第3話:救うつもりが、彼女の心へ居座ってしまったらしい
「先ほど、私がいなくなれば困ると仰いましたが……その言葉を、あとから取り消したりはなさいませんよね?」
俺の制服の袖を細い指でつまんだまま、サクラコは縋るような眼差しを向けてきた。穏やかな微笑みこそ崩していないものの、こちらの返答一つで再び絶望の底へ沈んでしまいそうな危うさがあり、冗談やその場しのぎの慰めが通じる状態ではないことは明白だった。
ゲームの中で見ていた彼女なら、適切な選択肢さえ選べば好感度が上昇し、間違えれば下降する。それだけの存在だったはずなのに、現実となった今では、その一つ一つの言葉に彼女の人生そのものが懸かっている。俺が適当に優しい言葉を投げかけ、安心したところで放り出せば、それは主人公に拒絶された傷口をさらに深く抉る結果にしかならないだろう。
「取り消しません。少なくとも、鐘崎さんが自分からいなくなろうとする限り、俺は何度でも止めます」
「何度でも……ですか?」
「何度でもです。だから一人で勝手に結論を出さないでください。俺に止める機会くらいは与えてもらいます」
俺がそう言い切ると、サクラコは驚いたように目を見開いたあと、胸の奥へ大切に仕舞い込むように、ゆっくりとその言葉を反芻していた。やがて彼女は小さく頷き、袖をつまんでいた指を離すどころか、今度は確かめるように俺の手首へ絡めてくる。
※ ※ ※
奉仕委員会の相談室は、校舎の中央棟から渡り廊下を進んだ先にあった。学園生活に関する悩みや生徒同士の問題を受け付けるための部屋らしく、室内には向かい合わせの長椅子と丸い机が置かれ、窓辺には手入れの行き届いた白い花が並べられている。華美ではないものの清潔で落ち着いた空間は、真面目で献身的なサクラコの人柄をそのまま形にしたように思えた。
しかし、部屋へ入ってからも彼女は俺の手首を離そうとはしなかった。俺が長椅子へ腰を下ろすと、その隣へ僅かな隙間も空けずに座り、逃げ出さないことを確認するように横顔を見つめ続けている。
「それで、何があったのか話してもらえますか?」
「……笑わないでいただけますか?」
「笑いません」
「愚かな女だと、軽蔑なさいませんか?」
「それも約束します」
慎重に答えると、サクラコは膝の上で両手を重ね、これまで胸の奥へ閉じ込めてきた感情を一つずつ取り出すように語り始めた。彼女は以前から、転校してきた一人の男子生徒へ想いを寄せていたらしい。誰に対しても分け隔てなく接し、困っている人を見捨てない彼の姿に心を惹かれ、自分も彼に必要とされる存在になりたいと願うようになった。
そのために彼の予定を調べ、好みを覚え、頼まれてもいないのに身の回りの世話を焼き続けた。けれど、勇気を振り絞って想いを告げた彼女へ返されたのは、優しい拒絶ですらなく、「君の気持ちは少し重い」という残酷な一言だった。
ゲームを知る俺には、その男子生徒が本来の主人公であることが分かっていた。プレイヤーの選択によって性格が変化する彼は、この時点では別のヒロインのルートへ入っており、サクラコの好意を厄介なものとして処理したのだ。
「彼の仰る通りなのです。私は自分の気持ちばかりを押しつけて、相手の迷惑を考えていませんでした。必要とされたかっただけなのに、結局は誰かを困らせることしかできなかった……。でしたら、私などいない方がよいのだと思ったのです」
淡々と語るサクラコの頬を、一筋の涙が伝った。泣いている自覚すらないのか、彼女はそれを拭おうともせず、空虚な笑みを浮かべたまま俯いている。
確かに、好意の押しつけは相手を苦しめることもある。だからといって、誰かに拒まれた人間が存在そのものを否定されてよいはずはなく、ましてや彼女の献身や優しさまで無価値になるわけではなかった。
「鐘崎さんは、相手を間違えただけです」
「相手を……?」
「あなたの気持ちを重いと感じる人もいるでしょう。でも、その重さに救われる人だっている。少なくとも、今の俺は鐘崎さんがここにいてくれてよかったと思っています」
俺は机の上に置かれていた布巾ではなく、制服のポケットからハンカチを取り出し、彼女の頬を流れる涙をそっと拭った。サクラコは身を引くことも忘れ、触れた手の温度を確かめるように目を細めている。
「あなたが俺とぶつからなければ、俺はこの世界で何も分からないまま一人でした。だから、少なくとも今日の俺にとって、鐘崎サクラコという人は必要な存在です」
「今日だけ……でしょうか?」
「明日以降のことは、これから決めればいいでしょう。生きていれば、いくらでも続きを作れます」
その瞬間、サクラコの瞳から再び涙が溢れた。先ほどまでの絶望から零れた涙とは違い、張り詰めていた心がようやく緩んだことで流れ出したものなのだろう。彼女は両手で俺の手を包み込むと、その甲へ額を押し当て、声を抑えるように肩を震わせた。
「私……生きていても、よいのでしょうか?」
「生きてください。今度いなくなろうとしたら、本気で怒ります」
「それでは……怒られないよう、あなたの傍にいなければなりませんね」
顔を上げたサクラコの瞳には、もう死を望む暗い色は残っていなかった。その代わりに浮かんでいたのは、自分を絶望から引き上げたたった一人へ向けられる、純粋で、それゆえにあまりにも深すぎる感情だった。
「お名前を、教えていただけますか?」
「河合真也です」
「河合、真也さん……」
彼女は二度と忘れないために刻みつけるように俺の名前を繰り返し、その響きを慈しむような微笑みを浮かべた。
「私を必要だと言ってくださった、初めての方……。どうかこれからも、私に生きる理由を与えてくださいませ」
死亡フラグを折ることには、どうやら成功したらしい。
だが、俺の手を握り締める彼女の指へ込められた力と、一瞬たりともこちらから逸らされない熱を帯びた瞳を見れば、代わりに何を芽生えさせてしまったのかは、考えるまでもなかった。
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