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コレが私のダイヤグラム。On Time‼  作者: ちとせ鶫
第1章 基礎工事

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第3話 傘の帰還

傘を忘れる。

ゴミの日を間違える。

けれど列車の遅延だけは、誰にも気づかせず吸収してしまう。

これは、“生活”だけが壊滅的に下手な運行管理士と、黙って傘を拾い続ける弟の物語です。

 傘立てに、傘が三本並んでいた。


 全部、私のものだった。


 玄関を出ようとして、ふと振り返る。

 三本の傘。黒、紺、黒。

 どれがいちばん新しいかわからない。

 標が拾ってきたものだ。

 正確には、私が置いてきたものを標が回収してきたものだ。


「それ、持っていくの?」


 台所から声がした。


「......今日は晴れか」

「午後から雨だよ。天気予報、見た?」


 見ていなかった。


「じゃあ持っていく」

「どれ?」

「......どれでもいい」


 標が台所から出てきて、いちばん右の黒い傘を無言で私に渡した。


「これ、先週木曜に荻窪で拾ってきたやつ。

 姉ちゃんが置いてきた傘の中でいちばん新しい」

「......荻窪まで行ったのか」

「用事があったから」


 標の顔は、特に何も言っていなかった。

 怒ってもいないし、自慢しているわけでもない。

 ただ事実を述べている顔だった。

 用事があったから、ついでに拾ってきた。

 それだけのことだ。


 玄関のドアを開けながら、私は後ろを振り返った。


「今年で何回目だっけ」

「わからなくなった」


 標は、もう台所に戻っていた。


≪地上の私は、傘の在り処すら管理できない、ただの役立たずだ。——けれど。≫


     * * *


 東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。


 今日は朝から西崎の顔が暗かった。


「おはようございます。今日、なんか嫌な感じがするんですよね。

 うまく言えないんですけど」

「どこが」

「どこ、というか……なんとなく」

「なんとなくは情報じゃない」


 西崎が「そうですけど……」と言いながらモニターを見た。

 今朝の路線状況は表向き問題なかった。

 信号は正常、天候は曇り、車両の運用数も定数通り。

 しかし西崎の「なんとなく」を、私は完全に無視することもしなかった。


 嫌な予感というのは、往々にして何かを見ているのだ。

 本人が言語化できていないだけで。


「どの区間が気になる」


「......南武線方面、かな。なんか、流れが重い気がして」


 南武線方面。SR南武支線との接続区間だ。

 私はその区間の昨日からの運行ログを手元に引き寄せた。

 特に異常はない。が——


「車両の番号を確認して。今朝の南武支線、クモハ何番が入ってる」


 西崎が調べて答えた。


 私は一瞬、止まった。


「......運用変更かけて。

 その番号、先月の定期検査で制動系に軽微な所見があった車両だ」

「え、でも検査は通ってますよね?」

「通っている。ただ、今日は午後から雨で、

 ブレーキの効きが湿潤路面で若干落ちる可能性がある。

 検査所見と気象条件が重なった場合の運用方針が、

 うちは慎重寄りに設定されている」


 西崎がぽかんとした顔をした。


「時刻さん……さっきまで何のデータも見てなかったじゃないですか」

「頭の中にあった」

「車両の検査所見が?」

「先月の所見レポートは全車両分、読んである」


 西崎が「……正気ですか」と呟いた。私は答えなかった。


     * * *


 午後一時十四分。


 南武支線で車両故障が発生した。


 制動系の不具合、ではなかった。

 パンタグラフの降下異常だ。

 しかし結果として車両は運用を外れ、

 後続の急行二本が立て続けに各停への振替を余儀なくされた。


 急行の乗客を各停で吸収する。

 簡単に言えばそれだけのことだが、急行と各停では停車駅数が違う。

 急行に乗った乗客の中には、通過予定だった駅に用事のない人間が大半だ。

 各停に振り替えれば、全員が余分な停車時間を食う。


「振替案内、出します」西崎がキーボードを叩き始めた。

「急行利用者に各停の案内を——」

「待って」

「え?」

「各停だけじゃ足りない。今の時間帯、南武支線から乗り換えて、

 品川に向かう流れが二本分詰まると、品川での東海道線の接続が崩れる。

 乗り換え客が溢れる前に手を打つ」


 私はモニターを三画面切り替えながら、頭の中でルートを組み直す。


 南武支線の遅延を、SR本線の間隔調整で吸収する。

 品川方面行きの次の急行を二分だけ繰り上げ、

 品川での東海道線との接続時間を確保する。

 さらに、各停に振り替えた乗客のうち途中下車が見込まれる駅を三つ特定して、

 そこでの乗降時間をあらかじめ余裕を持たせた発車タイミングに変更する——


「……今、何本同時に動かしましたか」


 西崎が呆然とした顔でモニターを見ていた。


「六本」

「六本を……同時に」

「順番はある。ただ、考えるのは同時にやらないと間に合わない」


 乗客は今この瞬間もホームで待っている。

 一分の判断の遅れが、六本の列車の遅延に化ける。

 それを知っているから、速くなる。速くなる必要があるから、頭が動く。


 十四分後、南武支線の代替運用が確立した。

 急行振替による遅延は、品川での東海道線乗換客に届く前に吸収された。


「……東海道線の乗換客、気づいてないと思いますよ。遅れたことに」

「そうなるように動いた」

「すごい。いや、ほんとうに」

「乗客は遅れを知らなくていい。

 知らなくていいことを知らないままでいられることが、On Timeだ」


 西崎がしばらく黙っていた。


 それから、少し遠慮がちに言った。


「……時刻さんって、ON/OFFの差が激しすぎません?」


 私はモニターから目を離さなかった。


「傘のことか」

「傘に限らず、なんか……外だとぜんぜん別人みたいで」


 答えなかった。


 答えは、ない。

 あるとすれば、鉄道空間だけが私を私にする、ということだ。

 しかしそれは答えであって、説明ではない。

 西崎が聞きたいのは説明の方だろう。だから黙っていた。


「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」


---


 定時に上がって、改札を抜けた。

 ホームへの階段を降りながら、今日持ってきた傘のことを考えた。


 どこに置いたか——


 指令センターだ。


 ヘッドセットの横に立てかけて、そのまま帰ってきた。

 足が止まりそうになった。が、止めなかった。


 標は明日また、荻窪か、あるいは別の駅か、どこかへ用事に行くだろう。

 そのついでに拾ってくる。

 三本が四本になる。

 それだけのことだ。


 電車が来た。扉が開く。乗り込む。


 車内に入った瞬間、スイッチが入りかける——気づいて、少し笑った。

 仕事じゃない。

 今日はただの乗客だ。


 窓の外に、雨が降り始めていた。

 予報通りだった。


     * * *


 帰宅すると、標が玄関で私を見た。

 傘を持っていない私を、一秒見た。


 何も言わなかった。


 ただ、奥へ引っ込む前に一度だけ振り返って、傘立てを見た。

 三本のうち、今日持ち出した一本が、ない。


 標は何も言わなかった。


 言わなかったことが、何かを言っていた。


 私はソファに座って時刻表を引き寄せた。

 今夜の路線はどこを読もうか——廃止された路線の、もう動かない列車の、

 約束の時刻が並んでいるページを開く。


 台所で何かを炒める音がした。

 玉ねぎの匂いがした。


 私が何も言わなくても、標は夕食を作っていた。


 外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。

 始発まで、あと七時間四分。


     * * *


第1章「基礎工事」完

次話 第4話「洗剤の行方」(第2章「相中という胃痛」)

今回は「知らなくていいことを、知らないままでいられることがOn Time」という結衣の思想を書きたかった回でした。

そして、何も言わず傘立てを見る標の視線が、この姉弟の距離感をいちばん表している気がします。

第1章「基礎工事」、ここまで読んでくださってありがとうございました。次章「相中という胃痛」では、結衣と大沼の“路線戦争”がさらに本格化します。

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