第15話 腕時計のない人
時計が、なかった。
電車の中で時刻を確認しようとして、左手首を見た。何もなかった。
スマートフォンを取り出した。画面が暗かった。電源ボタンを押した。反応がなかった。
充電が切れていた。
向かいの座席の乗客の腕を、少し見た。腕時計をしていた。七時四十三分だった。
車内のアナウンスが聞こえた。次の駅名を告げていた。
定刻通りだ、と思った。
≪地上の私は、「時刻」という名字でありながら時刻を計る手段を持ち歩かない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は、信号機更新工事の当日だった。
先週から準備してきた四分間のための対応が、今日実行される。西崎が出勤前に確認のメッセージを送ってきていた——スマートフォンの電源が切れていたので、読んだのは職場に着いてからだった。
「おはようございます。今日ですね」
「そうね」
「......緊張しますね」
「しない」
「時刻さんはしないんですね」と西崎が言って、モニターの準備を始めた。
榎本から内線が来たのは、十時少し前だった。
「工事開始まで、あと一時間です。SR側の準備状況を確認させてください」
「準備完了しています。工事終了の合図を待ちます」
「秒単位で送ります。......一点だけ」
「はい」
「前倒し運行の幅、実際に動かしてみて問題があれば、随時調整してください。うちのデータで想定した値ですが、地上の実態と誤差が出る可能性があります」
少し止まった。
榎本が先に言ってきた。誤差の可能性を、自分から。
「わかりました。こちらもリアルタイムで調整します」
「よろしくお願いします」
電話が切れた。
西崎が「......榎本さん、今日やわらかいですね」と呟いた。
やわらかくはない。準備をしている声だった。
* * *
工事は十一時に始まった。
榎本から秒単位の進捗が来た。「工事開始」「信号系切断」「作業開始」——TR側のシステムが刻んでいた。
結衣はその合図に合わせて、SRの列車を動かした。
前倒しの幅は、データの想定より二秒ほど広げた。地上の風が強かった。それだけの話だった。
四分間が、静かに過ぎた。
「信号系復旧」の合図が来た。
接続待ちの一本が、TR線からの乗換客を回収した。
定刻プラス四十秒で、通常ダイヤに戻った。
西崎が「......終わりましたね」と言った。
榎本から短い内線が来た。
「対応、確認しました。予定通りです」
「ありがとうございます」
「礼は——」
「わかっています」
短い間があった。
榎本が、ごく静かに言った。
「......少し聞いていいですか」
いつもと違う問い方だった。
「はい」
「地下と地上の路線は、どちらが先に存在したと思いますか」
* * *
西崎が手を止めた。
結衣は少し考えた。問いの意味を考えた。
「地上が先です。人が歩いた道の上に、最初の路線が敷かれました」
「そうですね」
「ただ、地下鉄が開通してから、地上の路線の設計が変わりました。地下があるから、地上が動ける区間が増えた。どちらが先かという問いと、どちらが重要かという問いは、別です」
間があった。
「......地上の人間が、そう言うとは思いませんでした」
「事実ですから」
「地下の人間は——」榎本が少し止まった。「地上に支えられている、と思っています。しかし地上の人間はそれを、あまり意識しない」
「お互い様ではないですか」
「どういう意味ですか」
「地上の列車は、地下の乗客に支えられています。地上の乗客は、地下がなければ都心に来られない。意識していないのはお互いです」
長い沈黙だった。
今まで聞いた榎本の沈黙の中で、これが一番長かった。
「......あなたは、変わっていますね」
「どういう意味ですか」
「地上の人間が、地下の論理で話す」
結衣は少し考えた。
「地下の論理で話しているのではないと思います。ただ、路線図を全部見ている」
また沈黙。
「......次の工事のときも、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
電話が切れた。
西崎がモニターの前で、少し呆然としていた。
「......今の、仕事の話でしたか」
「半分ね」
「もう半分は」
「路線の話よ」
西崎が「同じですよね、それ」と言った。
そうかもしれない。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、標がテーブルに何かを置いていた。
腕時計だった。
シンプルな文字盤の、細いベルトの時計だった。値札がついていた。
「......買ってきたの」
「今週四回目だから」
手に取った。軽かった。
「つけるの嫌いなの?」
「......嫌いではない。忘れるだけ」
「じゃあ玄関に置いとく。鍵と一緒に」
標が台所に戻った。
私は時計を玄関の棚に置いた。鍵の横に。
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。今夜は——地下の路線図を、少し眺めた。
地上と地下が交差する駅が、いくつもあった。どちらが先かではなく、どちらも今そこにある。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間二十九分。
* * *
〔次話 第16話 全線、止まらない〕




