壱
一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は多度大社(三重県桑名市多度町多度)別宮の一目連神社の祭神の天目一箇神と同一視されるが、本来は片目が潰れてしまった龍神であり、習合し同一視されるようになったという。
一目連は天候(風)を司る神とされ、江戸時代には伊勢湾での海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。柳田國男は伊勢湾を航行する船乗りが多度山の様子から天候の変化を予測したことから生まれた信仰と考察している[1]が、養老山地の南端に位置する多度山は伊勢湾北部周辺の山としてはもっとも伊勢湾から近く、山にかかる霧などの様子から天候の変化の予測に適した山だったのであろう。
『和漢三才図会』の「颶」に「按勢州尾州濃州驒州有不時暴風至俗稱之一目連以爲神風其吹也抜樹仆巖壞屋爲不破裂者惟一路而不傷也處焉勢州桑名郡多度山有一目連」との記述がある[2]が、伊勢・尾張・美濃・飛騨では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるとの伝承によるものと考えられている。一目連神社の社殿には扉がないが、一目連が神威を発揮するために自由に出入りできるようにとの配慮であるという。
その日はめずらしく、稲妻神社の神主である黒川瑠璃の養女である秋玲は悩ましげな顔立ちであった。
「えっと……」
目の前には秋玲が巫女として管理している神主不在の神社……子安神社の経営会計表であった。
「今月も赤字かぁ……参拝も〇。最後に人が来たのっていつだっけ?」
秋玲は愕然とした表情で天井を仰いだ。
実際は赤字でもなんでもないのだが、参拝客が来ないということは、[お金]という経営目的以上に悔しいのだ。
咲川源蔵という、今は亡き子安神社の神主から跡継ぎ不在の子安神社の管理をしてほしいと、瑠璃のもとに届いたのは、今から七年前のことであった。
もともと子を産むという苦痛を具現化したと云われている、悟帖ヶ山は、標高五〇〇メートルのちいさな山ではあるのだが、その山道は険しく、まさに妊婦の、ただでさえちいさな膣口から、少なくとも二〇〇〇グラム以上はある胎児を外界へと押し出さなければいけないことを教えるかのような険しさがあった。
[子安]というのは、子を無事に産むことを目的とした神仏が祀られている。大昔ならばほとんどが神頼みであり、近代医術である帝王切開どころか、人体を切って取り出すということ自体が禁忌とされている時代からの話だ。
その頃から存在している悟帖ヶ山の頂上にある子安神社は、全盛期であれば、まだ三つの村に分かれていた福嗣町において、妊婦の救いであり、女性でしか体験することのない子を産むという苦行を、男にも体験させるという目的もあったのではないかと云われる神山ではないかと云われている。
「はぁ……」
ふたたび秋玲はためいきをついた。
いくら知り合いの誼であったといえども、妖怪である自分が歴史ある神社の管理兼巫女をやって善いものかと。
「神社って、人が来なかったら存在してる意味ないよね……」
今身を寄せている稲妻神社とて、神社という意味での経営は火の車である。
五穀豊穣の神を祀る稲妻神社、安産の神を祀る子安神社において、もっとも渇望していることは、お金ではなく、神社として頼られることにある。
お金だけが欲しいのならば、それはそもそも神が住まいし社とはいえない。
稲妻神社は福嗣町の文化遺産として、修復保持金という形で町からいくらかの補助金は出ているし、子安神社とて、秋玲自身の知り合いである榊原純からお布施としていくらかもらっているが、秋玲はそれを鐚一文使おうとは思っていない。
実際はどちらも神社としては経営難ではないのだが、神社という頼られる場所という意味ではまったくと言っていいほど閑古鳥が騒がしく鳴き喚くほどであった。
「純さんは気にするなって言ってるけど」
先日も、子安神社の周りを純が組長をしている榊原組の若い衆が夏至前の草取りに駆り出された。
その際に、秋玲はお礼として、純から受け取っていたお布施からいくらか出そうとしていたのだが、純から気遣いなくと言われたのだ。
純の方から給付が出ているのならば、秋玲が口を挟むことではないのだが、そうでなければ、純個人のことで他の人を振り回すということは、自分に対して非があるというのは至極当然の思いであった。
秋玲とてそれを気にしないほど厚顔どころか、不安で何度か純本人に聞いた口ではあったが、決まって気にするなの一点張りである。
指定暴力団とはいえ表沙汰におおきなことはしていない榊原組ではあったが、その組頭と無関係ではない秋玲や、その周辺の人々に被害がないとは言いがたい。
その心配があるからこそ、問題ごとが起きる前に、芽が青いうちに摘んでおきたいというのが秋玲の考えであった。
「ふぅ……」
「さっきからためいきばっかりだけど、そんなに子安神社の経営が苦しいなら、いっその事潰してもいいわよ」
目の前の、小学六年生くらいの身形でありながら、歳相応とはいえないふくよかな胸をした少女が、落胆している秋玲を憐れむような声で言った。
たしかに、目の前の少女の言うとおりかもしれない。
だが、それは彼女が生きていればの話であった。
「帰る場所がなくなるかもしれないのに?」
そう言い返され、秋玲の目の前にいる妖怪の少女……咲下海雪は指で頬をこすりながら、
「私が生きてたら……ううん、おじいちゃんのことを私が二人を殺す前に知ってさえいれば、もしかしたらって思うんだけどね」
それこそ苦行を吐露した。
「母様の受け入りで申し訳ありませんが、神でさえ人の犯した過去を変えることはできません」
「言ってみたまでよ。私の後悔は死んだあとになってからだからね。死んでから知った事のほうがあまりにも大きすぎたけどね」
海雪は秋玲の目の前に座り直し、
「咲川源蔵の嫡孫として訊ねるわ白蔵主。あなたは子安神社を本当はどうしたいの?」
ジッと真っ直ぐに見つめられながら、
「後世まで残していたいです。神社寺院というのは本来そういうものだと思っていますから」
と訴えた。
「それじゃぁ、それでいいんじゃない。よく言うでしょ、寄らば大樹の陰って」
その言葉の意味はわかっているが、はてなにゆえそのような言葉が出たのか、秋玲には理解できなかった。
「でも今の神社を見てわかると思いますけど、ほとんど科学や医療も発達していますし、神様に頼ろうとしている人なんて」
「いるわよ。すくなくとも人が神の領域を犯すほどの力を手に入れるまではね。いまだに神頼みやら占いに身を委ねている人がいるのが現状だからねぇ」
「そういうものでしょうか?」
「そういうもんよ。人……というより衆生というのはなにかに縋らないとバランスすら取れない不安定要素しかないからね」
海雪は淑やかな笑みを浮かべる。
存在しているという意味では、秋玲のほうが幾許も長いのだが、人を見るという意味では海雪のほうが長い。
「それにさっきの言葉だって、白蔵主の真意を聞きたかっただけだしね」
「試したんですか?」
あまりに意地悪なことに、秋玲は海雪を睨んだ。
「そういう怖い顔しない。綺麗な顔容が台なしよ」
誂われたことに苛立ちを覚えた秋玲ではあったが、口で勝てるほどとは思っていなかった。
「まぁ、本当に苦しいんだったら子安神社を畳んでもいいのよ。依代がないっていうのは……」
「さっきも言いましたけど、帰る場所があるというのは心の拠り所じゃないですか」
言葉を終える前に言い返され、海雪はぎょっとする。
「それに……私、母様みたいに立派な瑞獣だなんて思ってませんし、今はまだ――人のために役に立っているって思ってませんから」
――まったく身寄りのいない神社を、それこそ最強の妖怪の一子が守っているってこと自体がすごいんだけどなぁ。
と、海雪は嘆息を吐くように頭のなかで呟いた。
「あれ? 私おかしな事言いました?」
怪訝な表情で秋玲は訊ねる。
「ううん、ちょっと嬉しいなって思っただけ。っていうか白蔵主は自分に対しての評価が低すぎるわよ。人が寄り付かないってことは、利用する人が居ない。人が来ないということは妖怪にとってよい住処になるけど、あんたがいるだけでココらへんの妖怪は寄り付きさえしないそうだからねぇ」
カラカラと笑う海雪を見ながら、秋玲は首をかしげた。
「わたし、そんなに強くないですよ?」
「もしかして、それはギャクで言ってるの?」
当の本人は強くないと言ってはいるが、最強妖怪のひとつである九尾の狐の一子である。
その力は妖怪というよりは神に近いが、白蔵主自身はそれを凌駕する力を持っている事自体を当人ですら気付いてはいなかった。
二人が話しているなか、秋玲の携帯が鳴り響いた。
「……もしもし?」
「あぁ秋玲さん。純ですけど、時間は大丈夫でしょうか?」
電話先の純の声を聞くや、秋玲はほんのりと頬を朱に染め、目を細めた。
「はい、大丈夫ですけど、どうかしましたか?」
「いえ、これから会食などどうでしょうか。瑠璃さんや聖子さんもよろしければ」
「ご迷惑ではありませんでしょうか?」
「いやいやご迷惑だなんて。こちらがお誘いしているのですから、秋玲さんが気落ちすることではありません。それともなにか先客がお有りでしたか?」
「い、いえ……、さきほども言いましたけど私自身は特に用事があるってわけではありませんし、それにこの前子安神社の草むしりに対してのお礼もまだでしたし」
「お気になさらないでいただきたい。こちらが勝手にやっていることですから。それでは今日の夕方五時頃に、福嗣駅のターミナルで迎えを出しますので」
「あ、はい。お母さんたちにも……」
チョイチョイっと、海雪から肩を叩かれた秋玲は、不思議な表情で彼女を見据えた。
「逢引に家族同行って聞いたことないんだけど?」
この流れだと、秋玲は瑠璃たちにデート先を教えそうだなと思った海雪は、秋玲にそう言い放った。
「あ……、デートってそんなつもりは」
「あんたはそのつもりがなくても、むこうは遠回しだけどそうしたいみたいよ。自分に好意を持たれているってことを自覚しなさいよ」
そう言われ、秋玲は顔に、言葉にはできないほどのむず痒さを覚えた。
「あの秋玲さん? もしかして」
「あ、いえ……大丈夫です。わかりました夕方五時に駅前のターミナルですね」
秋玲は壁時計を一瞥する。針は夕方四時を少し回った頃だ。
これから準備をしたとて、十分に間に合うと、秋玲は逆算していた。
その横には日めくりカレンダーが置かれており、七月二四日と記されている。
「……思ったけど、皐月といい瑠璃さんといい、黒川家に住んでる人ってなんで化粧の乗りっていうか、スッピンのほうが綺麗なのかしらね?」
愚痴とも取れる海雪の言葉を耳にしながら、
「なんででしょうかね」
としか秋玲は言えなかった。
「……それで秋玲が家にいなかったんですね」
秋玲が出かけてからしばらく経った夕方四時四二分。
用事から戻ってきた瑠璃が、留守を任されていた海雪からことの流れを聞いていたのである。
「しかしすこし不安ですね」
「不安……ですか? それはたしかに妖怪と人間ですからね幸せにってのは難しいだろうけど」
「いえ、それは当人たちの問題ですし、秋玲が選んだのなら私はただただ応援するだけですよ」
瑠璃の言葉に、海雪は首をかしげた。
「もしかして……相手が暴力団の組頭だからですか?」
「そんなちいさなことじゃないですよ」
けっこう大事な気もするがと海雪はさらに怪訝そうに瑠璃を見る。
「鮎川燈愛は覚えてますか?」
懐かしい名前を聞くなぁと海雪は思いながら、
「覚えてますけど、それがどうかしたんですか?」
と聞き返した。
「彼女が代表をしている事務所に所属しているアイドルグループに黒い噂がありましてね。なんでも……メンバーの一人が薬をしているという話です」
「アイドルグループって、たしかギャルソンっている優男の集団だっけ?」
まぁ噂で済めばいいのだが、火のないところに煙は立たないどころか、立たせようとしているのが芸能界だ。
「できれば杞憂であればいいんですけどね」
お久しぶりの姦更新です。うん。すっかり忘れてたって人もいるでしょうけどね。
今回の主役は秋玲です。温厚で矢鱈滅多なことでは怒りませんけど最強妖怪の血を持ってますからね。
どういう殺陣を繰り出すか。見ものである。




