第4話 空回り
洗剤を入れ忘れる人間が、秒単位の違和感は見逃さない。
日常生活は壊滅的なのに、ダイヤの乱れだけは許せない時刻結衣。
今回は、相中との“六秒”を巡る小さな攻防と、少しだけ見えてきた大沼という人間の話です。
洗濯機が止まった。
終了のチャイムが鳴り、私は脱水の終わった洗濯物を取り出した。手触りがおかしかった。何かが足りない気がした。においを嗅いで、わかった。
洗剤の匂いがしない。
「……あ」
洗濯機の投入口を確認すると、洗剤が入ったままだった。キャップを開けていなかった。扉を開けて、回して、終わるのを待って、取り出した。それだけで洗剤を入れる工程が一つ抜けていた。
「今週二回目だよ」
標がリビングから声をかけてきた。台所ではなかった。リビングだった。標は今、本を読んでいた。私の洗濯機のチャイムの音で何が起きたかを察して、部屋の奥から声だけ出した。姿を見せなかった。見に来るまでもないと判断したのだ。
「……もう一回回す」
「うん」
それだけだった。
洗剤を入れて、もう一度スイッチを押す。モーターが回り始める音がした。今度は中身がある。外側は同じ動作だが、中身がまったく違う。
≪地上の私は、中身を入れ忘れたまま回し続ける、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日から、少しだけ空気が変わる。——というのは私の中の話で、
西崎には関係ない。
西崎は、いつも通りモニターの前に座って、
いつも通り何かが気になる顔をしていた。
「おはようございます。今日……相中、なんか変じゃないですか」
「どこが」
「なんか、ブレーキが……早い、気がして。気のせいかもしれないですけど」
気のせいではない。
ヘッドセットをつけながら、
昨日から頭に引っかかっていたものの輪郭が定まる。
相中の濃紺の車両がSRのホームに入るとき、制動のタイミングが心持ち早い。
秒単位の話だ。乗客には気づかれない。
普通の指令員なら見過ごす。しかし積み重なると、
SRホームでの停車時間が統計的に伸びる。
乗降に余分な時間がかかり、発車が遅れる。
その遅れが次の列車に伝播する——
「ログを引いて。相中直通車両の、過去二週間の停車時間の実績値を出して」
「はい——」西崎がキーボードを叩く。しばらくして、「出ました。……あ、これ」
「わかった?」
「平均より……四秒、長い?」
「六秒ね。誤差ではないわ」
六秒。
一本の列車で六秒の停車超過が発生すれば、朝の運行密度では後続に影響が出る。
相中の直通は一時間に複数本ある。それが二週間続けば——
電話が鳴った。相中だ。
「——大沼です。今日の直通ダイヤについて確認させてください」
「こちらも確認したいことがあります」
「......先に言いますか」
「どうぞ」
「先週木曜から、SR側のホームでの停車超過が出ていると、
うちの運転士から報告を受けています。何か変更がありましたか」
私は少し考えた。
大沼が先に言ってきた。
相中側も、「違和感」には気づいていたのだ。
「変更はありません。
ただ、相中の車両の制動タイミングが二週間前から変化しています。
SR側の問題ではないです」
電話口の先が、静かになった。
怒りの沈黙ではなかった。
考えている沈黙だった。
大沼という人間の、珍しい間だった。
「......うちの制動タイミングが、変化している?」
「直通車両の停車時間の実績値で確認できます。
過去二週間、平均より六秒の超過が出ている。誤差の範囲を超えています」
「確認したい......データを、送ってもらえますか」
「もちろん、送ります」
西崎がデータをまとめ始めた。私は続けた。
「原因として考えられるのは三つです。一つ目は車輪の磨耗。
二つ目は制動プログラムのアップデート後の調整不足。
三つ目は運転士の交代による個人差の蓄積。どれかに心当たりはありますか」
また沈黙。今度は短かった。
「......二週間前に、当該運用の担当が変わっています」
「では三つ目ですね」
「......そうなりますね」
大沼の声が、わずかに低くなった。
怒っているのではない。
恥ずかしいのでもない。
ただ、認めているのだ。
自分の側の問題を、きちんと。
「乗務員の訓練で対応します。ご指摘、ありがとうございます」
短い礼だった。このあいだ確か火曜日にも聞いた、大沼の短い礼。
しかし今回は少し違った。
あのときは情報の非対称への礼だった。
今回は、自分の側のミスを指摘されたことへの礼だった。
電話が切れた。
西崎が感想をこぼした。
「......大沼さん、認めるの早かったですね。もっと揉めるかと思いました」
「大沼さんは、正しいことには正直よ」
「時刻さんが認めてもらいやすい言い方をしてる、っていうのもあると思いますけど」
私はモニターに向き直った。西崎の言葉を、否定しなかった。
* * *
午後、もう一本電話が来た。大沼からだった。
「先ほどの件で、担当の乗務員に確認したところ——
引き継ぎの際にSRとの接続駅での制動基準の説明が、
不十分だったことがわかりました。うちの管理の問題です」
報告だった。
あらためて電話で報告を入れてきた。
わざわざ。
「対応、お願いします」
「はい。......一点だけ」
「なんでしょう」
「うちの運転士が、SRとの接続で余計な負担をかけていたことは——
乗客の方々には、気づかれていませんでしたか」
私は少し考えた。
「遅延として記録が出たのは一件だけです。あとは誤差の範囲で吸収しています」
「......そうですか」
また短い沈黙。
今度はほっとしたような沈黙だった。
大沼という人間が、乗客のことを考えていることを、
私はこのとき初めてはっきりと知った。
「乗客には、気づかれていません」
「......ありがとうございます」
電話が切れた。
それを聞いていた西崎が、結衣に尋ねる。
「今日二回目の『ありがとう』ですよ、大沼さんから。珍しくないですか」
「珍しくない」
「え、そうですか?」
「正しいことをしたときに礼を言う人間よ。今日は正しいことが二回あっただけ」
「……なんか、フォローしてますよね、時刻さん」と小声で言った。
フォローではない。観察だ。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、洗濯物が干してあった。
ベランダに、朝もう一度回したはずの洗濯物が、きれいに干されていた。
私は干した記憶がなかった。
洗濯機を回し直して、取り出して——そこで止まっていた。
取り出したまま、洗濯機の前で時刻表のことを考え始めて、
脱水の終わった洗濯物をかごに移して——そのまま出勤していた。
標が干したのだ。
台所に標がいた。
夕食の支度をしていた。
振り返りもしなかった。
「洗濯物、ありがとう」
「うん」
それだけだった。
私はソファに座って、今日のことを少し考えた。
大沼が乗客のことを心配していたこと。
自分の側のミスを認めて、報告を入れてきたこと。
相中という会社は、胃が痛くなる相手だ。
しかし大沼という人間は、思っていたより、ずっと真っ当だった。
時刻表を引き寄せる。
相模中央鉄道の路線図のページを、今日は少し長く眺めた。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間四十八分。
* * *
次話 第5話「醤油は四本」
「中身を入れ忘れたまま回し続ける」という冒頭の比喩が、今回の結衣そのものになりました。
生活は空回るのに、指令卓に座ると誰よりも正確に世界を見る。
そして最後、干された洗濯物の静かな優しさが、結衣をちゃんと“地上”につなぎ止めています。




