第4話:彼女が選び直した、たった一人
サクラコが生きることを選んでから、相談室の空気は目に見えて変わっていた。窓の外に広がる春空も、白い花を揺らす柔らかな風も、先ほどまでなら彼女をこの世界から連れ去るための景色に見えていたはずなのに、今では新しい一歩を祝福するものとして室内へ差し込んでいる。
もっとも、本人の変化は空気よりも分かりやすかった。
「真也さん、お茶のお味はいかがでしょうか。温度、濃さ、香りに少しでも不満がございましたら、すぐに淹れ直します」
「十分おいしいです。というか、さっきから三杯目です」
「では、四杯目をご用意いたしますね」
「俺の話を聞いていました?」
つい一時間ほど前まで命を絶とうとしていた少女とは思えないほど、サクラコは献身的に動き回っていた。相談室に備えられていた茶葉を選び、机を整え、俺が座りやすいようにクッションの位置まで調節し、しまいには今日の放課後から明日の登校時間まで確認しようとしている。
もともと彼女は、誰かに尽くすことへ自分の存在意義を見いだす性格である。その相手がゲームの主人公から俺へ移ったことで、死へ向かっていた感情のすべてが、恐ろしいほどの勢いでこちらへ流れ込んできていた。
「俺のために何かしてくれるのは嬉しいですけど、無理はしないでください。鐘崎さんが疲れたら意味がありませんから」
「サクラコ、とお呼びください」
「そこが重要なんですか?」
「はい。私にとっては、とても」
彼女は俺の隣へ腰を下ろし、両手で包んだティーカップ越しに真っ直ぐこちらを見つめていた。先ほどまで絶望に濁っていた瞳には、もう迷いがない。代わりに宿っているのは、自分を救い上げた人間を二度と見失うまいとする、静かで強烈な決意だった。
「では、サクラコ。俺に尽くすことより、自分を大切にすると約束してください」
「……真也さんが、それを望まれるのでしたら」
「俺が望むからじゃなくて、サクラコ自身のためにです」
その言葉を受けた彼女は、すぐには答えなかった。他人のために動くことには慣れていても、自分のために生きるという考え方だけは、彼女にとってあまりにも未知のものなのだろう。それでも長い沈黙の末、サクラコは胸元へ手を添え、覚えたばかりの感情を確かめるように小さく頷いた。
「今はまだ、私自身のために生きたいとは、上手く思えません。ですが……真也さんが悲しまない私になりたいとは思います。いつかそれが、私自身の願いになるまで、傍で教えていただけますか?」
「もちろんです」
答えた瞬間、彼女の頬に浮かんだ微笑みは、ゲームの立ち絵で何度も見た完成された表情とは違っていた。涙の跡を残したまま、不器用に、それでも心の底から安堵している。そんな一人の少女としての笑顔だった。
そのとき、相談室の扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、この世界における本来の主人公だった。整った容姿と人当たりのよい雰囲気を持ち、どのヒロインの物語でも中心に立つはずの男子生徒。彼は俺の姿に戸惑いながらも、サクラコへ申し訳なさそうな視線を向けた。
「鐘崎さん、さっきは言いすぎた。君がいなくなったって聞いて、心配して探してたんだ」
ゲームなら、ここで主人公の謝罪を受け入れたサクラコが再び彼へ希望を抱き、ルートが修正される可能性もあった。しかし彼女は立ち上がることさえせず、俺の袖をそっとつかんだまま、静かな声で答えた。
「ご心配をおかけしたことは謝罪いたします。ですが、もうお気遣いは不要です」
「え……?」
「あなたに必要とされることが、私のすべてだと思っていました。けれど、それは間違いでした。私が最も苦しいとき、言葉だけではなく、この手をつかんでくださった方がいます」
サクラコは俺へ身体を寄せ、まるで自分の居場所を示すように指を絡めてきた。主人公へ向けられた横顔に未練はなく、そこにあったのは過去へ区切りをつけた人間の穏やかな強さだった。
「私はこれから、真也さんの傍で生きます。この方が私を必要としてくださる限り、私は何度でも自分の人生を選び直せますから」
主人公は何かを言おうとして口を開いたものの、サクラコの決意を覆せないと悟ったのか、短く謝罪して部屋を出ていった。扉が閉じたあとも、彼女はその背中を追わず、ただ俺だけを見つめ続けていた。
「これで、よろしかったのでしょうか」
「サクラコが自分で決めたなら、それでいいと思います」
「はい。私は選びました。誰かに求められる私ではなく、真也さんをお慕いし、真也さんのお傍で生きる私を」
その告白は熱に浮かされた衝動ではなく、彼女自身が絶望を越えた末に辿り着いた答えだった。俺は死亡フラグを折っただけのつもりだったが、サクラコにとっては、命も心も預けるに値する存在として刻まれてしまったらしい。
「どうか覚悟なさってくださいませ。私は一度お慕いした方を、二度と手放すことができませんので」
優美な微笑みとともに告げられた言葉に背筋を震わせた、その直後だった。相談室の外から何かが倒れる鈍い音が響き、俺たちは同時に廊下へ飛び出した。
そこには、小柄な身体に風紀委員長の腕章をつけた黒髪の少女が、散乱した書類の中へ膝をついていた。顔色は青白く、呼吸も浅い。それでも彼女は誰の助けも拒むように立ち上がろうとし、険しい瞳で俺たちを睨みつける。
「見るな……。私は、まだ倒れていない」
ゲーム知識が脳裏を駆け巡り、その少女が迎える最悪の結末を思い出した瞬間、俺は頭を抱えたくなった。
どうやら次の死亡フラグは、向こうから俺の前へ倒れ込んできたらしい。
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