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第1話:倒れることすら許されない少女

「見るな……。私は、まだ倒れていない」


 廊下へ散乱した大量の書類に埋もれながら、風紀委員長――蔭久(かげひさ)ヒナタは、差し伸べられる助けを拒むように鋭い視線を向けていた。


 艶のある黒髪は背中まで真っ直ぐに伸び、端正な顔立ちには少女らしい柔らかさよりも、他者を容易に近づけさせない冷厳さが刻まれている。制服の上から羽織った風紀委員会指定の黒い外套と、左腕に巻かれた委員長の腕章は、彼女がこの桜花学園において絶対的な規律を象徴する存在であることを示していた。


 しかし、ゲーム画面越しに見ていた彼女と、今のヒナタには決定的な違いがある。


 血の気を失った顔。焦点の定まらない瞳。浅く乱れた呼吸。そして、書類を拾い上げようと床へ伸ばした指先は、本人の意思に反して小刻みに震えていた。


 どう見ても倒れている。むしろ、これを倒れていないと言い張れる精神力の方が恐ろしかった。


「いいえ、完全に倒れています。無理に立ち上がらないでください」


 サクラコはヒナタの強い拒絶にも怯むことなく傍らへ膝をつき、肩を支えようと手を伸ばした。しかしヒナタはその手を乱暴に振り払うことこそしなかったものの、触れられる寸前で自ら身体を起こし、壁へ手をつきながら立ち上がろうとする。


「必要ない。これくらいのことで騒ぐな。午後の巡回報告をまとめたあと、生徒会へ提出する規則改定案も確認しなければならない。さらに一年生同士の揉め事が三件、無許可で使用された部室の調査、それから――」


「その状態で全部やるつもりなんですか?」


 思わず口を挟むと、ヒナタは初めて俺の存在を認識したように目を細めた。値踏みするというより、自分の弱った姿を見られたことへの警戒が滲んでおり、彼女は崩れかけた呼吸を無理やり整えながら、普段の威厳を取り戻そうとしている。


「誰だ、お前は。この学園の生徒であること以外、私には見覚えがない」


「河合真也です。たまたま通りかかっただけの一般生徒です」


「ならば関係のない話だ。今見たことは忘れろ」


 忘れられるはずがなかった。


 蔭久ヒナタは『ドキドキ学園♡ハートorライブ』における攻略対象の一人であり、全ヒロインの中でも特に攻略難易度が高いことで知られている。学園内の秩序を守る風紀委員長として、校則違反の取り締まりから生徒間の問題解決、他の委員会との調整まで一手に引き受けており、授業中以外は常に校内を駆け回っているような少女だった。


 圧倒的な実務能力と責任感によって周囲から信頼されている一方、その信頼はいつしか「ヒナタなら何とかしてくれる」という無自覚な依存へ変わっていた。彼女自身も期待を裏切ることを恐れ、誰かに仕事を任せるより、自分が無理をした方が確実だと考えるようになってしまう。


 もちろん、風紀委員たちが彼女を放置しているわけではない。副委員長を筆頭に、何度も休むよう訴え、仕事を分担しようとしていた。しかしヒナタは「自分が一番効率よく処理できる」という正論で申し出を退け、弱音を吐くことも、助けを求めることもなかった。


 そんな彼女が唯一心を許した相手こそ、このゲームの主人公である。


 誰にも見せられない疲労や不安を彼の前でだけ打ち明け、肩書きではなく一人の少女として寄りかかろうとする。正規ルートであれば、主人公は彼女の重荷を共に背負い、ヒナタも仲間を信じることを覚えていく。


 だが、バッドエンドでは違う。


 別のヒロインとの関係を優先した主人公に助けを求めたヒナタは、「君なら一人でも大丈夫だろ」と拒絶される。最後の拠り所を失った彼女は、自分に残された価値は風紀委員長としての能力だけだと思い込み、限界を越えて仕事を続けた末に心を壊す。


 そして、学園全体を過剰な規律で支配しようとする独裁者へ変貌するのだ。


「ヒナタ委員長!」


 廊下の奥から複数の足音が聞こえ、風紀委員の腕章をつけた三人の女子生徒が駆け寄ってきた。先頭にいた短い茶髪の少女は、床に散乱した書類とヒナタの顔色を見比べ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。


「やっぱり倒れたんですね……! 昨日から一睡もしていないでしょう? 残りの仕事は私たちが引き受けますから、今日はもう休んでください!」


「必要ないと言っている。お前たちには担当区域の巡回があるはずだ」


「でも、委員長がこのままでは――」


「私の命令が聞けないのか?」


 冷たく放たれた一言に、風紀委員たちはそれ以上何も言えなくなった。しかし、彼女たちの目にあるのは恐怖ではない。自分たちを頼ってくれない委員長への寂しさと、手を伸ばしても届かないことへの悔しさだった。


 ヒナタは周囲に恵まれていないわけではない。むしろ、彼女を心から慕い、支えたいと願う仲間はすでに存在している。それでも本人が助けを受け入れなければ、その優しさは届かないまま終わってしまう。


「命令する前に、自分の足元を見た方がいいですよ」


 俺の言葉に、ヒナタの眉がわずかに動いた。


「一般生徒が風紀委員長へ意見するつもりか?」


「今のあなたは委員長以前に、まともに立つこともできない一人の生徒です。仕事を続けたいなら、まず休んでください」


「私が休めば、その分だけ誰かの負担が増える」


「あなたが倒れたら、全員の負担がもっと増えます。それに、その人たちは負担だと思っていません。あなたを助けられないことの方が、よほどつらいんです」


 ヒナタは反論しようと口を開いたが、その瞬間、支えにしていた腕から力が抜けた。壁から離れた身体が再び傾き、床へ倒れかけた彼女を、俺は咄嗟に正面から受け止める。


 腕の中へ収まった身体は驚くほど軽く、その軽さが、彼女がどれほど自分を削り続けてきたのかを物語っていた。


「離せ……。私はまだ、仕事を……」


「もう十分です」


 弱々しく抵抗するヒナタへ言い聞かせるように告げると、彼女の表情が初めて大きく揺らいだ。厳格な委員長という仮面の下から、一人で立ち続けることに疲れ果てた少女の顔が、ほんの一瞬だけ覗いていた。


「十分なわけがない……。私が止まれば、皆が困る。私が期待に応えなければ、誰も私を必要としなくなる……」


 消え入りそうな声を最後に、ヒナタは俺の胸元へ額を預けたまま意識を失った。


 その言葉を聞いた瞬間、俺は確信する。


 これはまだ、主人公に拒絶される前の段階だ。だが彼女の心はすでに限界へ近づいており、ゲーム通りに物語が進めば、遠くない未来に必ずバッドエンドへ突入する。


 サクラコの死亡フラグを折ったばかりだというのに、次の攻略対象は、自分が壊れかけていることすら認めようとしない難敵だった。


 そして何より厄介なのは、彼女を救うためには単に休ませるだけでは足りないということだ。


 蔭久ヒナタが背負い込んだ重圧を下ろすには、仕事を代わる人間ではなく、弱い自分を見せても決して離れない存在が必要なのだから。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、ぜひ「♡いいね」や「ブックマーク」をしていただけると嬉しいです。

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