第16話 全線、止まらない
出かけようとして、鍵が、なかった。
玄関で靴を履いて、鞄に手を入れた。定期入れのリールはあった。スマートフォンはあった。財布はあった。鍵がなかった。
台所に戻った。テーブルの上にはなかった。洗面台の横にはなかった。昨夜脱いだコートのポケットを確認した。ない。
「鍵、どこ」
標の声が台所から返ってきた。
「冷蔵庫の上」
見た。あった。
「......ありがとう」
「今週三回目だよ」
≪地上の私は、自分の鍵の居場所を、弟にしか聞けない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は午前中から静かだった。
昨日の第十五話の信号機工事が無事に終わって、通常ダイヤが戻っていた。榎本からのデータ交換も一段落していた。TR、SR、相中——それぞれのログが落ち着いた動きをしていた。
西崎がコーヒーを飲みながら言った。
「今日は本当に平和ですね」
「そうね」
十三時二十二分。
揺れた。
最初は小さかった。次の瞬間、大きくなった。デスクの上のものが動いた。モニターが揺れた。立ち上がった。揺れがおさまるのを待った。
三十秒ほどで、揺れが止まった。
すぐに確認した。
全線、緊急停止していた。
* * *
安全確認のための全線運転見合わせ。
これは想定内だった。地震の規模にもよるが、一定以上の揺れが来れば自動的に列車が止まる。問題はここからだった。止まった列車を、どの順番で、どのタイミングで動かすか。
TR、SR、相中、NR東——四社が同時に止まっている。四社が同時に動き始めれば、接続点で競合が起きる。順番が重要だった。
電話が三本、ほぼ同時に鳴った。
大沼、桐島、榎本。
西崎が「どれから出ますか」と言った。
「三本とも」
ヘッドセットを一つ、スマートフォンを一つ、内線を一つ。三つを同時に持った。
「時刻です。三社同時に聞いています。まず安全確認の状況を確認させてください。榎本さん、TR線内の異常は」
「現時点で軌道異常なし。設備点検中」
「大沼さん、相中は」
「相中も異常報告なし。確認中」
「桐島さん、NR東は」
「在来線は異常なし。新幹線は別途確認中」
「ありがとうございます。SR側も異常なし。これから段階的再開の順番を提案します」
三者が黙った。
誰も異論を言わなかった。
「地下から順番に動かします。TR線の都心部を最初に再開してください。地下は閉じた空間なので、乗客の滞留が長くなると危険です。TR線が動いてから、SR線が接続区間を順次再開します。相中は、SR南部の確認が取れてからお願いします。NR東は——」
「うちは一番最後で構いません」
桐島だった。
「NR東の在来線は代替手段が多い。地下鉄と私鉄を優先してください」
「わかりました。その順番で進めます」
* * *
再開は、十四時十分に始まった。
TR線の都心部が最初に動き出した。続いてSR線の中心部。
問題が起きたのは、十四時二十七分だった。
相中の南部で、レールの点検に時間がかかっていた。当初の予定より二十分の遅れが出る見込みになった。
大沼から電話が来た。
「点検に時間がかかっています。SR側に影響が出ますか」
「出ます。相中からSRへの直通を使っている乗客が、現在SR南部のホームで待機しています。二十分の遅れが確定するなら、今から案内を出します」
「......出してもらえますか」
「出します。ただ、二十分の見込みが変わりそうなら、すぐに連絡をください。案内を出した後に時間が延びると、二重の混乱になります」
「わかりました。十分ごとに報告します」
大沼は、言った通りに報告してきた。十分後、二十分後、三十分後。相中の点検は予定より遅れたが、大沼の報告が正確だったため、SR側の案内を先手で更新できた。
十五時四十分、全線再開。
遅延の残滓が各線に残っていたが、十六時三十分には通常ダイヤに近い状態に戻った。
* * *
西崎が大きく息を吐いた。
「......終わりましたね」
「まだよ。遅延の吸収が完了するまで見ておいて」
「はい——でも、すごかったですね。三社同時に電話するって」
「四社よ。桐島さんも」
「......あ、そうか。四社か」
榎本から内線が来た。
「TR線、通常ダイヤに復帰しました。今日は......SRに助けてもらいました」
静かな声だった。
事務的でも感情的でもない、今まで聞いたことのない種類の声だった。
「お互い様です。地下が止まったままでは、地上も動けませんから」
「......そうですね」
「次回も、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
電話が切れた。
西崎が口を開けていた。
「......榎本さん、今『助けてもらいました』って言いましたよね」
「そうね」
「初めてじゃないですか、そういうこと言うの」
「そうかもしれない」
「......すごい」
すごくはない。ただ、何かが動いた気がした。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、玄関の棚に小さな器が置いてあった。
陶器の、浅い器だった。
「鍵置き場」
標の声が台所から来た。
「冷蔵庫の上じゃなくて、玄関に定位置を作った」
器の中に、すでに鍵が入っていた。予備の鍵だった。
「帰ったらここに入れて。出るときここから取る」
「......わかった」
「毎朝聞かれるの、俺も覚えるのも、そろそろ限界だから」
標の声に笑いはなかった。ただ、少し疲れていた。
私は鍵を器の中に入れた。カランという音がした。
「ありがとう」
「うん」
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。
地震は、路線図のどこかで起きた。揺れは、地下にも地上にも届いた。止まったものが、また動き出した。
それでいい。止まっても、また動けば。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間八分。
* * *
〔第4章「TR地下の支配者」完〕
〔次話 第17話「トーストの残骸」(第5章「湾急という弾丸」)〕




