第22話 西崎の問い
標が、いなかった。
旅行に行っていた。友人と、二泊三日の旅行だった。昨日の夜に出発していた。
帰宅すると、玄関が暗かった。台所も暗かった。
部屋の電気をつけた。
テーブルの上に、付箋が一枚あった。
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冷蔵庫に作り置きが三種類あります
温め方は扉に書いてあります
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冷蔵庫を開けた。容器が三つ、ラップがかかって並んでいた。扉の内側に、それぞれの温め時間が書いてあった。
一つを取り出した。電子レンジに入れた。右のボタンを押した。あたため。指定の時間。
チャイムが鳴った。
取り出した。テーブルに置いた。
食べた。
ひとりで食べると、少し長かった。音がなかった。
≪地上の私は、標がいないと何もできない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
昨日の豪雨の後処理が、今日も続いていた。
遅延証明書の発行処理、振替輸送の精算、各社との記録の照合。昨日の本番が終わって、今日は書類の日だった。
西崎が記録をまとめながら言った。
「昨日、改めて振り返ると——すごい一日でしたね」
「そうね」
「四社が全部絡んで、全部対応して。時刻さん、全部頭の中に入ってたんですか」
「ええ、入ってたわ」
「......どうやってるんですか」
「路線図が頭の中にある。そこに列車の現在地が重なっていく。どこが詰まっているか、どこに余裕があるか、見えてる」
「見えてる......」西崎が繰り返した。「僕には見えないです」
「訓練よ」
「訓練で見えるようになるんですか」
「なるわ。ただ時間がかかる」
西崎がしばらく作業を続けた。
それから、少し間を置いて言った。
「時刻さん」
「はい」
「聞いていいですか」
「どうぞ」
「......なぜOn Timeにこだわるんですか」
結衣は、手を止めた。
キーボードの上に置いていた手が、止まった。
答えようとした。
でも、すぐに答えが出なかった。
なぜ、と言われると——わからない。いつからこだわっているかもわからない。誰かに教わった覚えもない。ただ、ずっとそうだった。列車が時刻通りに走ることが、当然のことで、それ以外を想像したことがなかった。
「......わからない」
「わからない?」
「今は、わからない」
西崎が少し止まった。
「今は、って——いつか答えがでるんですか?」
「わかるかもしれない。わからないかもしれない」
沈黙があった。
結衣は再びキーボードに向かった。しかし指が、少し重かった。
西崎の問いは、刺さっていた。
なぜOn Timeにこだわるのか。
答えは——なかった。正確には、答えが浮かびかけて、消えた。形にならなかった。何かが、頭の奥の方にある気がした。しかしそれが何かが、今はまだ、わからなかった。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
その夜、標のいない部屋で、時刻表を開いた。
どこを読もうか、と思った。
廃止された路線のページを開いた。昭和五十三年。もう走っていない列車の、もう守られない時刻が並んでいた。
いつからこのページを好きだったか、思い出せなかった。
ページをめくる手が、止まった。
西崎の問いが、頭の中にあった。
なぜOn Timeにこだわるのか。
答えは、このページのどこかにある気がした。しかし、どこかがわからなかった。
気づくと、三時間経っていた。
空腹を、少し感じた。冷蔵庫には、まだ二つ残っていた。
立ち上がって、取り出して、温めた。
食べながら、また時刻表を読んだ。
廃止された駅の名前が並んでいた。その駅に、かつて人が降りた。時刻通りに列車が来て、人を乗せた。その列車は、今はもう走っていない。
しかし、その時刻は、ここに残っている。
——なぜ残すのだろう。
答えは出なかった。
外は静かだった。標がいないと、静かだった。
始発まで、あと四時間二十七分。
* * *
翌朝、標が帰ってきた。
玄関を開けた標が、ただいまも言わずに台所へ向かった。冷蔵庫を開けた。閉めた。
「一種類しか食べてないでしょ」
そうだった。用意された三種の料理のうち、昨夜食べたのは一つだった。
「......時刻表を読んでいた」
「わかってる」
標が荷物を下ろしながら、少し笑った。声には出なかった。
「旅行、どうだった」
「良かったよ。ご飯が美味しかった」
それだけだった。
標が夕食の準備を始めた。包丁の音がした。湯気の匂いがした。
部屋に、音が戻った。
* * *
〔次話 第23話「昭和五十三年のダイヤ」〕




