第21話 最長の遅延
郵便局の窓口で、少し詰まった。
住所を書いてください、と言われて、フォームを受け取って、ペンを持った。
「〇〇区——」
次が出なかった。
一瞬だったか、三秒くらい固まっていたが、それから続きが出てきた。書き終えた。
標に話すと、「今年二回目だよ」と言った。
「......住所は変わってないのに」
「十年住んでるよ」
標がお茶を持ってきた。テーブルに置いて、台所に戻った。それだけだった。
≪地上の私は、自分のいる場所の住所が咄嗟に出ない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日の朝は、気圧が低く重かった。
天気予報では、午後から豪雨になると言っていた。梅雨前線が停滞している。風も強くなる見込みだった。台風ではない。しかし線状降水帯が発生する可能性がある、という情報が朝から出ていた。
西崎がレーダーを見ながら言った。
「今日、ひどくなりそうですね」
「そうね」
「前の台風のときより、悪いですかね」
「種類が違う。台風は進路が読める。線状降水帯は——」
その瞬間、最初の電話が来た。相中の大沼だった。
「——時刻さん。今日の雨、SR側はどう見てますか」
「悪い方向で準備しています」
「うちも同じです。午後二時以降、相中南部で運転規制に入る可能性があります」
「了解です。SR側の南部接続の準備を始めます」
電話が切れた直後、榎本から内線が来た。
「TR都心部、午後から信号系への水害対策に入ります。一部区間で速度規制の可能性があります」
「わかりました。接続点の乗換誘導を準備します」
それから三分後、浜田からも電話が来た。
「湾急です。羽田方面、横風規制の可能性が出ています。午後の便に影響が出るかもしれません。SR側の接続に余裕がなくなる可能性があります」
「把握しました。余裕枠を確保しておきます」
西崎が「三社から同時に来ましたね」と言った。
「今日は全部つなげるわ」
「全部?」
「相中が詰まればSRが詰まる。SRが詰まればTRに影響が出る。TRが詰まれば湾急の乗換客がSRに流れてくる。四社が数珠つなぎになる可能性がある」
西崎が少し黙って影響を考えた。
「台風より規模が大きいですね」
「準備の仕方が違う。台風は一つの嵐が過ぎれば終わる。今日は、どこかが詰まるたびに別の場所に波及する」
* * *
午後一時、雨が強くなり始めた。
一時四十分、相中南部で運転規制が入った。
同時に、TRの都心部二区間が速度規制に移行した。SR南武支線方面に乗換客が集中し始めた。
電話が鳴り始めた。
大沼から「相中南部、規制範囲を拡大します」。榎本から「TR三号線、速度規制に入ります」。浜田から「羽田方面、横風で一部便を速度落とします」。
三社が、ほぼ同時に動いていた。
結衣は、頭の中で路線図を展開した。
相中南部の規制がSR南部に波及する。その乗客がSR中央部に集まる。中央部が詰まれば、TR接続駅のホームが溢れる。TRが速度規制中にホームが溢れると——
「西崎、TR接続の三駅、今すぐホーム管理の強化を依頼して。榎本さんに」
「はい——」
「相中からの乗換客の誘導は大沼さんに確認。振替案内を先に出す」
「どこへの振替ですか」
「湾急経由を加えて。羽田方面は避けて、都心方向だけ」
「湾急経由——」西崎が手を動かしながら「浜田さんに確認しますか」
「確認する。今電話して」
西崎が電話で浜田と話している間、結衣は大沼と榎本に同時に連絡した。
今日は三本の電話を、順番ではなく重ねながら動かした。
二時間が、静かに過ぎた。静かに、とは言えなかった。しかし結衣の頭の中だけは、静かだった。全路線の現在地が見えている。どこが詰まっているか、どこに余裕があるか、次にどこが危ないか。
三時十五分、線状降水帯が都心を直撃した。
三社が一斉に運転見合わせに入った。
* * *
五時四十分、段階的な再開が始まった。
今日は第十六話の地震のときと違った。地震は一瞬で止まって、一斉に再開した。今日の豪雨は、じわじわと詰まって、じわじわと戻っていく。
相中から先に動き始めた。続いてSR南部。TR都心部。湾急は横風が残っていたため、速度規制のまましばらく走った。
浜田から電話が来た。
「SR南部の復旧、確認しました。湾急接続、問題ありません」
「ありがとうございます」
「今日は......四社が全部つながりましたね」
「そうですね」
「こういう日に、SRが全体を見てくれるのは——助かります」
短かった。浜田らしい短さだった。しかし今日は、速さが少し違った気がする。
電話が切れた。
大沼から電話が来た。
「相中、通常ダイヤに戻りました。今日は......ありがとうございました」
「お互い様です」
「SR側なしでは、今日の規模は対応できなかった」
大沼が言い切った。
珍しかった。認めるときはいつも短いが、今日は言い切った。
榎本からも連絡が来た。
「TR線、全線復旧しました。今日の対応、記録しておきます」
「よろしくお願いします」
「......今日のような規模は、初めてでした」
「私もです」
短い沈黙があった。
「次回も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
電話が切れた。
七時を過ぎていた。
西崎がモニターの前でようやく背中を伸ばした。
「......終わりましたね」
「まだ遅延の吸収が残ってるわ」
「でも、今日はすごかった。三社同時って、初めて見ました」
「違う、四社よ」
「......そうか、四社か」西崎が笑った。「四社を、時刻さんが一人で」
「一人じゃない。西崎さんが動いてくれたから」
西崎が少し驚き、その言葉を噛みしめた。
「......時刻さんにあらためて言われると、なんか照れますね」
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、標が玄関に立っていた。
何も持っていなかったが、少しその姿を見て、ほっとした。
「今日、遅かったね」
「豪雨の対応だったのよ」
「ニュースで見てた」
標が少し間を置いた。
「......大変だったでしょ」
「大変だった」
珍しく、そのまま答えた。
標が台所に向かいながら「ごはん、今から温める」と言った。
私はソファに座って、今日のことを少し反省した。もっと早く手を打てた部分があった。浜田への振替案内の確認を、三十分早くできていれば——
時刻表を引き寄せる手が、今夜は少し重かった。
それでも、ページを開いた。
外の鉄路を、雨が叩いていた。
始発まで、あと五時間十二分。
* * *
〔次話 第22話「西崎の問い」〕




