週末
「ありが……とう」
目を逸らさずに、堀池を見つめた。
時間の感覚が狂う。何秒経っただろうか。
「……それだけ?」
不安と困惑が入り混じった声で、じっと見つめる。
「ごめん……今まで全然気付いてなかったから。今すぐには返事をだせない」
「ふふっ、そうだよね。うん、いつでもいいよ。待ってるからさ」
堀池は大きく息を吐いて、全身の力を抜いた。
立ち上がって「帰ろっか」といい、僕の手をひいた。
僕は引かれるままに立ち上がる。
まるで踊っているように。
「聞いてくれてありがとうね」
「こちらこそ、ありがとう」
鈴虫の音色が綺麗だった。
もうすぐ冬が来て、春が来て、夏が過ぎてまた秋が来るのだろう。
僕たちの距離は、縮まっているように思えた。
告白は心と心を結んでくれるのだろうか。
僕は温かい気持ちに包まれた。
まるで、彼女の気持ちが僕と重なるようだった。
「私さ、人のことを好きになるのも、好かれるのも怖かったの。今までたくさんの人を傷つけてきたから。知ってるでしょう? 今も不登校の人がいる」
「知ってるけど、それは堀池が罪悪感を感じることじゃない」
「うん……、当事者じゃないのは分かってる。
でもね、やっぱり私はその噂話の真偽がどうであれ、責任を感じずにはいられないのよ。
私が存在していることが誰かに迷惑をかけてしまっているのかもしれない。
私が話しかけることで誰かが傷つくかもしれない。
自意識過剰だって笑ってくれてもいいのよ。
でもね、そんなことを考えてしまったらね、もう人と話すことが怖くなってしまったの。
そんな世界で維月くんと出会えた。
維月くんといると、私が女だってことを忘れさせてくれた。
それはもう恋に落ちるなんて衝撃を遥かに上回っていたの。
この人は私が普通に接することを許してくれる人なんだって思った。
笑ったり泣いたり怒ったりしても、維月くんは普通に答えてくれた。
気がつけば、維月くんと一緒にいるのが楽しくてたまらなかった。
友達でいれるだけで幸せだった。
でも、この前の木曜日、雨の中を一緒に帰ってくれたあの日。
自分の気持ちに気付いてしまったのよ。
私は維月くんのことが好きなんだって初めて気付いた。
だから、今日伝えることが出来て嬉しかった。
ありがとう」
堀池は「やっと言えた……」と独り言を付け加えた。
僕はなんだか照れくさくなる。
才色兼備な堀池にも悩み事はやっぱりあって、それは思春期特有の自分ではどうしようもないものだったりして、失礼ながら自分と同じ人間なのだと思った。
一緒にはいるけれど、違う世界の人だと勝手に決めつけていたから。
だから嬉しかった。
初めて同じ世界で生きているのだと実感した。
「本当にいつでもいいからね。ゆっくり考えてくれたら嬉しい。今日はありがとう」
彼女は駅の改札を抜けると、振り返り僕に向かって小さく手を振った。
僕もそれに応える。
今だけは脳みその思考をつかさどる器官全機能をオフにして、世の中に起こる出来事をそのまま素直に受け取っても罰は当たらないのではないだろうか。
僕も自分の家に向かう電車に乗り込んだ。
流れる景色は、光と闇を混ぜて流されていく。
ぼんやりと向かいに座っているカップルが目に入った。
このカップルもあの恥ずかしい通過儀礼をしたのだろうか。
いや、このカップルだけではない。
世の中に溢れるカップルはみんな照れながらも自分の好意を相手に伝えているのだとすると、そのカップルの数だけドラマがあるのだと思った。
そして、それは目に見えなくてもこの世界のど真ん中に構えて機能しているのではないだろうかと思う。
僕は電車を降りると、冷たい夜風に吹かれた。
身を屈めながら歩いていく。
ぼくの頭は色恋でいっぱいになっていた。
春のような温かさが心を包む。
今はそれだけでいい。
でも堀池と付き合うかどうかをしっかりと考えなければいけない。
僕は彼女のことを異性として好きなのだろうか。
いや、現段階では好意は持っていない。
それは明確だ。
考えるべきことは、この先の近い未来で僕が彼女を異性として愛するかどうか、ということになるだろう。
僕は彼女を愛せるのだろうか。
僕みたいな男が彼女を大切に出来るだろうか。
正直にいうと、僕は高坂と堀池はいつか付き合うものだとふんでいた。
幼馴染みであること、二人とも高い能力をもっていること、お互いを理解し合い、支え合うことが出来ること。
様々な点から考えて、彼らはベストカップルになれる。
そこにはきっと、愛も芽生えるだろう。
僕の後ろで、何か大きな塊が地面に叩きつけられた音がした。
僕はそれを以前聞いたことがあった。
砂袋を落としたような、鈍くて、耳にこべりつくような音だ。
考え事をしていた僕は、気付かなかった。
前回の飛び降り現場の道を無意識に歩いていたのだ。
いつもの最短帰宅ルート。
しかし、今回は二十二時過ぎだ。
前回よりも一時間早い。
未来が改変された影響がこうして現れてしまったのだろうか。
僕は恐る恐る、後ろを振り返る。
僕のすぐそばで少女が倒れていた。
僕は駆け寄って顔を確認した。
千歳だった。
隣のクラスの、この前河川敷で花を撮影していた千歳彩奈だった。
千歳は動かない。
脈はしていない。
死んでいる。
死後硬直が始まり、千歳の残り香のような体温が秋の夜空に奪われていく。
千歳の体に触れた途端、僕は罪悪感に襲われた。
助けるべきだった。
見ず知らずの女の子だとしても、僕はこの子を助けるべきだったのだ。
傍観者だなんてかっこつけていたのは、本当は完璧に助ける自信がなかったのだと気付いた。
自分の小さなプライドを守るためだけに自分と同い年の命を見捨ててしまった。
それは僕が殺したようなものではないだろうか。
僕たちが美味しいケーキを食べたり、買い物を楽しんだり、告白して気持ちを共有している間でも、すぐ近くで、手の届く距離で、泣いている人がいる。
千歳みたいに死にたくて苦しんでいた人もいるのだ。
僕は……、そんな現実から目を逸らしていたのだ。
知っていたのに。僕は千歳が苦しんでいることを知っていたのに。
僕だけが今日自殺することを知っていたのに。
寝ているような顔から血が流れている。
どれだけ揺すっても動かない。
こんなにも小さな体の中には、きっとたくさんの想い出や感情が溢れていたのだ。
幸せなことがあれば喜び、嫌なことがあれば悲しむ心があった。
それが全部消えてしまった。この胸の中に確かにあったもう知ることの出来ない気持ちを。
僕は警察と救急車に通報してその場を去った。
こうして二周目の一週間は終わりを告げた。