漆
時刻は七月十五日十四時のことであった。
弥生のインタビューから出版社に戻った和泉は、
「警察が訪ねに来た?」
と編集部員に聞き返していた。
「えぇ、それが編集長が事故で亡くなったというよりは殺されたみたいなことを言ってましたよ」
それを聞いて、和泉は眉をしかめる。
「どうして警察はそのようなことを?」
「いえ、どうしてと言われましても」
そんなこと知るわけないだろう。
和泉は編集者たちの物言わぬ表情からそう読み取った。
もちろん人前で事件に関わるようなことをいうほど岡崎たちは抜けてなどいない。
「……そう。それじゃぁ休日だけど会議を始めましょう」
「編集長の通夜の話は聞いていないんですか?」
「まだ編集長の遺体が警察にわたっているだろうから」
和泉は自分の机を見据える。そこには同じ出版社で発行されている週刊誌が置かれていた。
「――……っ? これは……」
その本を手に取り、表紙と裏表紙を見た瞬間、和泉は鬼胎する。
その本の発行日が『二〇二四年七月二四日付』と記されていた。
「これ、誰が置いたの?」
「いえ……副編集長が置かれたのでは? わたしが来た時には置かれてなんていませんでしたし」
他の編集者たちも同様に、知らないと言った表情で首を振っていく。
「私が出て行く前までなかったし、こんなものを置いた覚えもないわ」
和泉は愚痴をこぼしながら、その週刊誌を広げていく。
途中までページをめくっていくと、一枚の紙切れが机の上に舞い落ちた。
『狂った鬼子母神は自分の子すら食い棄てる』
という一文字が書かれていた。
和泉はその意味に気付くや、震えた手でそのメモを取ると、裏にも文字が書かれていたことに気付いた。
「……ちょっと出かけるわ」
そう言い残し、和泉は編集部を後にし、出版社を出ると目の前の道路を走り去ろうとしていたタクシーを呼び止め、ある場所へと向かった。
車は東京都の奥地、神奈川との県境にある竹林の手前で停まった。
和泉は料金を支払うと、その竹林のほうへと足を運ぶ。
しばらく道無き道を歩いていくと、開けた場所に出る。
「場所はここのはずだけど」
周りを見渡しながら、和泉は先程のメモを凝視する。
そこには場所の指定が書かれており、それに加えて彼女の過去について『曝されたくなければこの場所に来るように』と記されていた。
――どうしてこんなのが? だってそんなこと誰かが知ってるわけ。
和泉がそう心の中でつぶやいた時であった。
夏とは思えないほどに冷たい空気が和泉の全身を包み込む。
「えっ……」
突然の冷気に恐懼し、うしろに振り返った和泉が見た先には、冷たい藍色鳩羽の髪をした、高校生ほどの少女の姿があった。
「…………」
「えっ? なに? なにを言っているの? それより、あなたが私をここに呼んだの? それとも誰が呼んだのか知っているの?」
和泉は少女に詰め寄る。
「私は襲われたのよ? 襲われて孕まされたのよっ! それなら棄てたって罰は当たらないでしょ?」
「…………」
「なに? なにが言いたいのよ! 言いたいことがあるならハッキリ……――」
和泉は言葉を途中で飲み込み、喉元を抑えこんだ。
喉頭が異常なまでに冷たく息苦しくなっていた。
「あ、……あぁ……がぁ……」
遠くから足音が聞こえ、そちらに視線を向けた。
「和泉結愛さんですね。わたくし……坂本曜生ともうします」
目の前に現れた、白髪交じりの五十代の男がそう言う。
「坂本……たしかこの前あった市長選挙に当選したっていう」
それを口にして、和泉は喉に異常を感じなくなる。
「ほぅ、ご存知でしたか」
「その市長さんがどうしてこんな場所に?」
「いえいえ、ちょっと手違いがありましてね。うむうむ、どう解釈すればよろしいものか、あなたは橘保昌が喘息持ちだったことはご存知でしたかな?」
そう訊かれ、和泉は頭を振るう。
「そうですか。それならばそのように振る舞えばいいのです。あなたが毒を盛ったとしても、警察は事故による脳挫傷で死んだとかんがえるのですから」
それこそ、まるで悪魔のささやきであった。
「あの、どうしてそのようなことを?」
「いえいえ、無知はいずれ自分の手で身罷ってしまうもの、それゆえ当然の結果とも言えるでしょう」
和泉が聞きたいことはそれではない。
なぜ橘保昌が喘息持ちだったのか、それこそなぜ自分が橘保昌の車に乗っていたのか、それよりもまず……『毒が盛られていたのか』という荒唐無稽な話を、それこそ当然のように話しているのか。
「それこそあなたが自分の子供を棄てたとことだって、当然といえば当然の結果なのです」
「当然の結果……?」
「そう当然の結果なのです。あなたは強姦された挙句望まれない子供を孕んだ。その末に子供を産み棄てたとしても当然の結果。そんな子供を誰かが拾い育てたとしても決して不思議ではないのです」
その一瞬、和泉は目の前の男が、はたして自分と同じ人間なのかと疑問を感じた。
「あなたは自分の子供が人を殺したことを知っているのでしょ?」
含み笑いを浮かべながら、坂本は和泉の目を見据えた。
「……な、なにを……」
「知っているのでしょ? だってそれを企てたのは――」
坂本がその先を言おうとした時である。
「…………」
その場に立ち尽くしていた少女が、坂本に声をかけた。
「……ほぅ、そのようなものを感じ取ったか。順調順調、お前の力が成長しているなによりの証拠だ」
坂本はちいさく笑みを浮かべると同時に、坂本と少女の目の前で旋風が起きた。
「五年ぶりにこちらに来れる許可をもらえたから、ちょっとどう変わったのかと思って回遊してみようかなと思ったら……また妙なことが起きてるみたいね」
巻き上がる砂塵の中、肩まで伸びた濡鴉色の髪をした少女は坂本と藍色鳩羽髪の少女を睨みつけていた。
その姿は現代というよりは大正時代にちかい和装である。
「ほんと福嗣町とその周辺って地域的に呪われてるのかしら」
濡鴉色の髪の少女はあきれた声で愚痴をこぼしていく。
「見たことがないな……いやしかし、なるほどこれがかの有名な鴉天狗か」
坂本がそうつぶやく。
「……そこの女の子に聞きたいんだけど、……あなた生きている人間でしょ? どうしてわたしと同じ空気がするのよ?」
「なぁに、ちょっとしたことですよ――『黒川栢』……」
それを耳にして、黒川栢は首をかしげた。
「あれ、わたしはあなたのことなんてちっとも知らないのだけど?」
「いえいえ、あなたが知らなくても私は知っているんですよ。かつて朧という人間が殺されたことでこの町に大災害が起きた。たかだか人間の少女一人が殺されたくらいで気狂いした妖怪たちの手によって一時期滅ぼされたにもかかわらず……」
坂本は言葉止める。目の前にいる栢の双眸が赤く濁り、それこそ彼女がひとつ指を鳴らせば、坂本の首を掻っ切るほどの緊迫感があった。
「戯言を言わないでくれる? 昔から福嗣町に住んでいる妖怪たちは挙って朧を大切にしていたからね。たとえ妖怪と人間であったとしても、彼らにとって朧は大切な存在なのよ」
「それこそ戯言でしょう。人と人が理解し合えないのならば、人と妖怪が理解し合えないことも当然といえば当然でしょう」
坂本は視線を少女に向ける。
「とりあえず、聞きたいことが山ほどできたわ。まずどうして私の名前や朧のことを知っているか教えてもらおうかしら?」
「それに関しては正直にお応えしましょう。わたしにその少女のことを話してくれたのは……『黒川浬拌』ですからね」
坂本は栢を恐れることなくそう告白した。
「……は?」
いきなりの、それこそ予想してもいなかった人物の名前を聞くや、栢は髪を逆立てるほどに激情した。
「私はあなたに、私と朧のことを誰に聞いたのかって言ったのよ? それなのに、どうしてその名前が出てくるわけ?」
「あはははは、あなたはひとつ勘違いをしている。彼とて不幸の死を遂げた。となればその男が地縛霊となり、次第に妖怪となる……それこそあなたが鴉天狗に成り果てたことと同じように」
坂本はパッと手を上げた。
「どうやら話しても無駄な時間だということがわかった」
それが合図であったと云わんばかりに、周囲の空気が冷たくなっていく。
「……これは?」
栢は両翼をひろげ、空を飛んで回避しようとしたが、
「なっ? 足と地面が氷ついている?」
地面は凍りつき、それこそ栢の特性である鴉天狗の両翼も氷付き、その重みで栢はバランスを崩した。
「濡れた羽根のまま飛べる鳥がいるわけあるまいて……殺れ『雪姫』」
坂本は挙げていた手を振り下ろす。
「…………」
雪姫と呼ばれた少女の周りには氷の刃が浮かび上がり、栢に照準を合わせるや――発射された。
「くっ、白南風っ!」
栢は暖かい南風で自分の足を捕まえていた氷を溶かし、すんでのところで氷の刃を避けていく。
「一刀・鵜祭っ!」
懐剣を抜き、虚空を切り裂くや、そこから水柱が現れ、氷の刃もろとも雪姫をとらえた。
「――晴嵐っ!」
周囲に靄が発生し、栢は姿を消す。
「…………」
「うむ、そうだな……慌てることではない」
坂本は雪姫を見据える。
「お前は我々の最高傑作なのだ。あれくらいの、人の心を捨てきれぬ妖怪なんぞにやられることはないのだ」
「だったら、試してみる?」
懐剣の鋒を雪姫と坂本に向けながら、栢は攻撃態勢に入る。
「どこからでもどうぞ」
口角をあげながら、坂本は言い放った。
「その余裕がどこから出ているのやら……」
すこし苛立った表情で栢はパッと飛び出すや、
「一刀・鱗形っ!」
縦横無尽に飛び交い、雪姫に攻撃を仕掛けた。
栢の斬撃すべてが雪姫の身体を切りつけるが、雪姫の表情に変化がない。
栢はそれを疑問に持ちながらも、攻撃の手を休めなかった。
「……あなたに私を殺すことはできない」
すれ違った一瞬、雪姫の口からその言葉が発せられた刹那、
「がはぁっ?」
栢は喉元を掴み取られ、地面にたたきつけられた。
「が、はぁ? なぁがはっげぁぁぎゃぁごゃ」
ジワリ、ジワリと栢の喉が青紫に変色していく。
「くくく、この力、実にいい。実験は成功だ。これほどまでによい結果になってくれるとはなぁ」
遠くから見ていた坂本の哄笑が竹藪の中に響き渡った。
「……っ!」
雪姫はつかみとっていた栢の首に違和感を覚える。
「雪姫、どうかしたのか? それとも力に勢いがついてしまって殺してしまった……いやこの場合は消滅させてしまったのかといったほうが正しいか」
坂本は首をかしげるようにそうたずねたが、雪姫は栢の首を掴んでいた手を離し、頭を振った。
「…………」
「そうか、和泉結愛の姿もなし、逃げられたということか」
雪姫は応えるようにうなずいてみせる。
「まぁいい。しかしよい実験になった。今日はもう戻ろう」
坂本は雪姫を見ることなく竹藪の中へと入っていく。
雪姫も、自分の手を見つめながらもその後を追うように消えていった。
「……行ったみたいね」
誰もいない竹藪の開けた場所から栢の声がする。
「い、いったいなにが」
震えた声で和泉が栢を見据えた。
「だってあなたはさっき殺されたはずじゃ? それにあそこに死体が」
和泉は地面に落ちている栢の成れの果てを指さし、目の前の栢と交互に見渡す。
栢は雪姫に攻撃を仕掛ける直前、実態のある分身術『幻刀・二人静』を使っていたのである。そのため、和泉の眼の前にいるほうが本物であった。
「うーん、まぁ妖怪だから死ぬって概念はそもそも通用しないんだけど」
地面に横たわっている自分の骸を苦笑で見据えながら、栢はさてどう説明したものかと考える。
「まぁここで起きたことは忘れるべきね。私は警察と違って人がどうなろうと知ったことじゃないけど、こういう事件はちょっと足を踏み入れちゃったら、それこそ底があるのに底のない沼のようにズブズブと身体を飲み込まれるから」
そう警告ともいえる説明をしながらも、栢は雪姫のことで頭を痛めていた。
「師匠と妹弟子たちにそれとなく訊いてみようかしら」




