第13話 詰まる前に
第13話を読んでくださりありがとうございます。
今回は、主人公が日常の中で最もよくつまずく
「持ち歩くべきものを持ち歩けない」という
小さな欠落から始まります。
そして物語は、
指令センターでの“詰まる前に動く”判断へと移っていきます。
日常の不器用さと、
仕事での即応性。
その落差が、
主人公という人物の輪郭をよりはっきりさせる回です。
改札が、止まった。
ピ、という短い音がして、バーが動かなかった。
ICカード入れを財布から取り出して確認した。Suicaが入っていた。定期入れがない。定期入れだけが、ない。
後ろに人が来ていた。
脇に避けた。スマートフォンを取り出した。標に連絡しようとして、止まった。標に定期入れはない。定期入れは職場にある。昨日、ヘッドセットの横に置いたまま帰ってきた。
改札の係員に声をかけた。事情を説明した。係員が確認して、通してくれた。
プラットフォームに上がりながら、スマートフォンを見ると、標からメッセージが来ていた。
-----------------------
また?
-----------------------
一文字だった。
返信した。
-----------------------
今月三回目
-----------------------
標から即座に返ってきた。
-----------------------
知ってる
-----------------------
≪地上の私は、自分の乗車資格を持ち歩けない、ただの役立たずだ。——けれど。≫
* * *
東京指令センターのドアをくぐった瞬間、スイッチが入る。
今日は午前中から、落ち着いた一日の気配がした。TR線も相中も、ログは静かだった。西崎が資料を整理しながら、珍しく欠伸をした。
「今日は平和ですね」
「そうね」
十時を過ぎたころ、西崎が入力作業をしていた。SR南武支線の直通枠の変更申請の処理だった。
十時十七分。
西崎が手を止めた。
「......あ」
小さな声だった。しかし結衣には聞こえた。
「何?」
「......入力、間違えました」
結衣はモニターを確認した。
南武支線の直通枠の変更が、誤った番線に登録されていた。その番線は今日の午後、別の臨時列車が使用予定だった。このまま放置すると、午後二時以降に競合が発生する。競合が発生すると、南武支線上り三本が速度規制に入る。速度規制に入ると——
手が動いていた。
誤登録を訂正する。正しい番線に変更する。今日の午後の臨時列車のスケジュールと、南武支線の運行予定を照合する。競合が発生しないことを確認する。
三分で、終わった。
西崎が画面を見ていた。動けないでいた。
「......すみません、時刻さん」
結衣はモニターから目を離さなかった。
「訂正票、出しておいて」
「はい......」
「それだけでいい」
西崎がキーボードに向かいながら、低い声で言った。
「......なんで怒らないんですか」
結衣は少し考えた。
「ミスは直せばいい」
「でも、私のせいで——」
「直した後が遅れると困る。今はまだ間に合ってる」
西崎が黙った。
訂正票を出す音がした。
* * *
昼過ぎ、榎本から内線が来た。
「先日提案のあったデータ交換の件、検討しました」
「はい」
「TR側の過去二年分の運行実績データを提供できます。SR側からも同期間のデータをいただけますか」
「用意します」
「......一点だけ」
「なんでしょう」
「今朝、SR南武支線の直通枠に変更がありましたね。訂正が入る前に一時的に競合が生じていました。記録上は問題ありませんが——何かありましたか」
少し止まった。
榎本は、気づいていた。三分間の誤登録を、TR側の記録で拾っていた。
「入力ミスがありました。訂正済みです」
「確認しました。影響はありませんでした」
「ありがとうございます」
「礼は不要です。データ交換の準備が整い次第、ご連絡ください」
電話が切れた。
西崎が振り返った。顔が少し青かった。
「......榎本さん、気づいてたんですか」
「地下の論理よ。TR側のシステムは、接続点の変動に敏感に反応する」
「......私のミス、記録に残りますか」
「訂正済みの記録として、残る」
「......それって」
「訂正できた、という記録よ。ミスの記録じゃなくて」
西崎がしばらく、画面を見ていた。
それから、静かに言った。
「......ありがとうございます、時刻さん」
結衣はモニターに向き直った。
「コレが私のダイヤグラム。On Time‼」
* * *
帰り際、指令センターを出るときに、ヘッドセットの横を確認した。
定期入れがあった。
財布に入れた。今日は忘れない。
改札を抜けながら、朝の自分を少し思った。バーが動かなかった。脇に避けた。係員に頭を下げた。
それと、今日の西崎のこと。
ミスの形は違う。しかし詰まったときの空気は、少し似ていた。
* * *
帰宅すると、標が玄関にいた。
何かを持っていた。細長い、ストラップだった。
「定期入れ用のリール。バッグにつけておけば、置いてきても伸ばして使える」
受け取った。黒いリールに、銀色のクリップがついていた。
「......ありがとう」
「今月三回目だから」
標が台所に戻った。
私はリールを鞄のDカンに取り付けた。定期入れを接続した。引っ張ると、するりと伸びた。
なるほど。
ソファに座る。時刻表を引き寄せる。今夜は南武線のページを少し読もうと思った。
外の鉄路を、最終電車が走り抜けた。
始発まで、あと六時間三十一分。
* * *
次話 第14話「水だけが炊けた」
第13話を読んでくださり、ありがとうございました。
冒頭の定期入れの紛失は、
主人公の“地上の弱さ”の象徴でした。
しかし指令センターでは、
西崎の入力ミスを三分で修正し、
競合が起きる前に流れを整える。
その対比は、
「詰まる前に動ける人」と
「詰まった瞬間に固まる人」の違いでもあります。
そして帰宅後、
標が差し出したリールは、
主人公の“詰まりやすさ”を静かに受け止める道具でした。
仕事と日常、
どちらも誰かが支えてくれている。
そのことが、
この回の静かな余韻になっています。
次話「水だけが炊けた」では、
さらに別の“詰まり方”が描かれます。




