて、止めた。それでいい。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、台所の棚の前に標が立っていた。
醤油の瓶を、何本か並べていた。
五本、全部。
ラベルを前に向けて、等間隔に。
「......何をしているの」
「在庫管理」
標は振り返らなかった。
瓶のひとつに付箋を貼った。
小さな付箋に、細かい字で何かを書いている。
「次にこれを買うのは、五本なくなってから。
一本当たり大体三週間かかるから——」
「十五週間後ね」
「そう。......だいたい来年の二月」
来年の二月。
時刻表を読もうと思っていた手が、少しだけ止まった。
来年の二月のダイヤ改正の時期と、ほぼ重なる。
「改正明けに買えばいいわね」
標が振り返った。
「......ダイヤ改正を買い物の目印にするの、姉ちゃんだけだと思う」
そうかもしれない。
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。
今夜は相模中央鉄道の路線図を、もう少し丁寧に見ようと思った。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと七時間十二分。
* * *
次話 第6話「濃紺の速度」
合同訓練という「共同作業」の場に置かれることで、
時刻と大沼の関係が少しだけ変化した回でした。
互いに譲らず、それでも数字を通して同じ方向を見る。
その距離感を書いています。
そして地上では、静かに増殖する醤油。
完璧な指令員にも、管理できないものはあるようです。




