第14話 水だけが炊けた
炊飯器が、完成の音を鳴らした。
タイマー予約で、七時に合わせてあった。蓋を開けた。湯気が出た。においが、しなかった。
中を見た。
水だけが、炊けていた。
米がない。内釜の底に、透明な液体が薄く残っているだけだった。昨夜、タイマーをセットして、水を入れて、時刻表を読み始めて——米を入れ忘れた。
「......あ」
台所から標が出てきた。炊飯器を一度見た。
「......何を炊いたの」
「......時刻表を読んでいた」
「今月二回目だよ」
標が黙って冷蔵庫を開けた。冷やごはんのパックを取り出した。電子レンジに入れた。右のボタンを押した。あたため。二分。
何も言わなかった。
≪地上の私は、中身を入れ忘れてタイマーだけ動かす、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日の朝、榎本からデータが届いていた。
TR線の過去二年分の運行実績データだった。約束通りだった。こちらからも昨日、SR側のデータを送ってある。
西崎がデータを開きながら言った。
「......榎本さん、きっちりしてますね。約束した翌日に届いた」
「そういう人よ」
データを確認しながら、別のことを考えていた。
来週、TR線の都心部で信号機の更新工事が行われる。夜間工事ではなく、日中の一時間。TR側から事前通知が来ていた。工事中は該当区間が四分間、信号なしの状態になる。その四分間、TRと接続するSRの列車をどう動かすか。
四分は短い。しかし鉄道の時間では、四分は長い。
西崎が顔を上げた。
「来週の信号機更新、どうしますか」
「考えてる」
「TR側は速度規制でカバーするって言ってますけど、SR側は」
「SR側は速度規制だけじゃ足りない」
西崎が少し止まった。
「......どういうことですか」
「TR線内で速度規制が入ると、接続駅での乗換客の流れが変わる。変わった流れがSRのホームに来る。その四分間、SRのホームには通常より多い乗客が滞留する。速度規制で列車を遅らせると、その乗客をさらに長く待たせることになる」
「......じゃあ、どうするんですか」
「逆よ」
「逆?」
「四分間、SRの列車を少し早く動かす。ホームの滞留が増える前に、乗客を運び出す」
西崎が黙った。しばらく考えていた。
「......でも、TR線内の速度規制中に、SRを早く動かすと——接続のタイミングが」
「ずれる。だから四分後の復旧タイミングで、一本だけ接続待ちをする。その一本が、TR線からの乗換客を回収する」
「......それ、TR側に伝えましたか」
「これから伝える」
* * *
榎本に内線した。
「来週の信号機更新の件です。SR側の対応方針を共有します」
「はい」
「工事中の四分間、SR線では速度規制ではなく微小な前倒し運行を実施します。工事終了後の最初の接続便で、TR線からの乗換客を回収します。TR側には、工事終了のタイミングを正確に共有していただけますか。一分の誤差があると、回収便が空振りになります」
沈黙があった。
今回の沈黙は、いつもと少し種類が違った。精査している沈黙ではなく——何かを考え直している間のような沈黙だった。
「......前倒し運行は、通常の対応ではありませんね」
「はい」
「どこから思いついたのですか」
少し考えた。
「TR線のデータです。今朝届いた二年分の実績データに、類似の状況が三件ありました。そのうちの一件で、SR側の前倒し対応が有効だったことがデータに残っていました」
長い沈黙だった。
「......うちのデータに、そういう読み方ができるとは思っていませんでした」
「データが教えてくれました」
「......工事終了のタイミングの共有、秒単位で行います」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
西崎が小声で言った。
「......今朝届いたデータを、もう使ったんですか」
「使ったというより、読んだ」
「何時間で?」
「出勤してから今まで」
西崎が「正気ですか」と呟いた。
その言葉を聞いたのは、今日で何回目だろうか。数えていなかった。
* * *
来週の準備を進めながら、午後が過ぎた。
四分間のためのダイヤを組む。前倒し幅を秒単位で計算する。接続待ちの便を決める。沿線各駅への案内のタイミングを設定する。
隙間のない四分間が、少しずつ形になっていった。
西崎がモニターを見ながら言った。
「......時刻さん、これって、信号機が動いてない四分間を、ダイヤで埋めてるってことですよね」
「そうね」
「......すごいな」
すごくない。データがそこにあって、パターンがあって、答えを出しただけだ。
ただ。
四分間の空白を埋める作業は、少し気持ちよかった。パズルのピースが合わさるような、静かな充実感があった。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰宅すると、炊飯器の前に付箋が貼ってあった。
----------------------------------
① 米を入れる
② 水を入れる
③ タイマーをセット
①を忘れると水だけ炊ける
----------------------------------
最後の一行まで書いてあった。
標が台所で夕食の準備をしていた。振り返らずに言った。
「順番、貼っておいた」
「......見た」
「①が大事」
「わかった」
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。今夜はTR線の路線図を少し丁寧に見ようと思った。
地下を走る線路が、紙の上に広がっていた。信号機が、何百本と並んでいる。来週のうちの一本が、四分間、止まる。
その四分間のための準備が、もう終わっている。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間四十四分。
* * *
〔次話 第15話 腕時計のない人〕




