第24話 標の知っていること
昭和五十三年版の時刻表は、テーブルの上にあった。
三日前に買ってきてから、毎晩開いていた。あの路線のページを探した。終着駅の名前。見覚えがある気がして、しかし何も思い出せないまま、三日が経っていた。
今日も開いた。
標が向かいに座った。
珍しかった。標は普段、私が時刻表を読んでいるときは台所か居間にいる。テーブルを挟んで向かいに座ることは、ほとんどない。
黙っていた。
私も黙っていた。
しばらく経って、標が口を開いた。
「その時刻表、昭和五十三年版でしょ」
「そう」
「......どのページを読んでるの」
私は時刻表を標の方に向けた。廃線になった路線のページだった。
標が、少し止まった。
止まり方が、いつもと違った。
「......○○線」
標が路線名を読んだ。声が、低かった。
「知ってる?」
「......うん」
標が立ち上がった。自分の部屋に行った。しばらくして戻ってきた。
手に、古い写真を持っていた。
* * *
写真は、一枚だった。
小さな駅のホームだった。木造の屋根が写っていた。ベンチがあった。人が写っていた。
大人が二人と、子供が二人。
私と、標だった。
私は小学校の低学年くらいだった。標はまだ幼稚園か、小学校に上がったばかりくらいの年に見えた。
隣に立っている大人は——
「お父さんとお母さん」
標が言った。
私は写真を見た。
記憶がなかった。
この駅に来たことの記憶が、ない。
「.....覚えてないの?」
「覚えていない」
標が少し間を置いた。
「覚えてないよね。姉ちゃん、あのとき七歳だったから」
「......どこの駅」
「○○線の終着駅。この路線、廃止が決まってた年に、お父さんが連れて行ってくれたんだよ」
私は時刻表のページに目を戻した。
終着駅の名前が、そこにあった。
* * *
「廃止になる前に乗っておきたいって言って、お父さんが計画して。姉ちゃんとお父さんと俺の三人で行った。お母さんは用事があって来れなかったから、途中の駅で合流した」
標が続けた。
「終着駅まで乗ったんだよ。小さな駅だった。ホームが一本だけで、折り返しの列車を待つベンチがあって」
私は何も言わなかった。
「姉ちゃんは、そのベンチに座って、時刻表を読んでた。お父さんが持ってきてた時刻表。たぶん、その年の版だと思う」
標が写真を指さした。
「このとき」
写真の中の私が、何かを持っていた。見えなかった。しかし言われてみると、それが時刻表の背表紙かもしれなかった。
「帰りの列車が来たとき、姉ちゃんが泣いてた」
私は標を見た。
「……泣いていた?」
「うん。俺、見てた。お父さんもお母さんも気づいてなかったと思うけど、俺は隣にいたから。声は出してなかった。ただ、目から出てた」
標が写真を見た。
「なんで泣いてたのか、俺には聞けなかった。七歳の姉ちゃんに」
* * *
私は、何も思い出せなかった。
その駅に行ったことも。お父さんと乗った列車も。ベンチで時刻表を読んでいたことも。帰りの列車が来たことも。
何も。
しかし標は、見ていた。
「俺が覚えてるのはそれだけ。あとは——帰りの車の中で、姉ちゃんがずっと時刻表を開いてたこと」
標が写真をテーブルに置いた。
「その路線、廃止になったの、その翌年だったから」
私はテーブルの上の時刻表を見た。昭和五十三年版。廃止が決まっていたその年の時刻表を、お父さんが持ってきていた。
七歳の私が、そのページを読んでいた。
そして、泣いていた。
* * *
しばらく、どちらも何も言わなかった。
台所の時計が、秒を刻んでいた。
標が写真を手に取った。
「この写真、お父さんの形見の中にあったよ。俺が保管してた」
「......ありがとう」
「昭和五十三年版を買ってきたから、もしかしたらって」
そうだったのか、と思った。
標は「なんでもない」と言って台所に戻った日から、この写真を出すタイミングを考えていたのかもしれない。
写真は、テーブルの上にあった。
小さな終着駅のホーム。木造の屋根。ベンチ。
私はそのベンチに座って、時刻表を読んでいた。
その年の、その路線の、最後の時刻表を。
* * *
夜、時刻表のあのページを開いた。
終着駅の名前があった。
今は、もうない駅だった。
しかしその駅のホームに、かつて私はいた。七歳で、時刻表を読んでいた。列車が廃止になることを知っていたか、知らなかったか、今はわからない。ただ、帰りの列車が来たときに、泣いていた。
なぜ泣いたのか。
七歳の私は、何を感じていたのか。
今の私には、まだわからない。
しかし。
何かが、少しだけ近くなった気がした。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間十六分。
* * *
〔次話 第25話「コレが私のダイヤグラム」〕




