第1話:バッドエンドから始まるギャルゲーとは?
バッドエンド――それは物語において、決して辿り着いてはならない結末である。
主人公が志半ばで命を落とす。想い合っていた二人が、最後まで心を通わせられないまま別れる。あるいは、救われるはずだった少女が絶望に呑まれ、取り返しのつかない選択をしてしまう。物語を彩る演出として悲劇が必要なのは理解できるが、それでも長い時間を費やして登場人物たちの人生を追いかけてきたプレイヤーにとって、救いのない結末を突きつけられることほど精神を削られるものはない。
ましてや、それが何度やり直しても回避できないとなれば、もはや悲劇ではなく製作者からプレイヤーに対する嫌がらせでしかなかった。
日中であるにもかかわらず遮光カーテンを閉め切った薄暗い自室で、俺はテレビ画面に映し出された絶望的な光景を、乾き切った目で見つめていた。
俺が二か月前から挑み続けているゲームのタイトルは、『ドキドキ学園♡ハートorライブ』。題名だけを見れば、個性豊かな美少女たちと甘酸っぱい青春を過ごし、恋愛と学校生活を満喫する、ごく一般的な学園恋愛アドベンチャーゲームに思えるだろう。
物語の主人公は、春から私立桜花学園へ転校してきた二年生。プレイヤーは学園生活の中で複数のヒロインと出会い、選択肢を通して関係を深め、最終的にはたった一人の少女と結ばれることを目指す。設定だけを聞けば王道そのものであり、キャラクターデザインも音楽も非常に完成度が高いため、発売前には「今年一番期待される恋愛ゲーム」として大々的に宣伝されていた。
しかし、蓋を開けてみれば、その実態はプレイヤーの心を効率よく破壊するために作られたとしか思えない、理不尽極まりないクソゲーだった。
何の前触れもなく好感度が下がる不具合。正解の選択肢を選んだはずなのに、なぜか別のヒロインの死亡イベントへ突入するシナリオ分岐。既読スキップを使うと重要なフラグまで消失する致命的なバグ。さらには、ハッピーエンドよりも圧倒的に多く用意されたバッドエンドの数々。
攻略情報を共有していたプレイヤーたちは、いつしかこのゲームを正式名称ではなく、『ドキドキ死亡フラグ学園』と呼ぶようになっていた。
そんな悪名高い作品に、俺――河合真也は、なぜか真正面から挑み続けている。
『嘘よ……。死ぬわけがないわ。彼が、そんな理由で……!』
テレビから流れた震える声を聞いた瞬間、俺は握っていたコントローラーから力が抜けていくのを感じた。画面の中では、攻略していたヒロインが降りしきる雨の中に立ち尽くし、信じられないものを見るような目で主人公の訃報を告げる手紙を見つめている。
どうやら今回も、俺の知らないところで主人公の死亡フラグが成立していたらしい。
「……またかよ」
喉の奥から漏れた声には、怒りよりも深い疲労が滲んでいた。このゲームを始めてから約二か月、俺はいまだに一度として正規のハッピーエンドへ辿り着けていない。それどころか、攻略サイトにすら掲載されていない特殊なバッドエンドを次々と発見しており、もはやヒロインを幸せにするよりも、全死亡ルートを網羅する方が現実的なのではないかと思い始めていた。
『もう、彼のいない世界なんて考えられない……』
画面の中でヒロインが力なく微笑み、そのまま暗転する。続いて流れ始めたエンドロールには、救済を示す後日談もなければ、未来への希望を感じさせる一文すら存在しない。ただ物悲しいピアノ曲だけが流れ、プレイヤーの無力さを執拗に突きつけてくる。
俺は反射的にコントローラーを床へ叩きつけようと振り上げたものの、購入時の価格が脳裏をよぎったため、寸前のところで思いとどまった。ゲームに負けるたびに周辺機器まで買い直していては、先に俺の財布がバッドエンドを迎えてしまう。
「落ち着け、俺。悪いのはコントローラーじゃない。悪いのは、このふざけたフラグ管理を作った開発陣だ」
自分に言い聞かせながら、俺はコントローラーをそっと膝の上へ戻した。怒りの矛先を失った右手が虚しく宙をさまよったが、それでもここで諦めるという選択肢だけはなかった。
これほど理不尽なゲームだからこそ、一度くらいはヒロインたち全員が生き残る結末を見届けたい。半ば意地だけでそう決意した俺は、エンドロールが終わるのを待ち、迷うことなくタイトル画面の『はじめから』を選択した。
※ ※ ※
数時間後、さらに二度のバッドエンドを迎えた俺は、気分転換と夜食の調達を兼ねて近所のコンビニへ向かっていた。
季節は春になったばかりだというのに、夜風は思いのほか冷たく、長時間ゲーム画面を眺め続けていた目には街灯の明かりさえ妙に眩しく感じられる。コンビニではアイスとサラダチキン、それから眠気覚まし用のコーヒーを購入し、俺は帰宅後に試すべき攻略手順を頭の中で組み立てながら、来た道を引き返していた。
どうやら俺は、ゲーム内の死亡フラグばかりを警戒するあまり、現実世界で自分自身に立っている死亡フラグを完全に見落としていたらしい。
横断歩道へ差しかかったところで、俺はスマートフォンを取り出し、攻略掲示板に新しく投稿された情報を確認していた。耳にはイヤホンを着け、画面には『鐘崎サクラコ生存ルート検証スレッド』という文字が表示されている。
信号は青だった。だから安全だと、勝手に思い込んでいた。
掲示板に書かれた選択肢の順番へ意識を奪われていた俺は、交差点へ猛烈な速度で突っ込んでくる大型トラックの存在に気づかなかった。耳を塞いでいた音楽の隙間から、けたたましいクラクションが聞こえたときには、すでに視界の端まで巨大な車体が迫っている。
避けなければならないと理解しても、身体は恐怖に縫い止められたように動かなかった。
激しい衝撃が全身を貫き、上下の感覚さえ分からなくなった直後、俺は冷たい道路の上へ投げ出されていた。遠くで誰かが叫んでいる。足音が近づいてくる。それなのに、それらすべてが水の底から聞こえてくる音のようにぼやけ、急速に遠ざかっていった。
朦朧とする視界の中で、俺は手元に転がっていたスマートフォンへ目を向けた。蜘蛛の巣のようにひび割れた画面には、先ほどまで読んでいた『ドキドキ学園♡ハートorライブ』の攻略情報が表示されたままになっている。
まさか、自分がゲームの主人公より先に死亡エンドを迎えることになるとは思わなかった。
どうせ死ぬなら、もっと親孝行をしておけばよかった。くだらない意地でクソゲーを攻略することに時間を費やすのではなく、家族や友人と話す時間を大切にするべきだった。
今さら悔やんでも遅いと分かっていながら、俺は取り返しのつかない人生への懺悔を胸の中で零し、静かに意識を手放した。
※ ※ ※
「大丈夫……? ねえ、大丈夫ですか!?」
暗闇の向こう側から聞こえてきた澄んだ声が、沈みかけていた俺の意識を強引に引き上げた。
重たい瞼を開いた瞬間、視界いっぱいに広がったのは、死後の世界を思わせる雲の上でもなければ、罪人を裁く炎に満ちた地獄でもなかった。磨き上げられた廊下の床、等間隔に並ぶ教室の扉、窓から差し込む春の日差し、そして壁に掲げられた『私立桜花学園』という校章。
それらはすべて、俺が二か月もの間、テレビ画面越しに繰り返し見てきたものだった。
ゲームの舞台となる桜花学園。その校舎が、作り物とは思えないほどの質感と奥行きを伴って、俺の目の前に存在している。
一体、何が起きている。俺は確か、トラックに轢かれて死んだはずではなかったか。奇跡的に助かり、病院で妙に現実味のある夢を見ているのだろうか。
混乱のあまり言葉を失っていると、俺の傍らに膝をついていた少女が、心配そうに顔を覗き込んできた。
「あの、本当に大丈夫でしょうか? 頭を強く打ってしまいましたか?」
柔らかな声とともに揺れたのは、陽光を受けて淡く輝く銀色の長髪だった。透き通るように白い肌、整った目鼻立ち、宝石を思わせる淡い紫色の瞳。現実ではまずお目にかかれないほど完成された容姿でありながら、その表情には作り物めいた冷たさがなく、純粋な心配と申し訳なさが浮かんでいる。
俺は、その少女を知っていた。
攻略対象ヒロインの一人、鐘崎サクラコ。桜花学園の二年生であり、容姿端麗、成績優秀、由緒ある家柄の令嬢という王道の高嶺の花。凛として近寄りがたい雰囲気とは裏腹に、心を許した相手には非常に献身的で、一途すぎるほど深い愛情を注ぐヒロインである。
ただし、主人公との関係構築に失敗すると、その一途さが災いして尋常ではない速度で精神を病み、数多くの死亡エンドへ直結する危険人物でもあった。
「ごめんなさい。私が考え事をしながら歩いていたせいで、あなたとぶつかってしまって……」
サクラコはそう言って俺の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。触れた手から伝わってくる温度も、髪から漂う甘い香りも、ゲームの映像とは比べものにならないほど鮮明であり、ここが夢や幻ではないという事実を容赦なく突きつけてくる。
トラックに轢かれて死亡した俺は、なぜか『ドキドキ学園♡ハートorライブ』の世界へ転生してしまった。
あまりにも荒唐無稽な結論だったが、目の前の光景を説明できる答えは、それ以外に思いつかなかった。
「……終わった。何もかも」
絶望がそのまま声となって漏れた。
異世界へ転生するなら、剣と魔法の世界で無双させてほしいとは言わない。せめて、努力さえすれば平穏に暮らせる世界を選んでほしかった。どうしてよりにもよって、登場人物が呼吸をするように死亡フラグを立て、攻略情報を熟読しても全滅するクソゲーの中なのか。
「どうかされましたか?」
サクラコが不思議そうに首を傾げ、俺の表情を確かめるように顔を近づけてくる。美少女の整った顔が至近距離まで迫るという、本来なら心臓が跳ね上がる場面だったが、今の俺には恋愛的な感情を抱く余裕など微塵もなかった。
それどころか、俺はこの場面そのものに覚えがあった。
サクラコが学園の廊下で誰かと衝突し、その後、校舎から姿を消すイベント。ゲーム本編では名前も立ち絵も与えられていないモブ生徒との短い会話として描かれていたため、初回プレイでは気にも留めなかった。しかし、その直後にサクラコは想いを寄せていた主人公から拒絶され、精神的に追い詰められた末、自ら命を絶つ。
つまり、これはサクラコルートに存在するバッドエンドの導入イベントである。
しかも、俺が転生した相手は、物語を動かす主人公でも特別な能力を持つライバルでもない。この場面でサクラコとぶつかり、数行の台詞を残しただけで二度と登場しなくなる、名前すら設定されていない一般生徒だった。
いや、まだ決まったわけではない。ゲームと似た世界ではあっても、必ず同じ展開になるとは限らない。サクラコがこのあと教室へ戻り、普通に授業を受ける可能性だって十分にあるはずだ。俺はこれまで散々苦しめられてきたクソゲーの良心を、人生で初めて心の底から信じようとした。
「俺は大丈夫です。それより、サクラコさんはこれからどちらへ?」
「あれ……? 私の名前をご存じなのですか? 以前、どこかでお会いしましたか?」
訝しげに目を瞬かせる彼女を見て、俺は自分が重大な失言をしたことに気づいた。この世界の俺とサクラコに面識があるかどうかも分からない状態で、ゲーム知識だけを頼りに名前を呼んでしまったのだ。
「いえ、鐘崎さんは学園でも有名ですから。俺が一方的に知っていただけです」
咄嗟に取り繕うと、サクラコは少しだけ納得したように「そうですか」と頷いた。しかし、その直後、それまで穏やかな光を宿していた紫色の瞳から、まるで照明を落としたように輝きが消えていく。
それはゲーム画面で何度も見た、彼女の精神状態が限界へ近づいた際に現れる危険な変化だった。
「このあとは、少し遠くへ行こうと思っています。誰にも見つからない、とても遠い場所へ」
春の陽射しが差し込む廊下で、サクラコは今にも消えてしまいそうな儚い笑みを浮かべた。その言葉が意味するものを理解した瞬間、俺は頭の中で組み立てていた楽観的な予想をすべて投げ捨て、腹の底から叫んでいた。
「バッドエンドルートじゃねえか!!」
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