第20話 弾丸と時刻
ポットを持ち上げて、注いだ。
シンクに、お湯が落ちた。
気づいたのは、注ぎ終わってからだった。コップは、右手の隣にあった。ポットはコップの左にあった。左から持ち上げて、左に注いだ。それだけのことだった。
「姉ちゃん、コップそっちじゃない」
標の声がした。振り向くと、標が台所の入口に立っていた。
「......あ」
「今週二回目だよ」
もう一度お湯を沸かした。今度はコップに注いだ。
標が戻っていった。何も言わなかった。
お湯の入ったコップを持ちながら、少し考えた。
無意識だった。動作の途中で、何も考えていなかった。手が動いて、気づいたら終わっていた。
≪地上の私は、完全な無意識でお湯を間違えた場所に注ぐ、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は残業になることが、朝からわかっていた。
湾急との合同深夜ダイヤ調整が、今夜入っていた。先月から準備してきた予兆検知の連携実験を始めるにあたって、まず深夜の接続ダイヤを共同で組み直す作業だった。
西崎が今日も定時で上がった。
「今夜、何時頃まで?」
「わからない」
「菓子パン、三個置いていきます」
二個増えた。
* * *
二十一時、浜田から電話が来た。
「浜田です。始めましょうか」
「はい」
「資料、共有しました」
画面に湾急の深夜ダイヤが出た。SRの深夜ダイヤと並べて表示する。二社のダイヤが、接続点で噛み合う部分と噛み合わない部分がある。噛み合わない部分を、今夜調整する。
「SR側の深夜メンテナンスの窓口時間を、先に共有します」
「わかりました」
時刻を伝えた。湾急側がメモを取っている気配があった。浜田は「メモします」とは言わなかった。ただ、少し間が開いた。
「確認しました。では湾急側のメンテナンス時間を——」
「二時十五分から三時四十五分、のはずですが」
間があった。
「......知ってたんですか」
「先週の工事予定表に入っていました。TR側の共有資料に含まれていました」
「......TR側から共有が来るんですか」
「データ交換をしています」
また間があった。今度は少し長かった。
「......SRは、どの路線と情報を持ち合ってるんですか」
「TR、相中、NR東、それから今月から湾急と」
「ほとんど全部じゃないですか」
「接続のある路線とは、持ち合う方が効率的です」
浜田がごく短く笑った。笑い声ではなかった。息を吐く音だった。
「なるほど」
それだけ言って、作業に戻った。
* * *
二時間かけて、接続点の調整が終わった。
深夜三時前後の一区間で、SR側のメンテナンス作業車と湾急の回送列車が競合する可能性があった。SR側の作業を十七分前倒しするか、湾急の回送を二十三分後ろにずらすか。どちらが現場への影響が小さいか。
計算した。
「SR側の前倒しの方が影響範囲が小さいです。ただ、作業開始時刻が変わるので現場に確認が必要です」
「こちらの回送を後ろにずらします」
「確認しましたか」
「今確認しました」
浜田の速さだった。電話しながら、別のルートで現場に確認していた。
「ありがとうございます」
「お互い様です」
それから、少し間があった。
浜田が、ゆっくり言った。
今まで聞いた浜田の声の中で、一番ゆっくりだった。
「......On Timeって」
「はい」
「どこで覚えたんですか」
結衣は少し止まった。
答えが、なかった。正確には、答えが一つに絞れなかった。いつから、とは言えない。誰かに教わった言葉でもない。ただ、気づいたらそう呼んでいた。
「......わかりません」
「わからない?」
「気づいたら、そう呼んでいました」
浜田が黙った。
「うちでは、遅延ゼロって言ってます。同じことですよね」
「同じだと思います」
「なんで違う言葉を使うんでしょう」
少し考えた。
「遅延ゼロは、遅れないことを目標にしています。On Timeは——遅れない、ではなくて、時刻通りにある、ということです。少し違う」
「......少し違う」
「遅れないは、失敗を防ぐことです。On Timeは、あるべき状態にいることです」
長い沈黙だった。
「......そういう言い方、したことなかったな」
声の温度が変わっていた。速さは戻らなかった。
「来月の連携実験、うちの担当者に伝えておきます」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
電話が切れた。
時計を見た。二十三時四十二分だった。
菓子パンを一個食べた。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、標はもう寝ていた。
テーブルに、ラップの皿と付箋があった。
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レンジ あたため 2分(右)
お湯はコップに入れること
(シンクじゃない方)
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最後の一行が増えていた。
私は付箋を見た。
シンクに注いだお湯のことを、標はメモにした。データとして記録した。そして次のための指示として書き残した。
コップにお湯を入れた。今度は正しい場所に入った。
温め直した夕食を食べながら、外の音を聞いた。
どこかを、赤い弾丸が走っている気がした。深夜でも、湾急は走っている。浜田の路線が、海の上を今も走っている。
時刻通りに。
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。今夜はもう読まなかった。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと四時間三十三分。
* * *
〔第5章「湾急という弾丸」完〕
〔次話 第21話「最長の遅延」(第6章「On Time、理由」)予定〕




