第23話 昭和五十三年のダイヤ
休日だった。
標が朝から買い物に出ていた。
私はリュックを背負って、神保町に向かった。
* * *
神保町の古書店街は、平日と休日で、人の流れが変わる。
今日は土曜日だった。それでも、目当ての棚の前には誰もいなかった。
三軒目の古書店の、鉄道関係の棚。そこに並んでいた。
昭和五十三年版の時刻表。
背表紙が日焼けして、少し歪んでいた。カバーの端が擦れていた。一度、誰かの手に渡って、また戻ってきたのかもしれない。
手に取った。
重かった。
ページを開いた。
その場で立ったまま、読み始めた。
* * *
昭和五十三年。私が生まれる前の年だ。
この年に走っていた列車は、今はほとんど残っていない。路線が廃止されたものもある。会社が統合されたものもある。
ページをめくった。
廃止された路線が出てきた。
今は地図にない路線名が、活字で並んでいた。始発駅、終着駅、途中の駅名。それぞれの時刻。一分、二分、五分。列車が来て、人が乗って、列車が行った。そのすべての時刻が、ここに残っていた。
「......またいらっしゃいましたね」
店主の声がした。顔を上げると、レジの向こうから白髪の男性がこちらを見ていた。
「はい」
「昭和五十三年版、ありましたか」
「ありました」
「状態はよくないですが」
「構いません」
店主が少し頷いた。私はまたページに戻った。
* * *
購入して、店を出た。
近くの公園のベンチに座った。リュックから時刻表を取り出した。
廃線のページを開いた。
この路線に、かつて人が乗っていた。毎朝、この時刻に来る列車を待っていた。約束があった。列車が来るという約束。その約束が守られれば、その人は学校に間に合う。仕事に間に合う。誰かに会える。
列車が、約束を運んでいた。
その路線は、今はない。
しかし、ここに時刻は残っている。
なぜ残すのだろう。
誰も乗れない列車の時刻を、なぜ。
* * *
答えは出なかった。
ページをめくり続けた。
昭和五十三年の全国の路線が、ひとつずつ現れては消えた。北から南へ。知っている路線も、知らない路線も。
どこかで、手が止まった。
ある路線のページだった。廃線になったその路線は、地方の小さな私鉄だった。路線名も今は残っていない。終着駅の名前を見た。
見覚えがある気がした。
しかし思い出せなかった。
どこで見たのだろう。
長い時間が過ぎた。気づかないうちに、光の角度が変わっていた。夕方になっていた。
ベンチに座ったまま、何時間経ったかわからなかった。
* * *
帰りの電車に乗った。
リュックが重かった。
窓の外を見ながら、今日のことを考えた。
答えは出なかった。しかし何かが、動いた気がした。
廃線のページに手が止まったとき。
終着駅の名前を見たとき。
あの感覚が、何だったのか。
記憶の底のどこかに、何かがある。
それが何かを、まだ言葉にできない。
電車が、定刻通りに走っていた。
窓の外を、知らない駅が流れていった。
私は時刻表を膝の上に開いたまま、終点まで乗り続けた。
* * *
帰宅すると、台所から匂いがした。
標がいた。
「おかえり。......また重そうだね」
「一冊だけ」
「一冊でそんなに重いの」
「昭和五十三年版は分厚い」
標がリュックを覗いた。
「......でかい」
「そうね」
「今日、ごはんは食べた?」
「......」
「食べてないんだね」
「神保町で本に集中してた」
標が「わかったよ」と言って台所に戻った。
私はソファに座って、昭和五十三年版を膝の上に開いた。
あのページをもう一度確認したかった。終着駅の名前。
標が夕食を持ってきた。並べながら少し手が止まった。
時刻表の背表紙を見ていた。
「姉ちゃん」
「うん」
「その時刻表、どこで買ったの」
「神保町」
「......昭和五十三年って、何があった年か知ってるの?」
少し、考えた。
「ダイヤ改正が大きい年だった」
「それだけ?」
「......何か、他にあった?」
標が少し間を置いた。
「なんでもない」
台所に戻っていった。
私は時刻表のページをめくった。あの路線。終着駅の名前。
何かが、まだそこに引っかかっていた。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間三十八分。
* * *
〔次話 第24話「標の知っていること」〕




