第19話 同じ旋律
標の声が、遠くから聞こえる。
「......姉ちゃん。ごはんできてるよ」
顔を上げた。
部屋が暗くなっていた。窓の外が夕方の色をしていた。昼間の光が、いつの間にか消えていた。
時計を見た。十七時二十二分だった。
「......十五分だけ読むつもりだった」
「三時間前からできてるよ」
テーブルの上に、時刻表が広げてあった。湾急のページだった。赤い路線が、羽田から都心へ伸びている図だった。
「今月二回目だよ」
標が台所に戻っていった。
私は時刻表を閉じた。
≪地上の私は、時刻表を読むと時間の流れが消える、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は、浜田から資料が届いていた。
羽田アクセス増便の詳細データと、もう一つ——「湾急遅延ゼロプロジェクト推進報告書」という表題のPDFが添付されていた。
西崎が首をかしげた。
「......遅延ゼロプロジェクト、ですか」
「湾急が社内で進めているプロジェクトよ。去年から始まってる」
「知ってたんですか」
「データで気づいてた。実態は初めて見る」
読み始めた。
* * *
報告書は、五十ページほどあった。
内容を読み進めると、手が少し止まった。
湾急の遅延ゼロプロジェクトの中核にあるのは、「予兆検知」だった。遅延が起きてから対応するのではなく、遅延が起きる前に兆候を読んで先手を打つ。気象データ・乗降客数・車両の稼働状況・接続他社のダイヤ——これらを組み合わせて、三十分先の運行状況を予測する。
予測が七割を超えた時点で、対応策を用意する。
七割。
その数字で、手が完全に止まった。
「......七割」
「え?」と西崎が振り返った。
「七割の可能性なら動く、って言ってる」
「それって、時刻さんが言ってたやつじゃないですか」
昔から、私はそう動いてきた。七割の可能性が見えた時点で準備を始める。待っていても遅延は来ない。来るかもしれないときに、来る前に動く。
それと、同じことが書いてあった。
読み続けた。
「接続他社の遅延パターンを蓄積して、自社への影響を事前に把握する」——やっている。「乗客の流れを先読みして、ホームの滞留が起きる前に列車を動かす」——やっている。「一本の遅延が波及する前に、次の列車の間隔を調整する」——やっている。
全部、やっている。
違うのは規模と路線の数だけだった。
西崎が「時刻さん、どうしましたか」と言った。
「......同じだ」
「何がですか」
「湾急のやり方。うちのやり方と、ほとんど同じ」
西崎がのぞき込んだ。報告書を少し読んだ。
「......確かに、言われてみれば」
「名前が違う。言葉が違う。でも、根っこは同じ」
乗客を、時刻通りに届ける。そのために、遅延が起きる前に動く。なぜ動けるかというと、パターンを読んでいるから。なぜパターンを読めるかというと、データを積み上げているから。
結果として——列車は、誰にも気づかれずに、定刻通りに走る。
乗客には、遅れたことがわからない。
それがOn Timeだ。
* * *
夕方、浜田に電話した。
「資料、読みました」
「ありがとうございます」
「遅延ゼロプロジェクトの予兆検知の部分を確認しました。七割の閾値はいつ決めたんですか」
短い沈黙があった。
「......二年前です。それ以前は五割でやっていましたが、対応コストが高かった。七割に上げたら、精度と効率が両立しました」
「SR側では、最初から七割でやっています」
「......知りませんでした」
「知らなくて当然です。公式に発表したことはないので」
「なぜ七割なんですか」
少し考えた。
「七割の可能性を無視して詰まったとき、誰が損をするかを考えたら、答えが出たからです」
浜田がしばらく黙っていた。
「......同じ理由です」
短かった。
声の温度が、少し変わった気がした。速さは変わらなかった。しかし、何か別のものが混じった。
「SR側のデータを、もう少し共有してもらえますか。接続点での予兆検知を、湾急とSRで連携できるか試したい」
「試してみましょう」
「いつ頃から始められますか」
「来月には準備できます」
「わかりました」
電話が切れた。
「......なんか、今日の浜田さん。違いましたね」と西崎が言った。
「そうね」
「ちなみに、時刻さんは、どこが違うと思いましたか?」
「同じ、を見つけた後の声だから」
西崎が「......それ、どういう意味ですか」と言った。
うまく説明できなかった。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、テーブルに夕食が置いてあった。
標がソファで本を読んでいた。
「......昨日もごはん冷めたから、今日はレンジで温め直せるものにした」
「ありがとう」
「何時間読んでたの、今日は」
「四時間」
「記録更新じゃないね。前も四時間だったから」
標がページをめくった。
「何読んでたの」
「湾急の路線図」
「......また鉄道の話」
「また、ね」
標が本に戻った。
私はテーブルに座って夕食を食べた。レンジで温め直したものだった。温かかった。
時刻表の間で四時間消えていたことが、少し不思議だった。時間が消えたというより、時間が別の速度で流れていた気がした。
湾急の路線図を読みながら、気づかないうちに、浜田のことを考えていたのかもしれない。
ソファに座る。時刻表をもう一度引き寄せる。今夜はもう少しだけ——標が「また?」という顔でこちらを見た。
閉じた。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間五十七分。
* * *
〔次話 第20話「弾丸と時刻」〕




