第2話:開始早々、ヒロインの死亡フラグを折ることになりました
「バッドエンドルートじゃねえか!!」
俺の絶叫が春の陽射しに満ちた廊下へ響き渡り、近くの教室から何人もの生徒が怪訝そうに顔を覗かせた。転生して数分しか経っていない人間が突然わけの分からない単語を叫べば、当然の反応ではあるのだが、今の俺には周囲から向けられる奇異の視線を気にするだけの余裕など残されていない。
ゲーム本編における鐘崎サクラコの死亡ルートは、主人公への告白を拒絶された彼女が、誰にも告げず学園から姿を消すところから始まる。プレイヤーが異変に気づくのは翌日であり、主人公が彼女の残した手紙を発見した時点で、どの選択肢を選んでも救出は間に合わない。つまり、彼女が今口にした「遠くへ行く」という言葉は、比喩でも気分転換でもなく、取り返しのつかない結末へ直結する危険な宣言だった。
「ばっどえんど……というのは、どういう意味でしょうか?」
サクラコは俺の顔色を窺いながら、わずかに首を傾げた。その仕草だけを見れば、世間知らずのお嬢様が聞き慣れない言葉に困惑しているようにしか見えないが、淡い紫色の瞳には生気と呼べるものがほとんど残っておらず、無理に形作られた微笑みも今にも崩れてしまいそうだった。
彼女は私立桜花学園でも有名な生徒である。成績は常に上位、品行方正で誰に対しても分け隔てなく接し、学園行事の運営を担う奉仕委員会では中心的な役割を果たしている。困っている生徒を見つければ放っておけず、自分の予定を後回しにしてでも手を差し伸べるため、多くの生徒から信頼されている存在だった。
しかし、その献身性は決して生まれつきの強さだけで成り立っているわけではない。誰かから必要とされなければ、自分には何の価値もない。そう思い込んでいるからこそ、彼女は休むことも弱音を吐くことも許さず、他人から求められる理想の姿を演じ続けてきたのだ。
ゲームの中では面倒な性格設定の一言で片づけていたが、こうして目の前に立つ彼女を見れば、その不器用さを笑うことなどできなかった。
「何でもありません。それより、遠くへ行くというのは、具体的にどこへ行くつもりなんですか?」
「誰にも見つからない場所です。私がいなくなっても、困る人がいないような……静かな場所へ行こうと思っています」
穏やかな口調で告げられた言葉とは裏腹に、その内容は明確な別れを意味していた。彼女自身は冷静なつもりなのだろうが、胸元で重ねられた両手は小刻みに震えており、爪が白くなるほど強く指を握り締めている。
ここで説得に失敗すれば、彼女は俺の知らない場所へ消えてしまう。ゲームの知識を持っていたとしても、モブ生徒にすぎない俺が一度見失えば、次に見つけられる保証はなかった。
「それは困ります」
「……どうしてでしょうか?」
「鐘崎さんがいなくなれば、俺が困るからです」
サクラコの瞳が、わずかに見開かれた。初対面の人間からそんなことを言われれば、意味が分からなくて当然だろう。それでも今は、綺麗に整えた言葉よりも、彼女をこの場所に引き留める強い理由が必要だった。
「俺たちは今会ったばかりですけど、それでも目の前にいる人が消えようとしているのを知って、何もしなかったら絶対に後悔します。鐘崎さんが自分を必要ないと思っていても、周りの人間まで同じように考えているとは限りません」
「ですが、私は期待に応えられませんでした。信じていた方からも、必要ないと言われてしまいました。私のような人間が残っていても、皆さんを失望させるだけです」
言葉の端から、彼女がすでに主人公へ想いを告げ、拒絶されたあとだということが分かった。ゲームでは数枚の立ち絵と短い台詞だけで処理されていた失恋も、彼女にとっては、自分が積み重ねてきたものをすべて否定されたに等しい出来事だったのだろう。
「一人に拒絶されたからって、全員から必要とされていないことにはなりません」
「それでも、私にはもう、何を信じればよいのか分からないのです」
「だったら、今だけは俺を信じてください」
自分でも随分と無責任な台詞だと思った。俺はこの世界へ来たばかりで、彼女を救う力も立場も持っていない。けれど、ゲームの中で何度も彼女の最期を見てきた俺には、このまま彼女を一人にしてはいけないということだけは断言できた。
「俺は鐘崎さんを放っておきません。今日だけじゃなくて、鐘崎さんが一人で変なことを考えなくなるまで、何度でも話を聞きます」
「そこまでしてくださる理由が、あなたにあるのですか?」
「あります。俺が後悔したくないからです」
格好のいい善意だけを口にするより、自分勝手な理由を混ぜた方が信じてもらえると思ったのだが、サクラコは予想に反して柔らかく目を細めた。消えていた瞳の光がほんの少しだけ戻り、張り詰めていた肩からも僅かに力が抜けていく。
「とても正直な方なのですね」
「綺麗事だけで人を引き止められるほど、器用じゃないので」
「では、少しだけ……あなたのお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。落ち着ける場所で話しましょう」
俺がそう答えると、サクラコは胸の前で両手を重ね、しばらく何かを迷うように視線を揺らしたあと、恐る恐る俺の制服の袖をつまんだ。その弱々しい仕草は、学園中から慕われる完璧な優等生という印象からは想像できないほど幼く、今の彼女が誰かに縋らなければ立っていられない状態であることを物語っていた。
「奉仕委員会の相談室なら、今は誰もいないはずです。静かな場所ですので、そこでお話ししてもよろしいでしょうか?」
「分かりました。案内してください」
「はい。ですが、その前に一つだけ確認してもよろしいですか?」
サクラコは俺の袖をつかんだまま、逃げ道を確かめるようにこちらを見上げてきた。
「先ほど、私がいなくなれば困ると仰いましたが……その言葉を、あとから取り消したりはなさいませんよね?」
穏やかな笑顔の奥から覗いた、縋るようでいて妙に強い執着心に、俺の背筋を冷たいものが走った。
死亡フラグを折ることには成功したのかもしれない。しかし同時に、ゲーム本編には存在しなかった別種の厄介なフラグを、自分の手で立ててしまった気がしてならなかった。
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