第7話 目覚ましの朝
今回は、運行判断という「正解が複数ある状況」の話になりました。
安全を優先する相中と、流動全体を見て時刻を調整するSR。
どちらも間違っていないからこそ、すり合わせが難しいのだと思います。
アラームが鳴った。
手が、止める前に消した。
布団の中で、少し考えた。
止めるつもりだった。止めるためにスマートフォンを手に取った。
しかし指が画面の上をすべって、気づいたときには消えていた。
もう一度セットしようとして、やめた。
今日は早出だ。
台所から音がした。標がもう起きている。
「……今週三回目だよ」
声だけが飛んできた。姿は見えない。
「聞こえてたの」
「壁、薄いから」
≪地上の私は、止めるつもりで消す、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は朝から、空気が重かった。
台風が来る。
気象庁の発表では、夕方から夜にかけて首都圏に最接近する見込みだった。
暴風域に入る時刻と、ラッシュの時間帯が、嫌な角度で重なっている。
西崎がモニターを見ながら、資料を広げていた。
「今日、どうしますか」
「何を?」
「いや、運休の判断。相中と調整が必要ですよね」
必要だ。
相中とSRは直通している。
片方が止まれば、もう片方にも影響が出る。
全線運休にするかどうか、どのタイミングで判断するか。
それを両社で合わせなければならない。
内線が鳴った。大沼だった。
「——時刻さん。今日の台風、うちは夕方五時を目安に運休判断を出す方向で、
検討しています。SRさんはいかがですか」
五時。
私の手元にある気象データでは、暴風域の接近は六時から六時半の間だった。
五時に運休を出すのは、一時間から一時間半、早い。
「うちは六時を目安に考えています」
「一時間の差がありますね」
「ええ、あります」
短い沈黙があった。
「SRさんは、何を根拠に六時を」
「今朝六時時点の気象庁データと、台風の進路予測の三パターンを比較しています。
最悪ケースでも暴風域の接近は五時四十分以降。
五時に運休を出すと、帰宅途中の乗客が最も多い時間帯に電車が止まります」
「......しかし、安全を考えれば早めに止める方が」
「止める判断は正しい。時刻の問題です」
大沼が、少し止まった。
「五時に止めると、ホームと改札に人が溢れます。
その状態で暴風が来た方が危ない。
六時まで動かして、暴風域の直前で止める方が、乗客の安全は高い」
「......六時まで動かして、間に合いますか」
「三パターン全部で試算しました。
最悪ケースでも六時十分には全列車が駅構内に収容できます」
また沈黙。
今度は長かった。
大沼が何かを確認している音がした。紙をめくる音だった。自社のデータを見直しているのだろう。
窓の外で、風が少し強くなり始めていた。
まだ穏やかだった。しかしこれが、夕方には別の顔になる。
「......もう一度、確認させてください。
六時十分に全列車が収容できる、という試算の根拠を」
私は数字を三つ、順番に伝えた。
大沼が聞いていた。途中で遮らなかった。
「......わかりました」
一拍の間があった。
「六時で合わせます」
* * *
午後から、風が強くなった。
三時を過ぎると、駅のホームで傘が使えなくなり始めた。
四時には一部の区間で速度規制が入った。
結衣は速度規制の入った区間の列車を一本ずつ確認しながら、
六時に向けての収容シナリオを頭の中で更新し続けた。
五時四十分。
暴風域の接近が、予測より十五分早まった。
西崎が声を上げた。
「時刻さん、気象庁の更新が——」
「見たわ」
手が動いていた。六時の収容予定を五時五十分に前倒しする。
一路線ずつではなく、全線を同時に動かす必要がある。相中との調整が要る。
大沼に電話した。
「暴風域の接近が早まりました。収容を十分前倒しします。
相中も合わせてもらえますか」
「......どのくらいで」
「五時五十分を目標に。今から十分あります」
「わかりました」
電話が切れた。
西崎が「大沼さん、今日早いですね」と呟いた。
早い、のではない。準備ができているのだ。
五時四十八分。全列車が駅構内に収容された。
五時五十三分。暴風域に入った。
ホームの外で、風が鳴った。
* * *
復旧の見通しが立ったのは、夜の九時過ぎだった。
台風が抜けて、風が静かになり始めたころ。
大沼から電話が来た。
「......今日のSRは、正しかった」
短かった。
いつもの大沼の短さだった。
しかし今日のそれは、電話口で圧力をかけてくる声とも、
礼を言う声とも、少し違った。
何か別のものが混じっていた。
「大沼さんも、正しかったですよ」
「......どういう意味ですか」
「五時の判断は、安全を優先した正しい判断でした。
ただ、時刻が一時間ずれていた。それだけです」
沈黙。
「......そういう言い方をするんですね、時刻さんは」
「事実ですから」
また短い沈黙。
「次の台風も、よろしくお願いします」
電話が切れた。
西崎が、独り言のように言った。
「……なんか、今日の大沼さん。いつもと違いましたね」
私はモニターの復旧状況を確認しながら、少し考えた。
違う、とは思わなかった。
ただ、今日で何かが一段落したような気がした。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
深夜に帰宅した。
標はまだ起きていた。
台所のテーブルに、温め直せるものが置いてあった。
何も言わずに置いてあった。
私はそれを温めながら、ソファの時刻表に手を伸ばした。
今夜はどこを読もうか——ページをめくる。
相模中央鉄道の路線図のページが、開いた。
しばらく、眺めた。
標が台所から出てきた。
向かいに座る。自分の分の湯呑みを持って。
「……相鉄、好きなの?」
少し考えた。
「胃が痛い」
標が、小さく笑った。
声には出さなかった。
湯呑みを両手で持って、少し下を向いた。
それだけだった。
外の風は、もう静かだった。
始発まで、あと四時間五十一分。
* * *
第2章「相中という胃痛」完
次話 第8話「かごのない買い物」(第3章「NR東という圧力」)
大沼との関係が、少しだけ変わった回でした。
敵対でもなく、理解でもなく、「相手の判断基準を知った」に近い感覚です。
結衣にとって相中は相変わらず胃痛の種ですが、同時に、かなり真面目で誠実な相手でもあります。
あと、標の「相鉄、好きなの?」に対する「胃が痛い」は、かなり結衣らしい返答になった気がしています。




