壱
頽馬【たいば】
本州や四国各地に伝わる怪異。
馬を殺すと言われる魔性の風で、馬を飼う地方では非常に恐れられていた。
梅雨も半ばと言わんばかりに、まとまった雨が一週間ほど続いていた。
土砂降りの中、一台の車が夜の車道を走っており、その前後にはなにもなく、ほとんど独り占めとなっている。
「しかし残業でだいぶ遅くなってしまったな」
運転をしている四十代後半の強面な男が、助手席に坐っている三十代前半の女性を一瞥する。
もちろん運転中であったため正面に集中してはいたが、次の信号までは百メートルほど先だったため、すこし見るくらいならばと思い、男は女性に視線を向けていた。
「まぁ編集長が一緒にいてくれて助かりました。すみません仕事が遅くて」
「たしかに遅いとは言えるが、まぁ納期に間に合ってくれたし、それに明日提出しなければいけない大事な資料だ。細かいチェックもしなければいけなかったからな」
男はチラリとカーナビ代わりに立てて置かれているスマホを見た。
時刻は【7/14 20:32】と表記されている。
「この近くにコンビニがあるんだけど、なにか小腹にはいるものでも買おうか?」
「よろしいんですか?」
「部下の労働を補ってあげるのは上司の特権だ。厚意だと思い給え」
それを聞いて、女性のお腹も夜食を食べたいと訴えていた。
「雅、賞味期限が今日までのパンとか棚卸しのお菓子をまとめてくれないか」
ちょうど商品棚を整理していた雅を見ながら、バイト先の先輩である道命寺敬真が声をかけた。
「廃棄ッスか?」
「まぁそうなるな」
道命寺はジッと自分を見ている雅を見て、
「栗川さん、どうします?」
とうしろでやりとりをしていた栗川にたずねた。
「そうね、どうせ廃棄したら仕入損になるから利益なんてないし」
「おぉ助かります。最近期末テストでろくにまともなご飯を食べてなかったんスよ」
雅が一人暮らしだということを知っている二人は、大喜びしている雅を見てクスクスと笑みをこぼした時だった。
店の自動ドアが開き、冒頭の男と女の二人組が入ってきた。
「らっしゃいませ」
雅と栗川がいつもどおり声をかける。
当然といえば当然なのだが、二人組は隅のドリンク棚へと歩いていった。
しばらくして二人組はそれぞれパンとカップコーヒーを手にとってレジの方へと向かっていく。
「いらっしゃ……」
ちょうどレジに立っていた道明寺が商品のバーコードをリーダーで読み込もうとした時、ふと女性を見た瞬間言葉を失っていた。
「どうかし……」
女性は首をかしげ、ジッと道明寺を見据える。
「すまないがこっちはすこし急いでるんでね。早くしてくれないかい?」
「あ、すみません」
男に声をかけられ道明寺は慌てた表情で商品を計算していく。
「……合計で五四二円になります。千ニ円からお預かりします。――四六〇円のお返しです」
道成寺はレジカウンターから小銭とレシートを取り、男性に渡した。
男性はそれを受け取り、女性の手を取って店を出て行く。
「道成寺さん、どうかしたんスか?」
雅がそう声をかけたが、道成寺はジッと店の外に停められている車に乗り込もうとしていた女性をジッと見つめており、雅の声に気付いたのはそれからしばらく経ってのことであった。
「ふぅ、それじゃぁ今日はお疲れさま」
雅がバイトしているコンビニを出てから二十分経っての事だった。
車は福嗣町からすこし離れた住宅街の路地に停まり、助手席から女性が降りてくる。
「編集長もお疲れ様でした」
「大丈夫かい? 最近物騒だし」
「いえ、大丈夫です。さすがに三十も過ぎてるおばさんを襲うような人はいないでしょ」
女性は苦笑を浮かべる。
「うぅむ、僕としては家まで送ってあげたいのだけどね」
助手席の窓から覗きこむように男は女性に言い返した。
「それでは明日の会議が成功することを祈っております。橘編集長」
「あぁキミに頼るかもしれないがね和泉さん」
男……橘保昌は車を走らせ、未だに降り荒れた激しい雨の中に消えていった。
――本当に、明日の会議が成功してくれればいいですけどね。
女性……和泉結愛は傘の中でそうつぶやく。
横殴りの雨が彼女の身体を濡らしていくが、彼女は紅潮した心に意識を持って行かれ、濡れていることすら気付いていなかった。
「『なんで砂糖がすくなくなってるかなぁ?』」
時間は先程から二時間ほど前、十八時になろうとしていた時だった。
夕食の準備をしていた皐月は調味料棚になおしていた砂糖がなくなっていることに疑問を持ちはじめ、最近使った経緯を思い出していた。
「『お菓子だと最近はクッキーを焼いたくらいだし、それはそれで計算していて、足りなかったら新しいのを買ってきてたから余裕はあるはずだし、親子丼とか丼ものはめんつゆで代用してるから入れるとしても大さじ半分いれるかくらいだしなぁ』」
うーんと調味料棚を凝視している母親を見てか、
「遊火、ママさんどうかしたの?」
と湊は近くにいた遊火に声をかけた。
「えっと、なんか砂糖がすくないみたいなんですよ」
それを聞いて、湊はすこし考えてから口を開いた。
「そういえばママさん、昨日稲妻神社で法事のことで話さないといけないって用事があって、その時に白ねぇに手作りのお稲荷さん作ってあげようかとか言って、すし飯に砂糖使わなかったっけ?」
湊の言葉を遊火が皐月に口伝するや、皐月はアッと口を開いた。
「『てっきり全工程を稲妻神社でやってたって思ってたから勘違いしてた』」
「ま、まぁ実際油揚げにすし飯を詰めたのは稲妻神社にいた時でしたからね。行く前に連絡した時、瑠璃さまから砂糖がなくなっていると知らされて、それだったら家ですし飯だけでも作ってくるって連絡し合っていたじゃないですか」
遊火がそう言うや、皐月はさらにその時のことを思い出し、顔を赤くしていた。
「ママさん、砂糖がないくらいでそんなに気にしなくても……って何やってるの?」
台所をのぞきにやってきた湊は母親の姿を見て唖然とする。
皐月は身体を屈め、冷蔵庫の野菜入れを開き、7センチほどある太めのゴボウを取り出すや、それをふたつに折り曲げ、それぞれの片端を菜箸で孔を開け、麻ひもで結びつなげるや、ヌンチャクのように振り回し始めたのである。
「…………」
皐月は視線を湊にではなく遊火に向け、言葉を発する。
皐月の声は湊には聞こえておらず、妖怪である遊火にのみ聞こえていた。
「えっと、たしかにそれだと砂糖代わりになるでしょうけど、結構衝撃的な映像ですよ今」
「遊火、ママさんなにを作ろうとしてるの?」
「えっと、聞いておどろかないでくださいね」
「おどろかないから言って」
遊火はジッと自分を見据えている湊を片目で見ながら、
「皐月さま、ゴボウから甘みを含んだ汁を採取して、それを煮詰めて砂糖にしようかって考えてるみたいです」
と正直に答えた。
「って、無理でしょさすがに? っていうか砂糖って手作りできたの?」
皐月は、それこそ信じられないと言った表情で自分を見ている湊を尻目に、振り回していた二本のゴボウを砕き、さらにフードプロセッサーで細かくすると、大きめの鍋で沸かしたお湯の中に入れ、適度な温度をたもちながら、別の料理を作り始めた。
別の作業をしつつも、鍋を気にしながら夕食の準備をしていく。
そんな中、一時間ほど煮詰まった糖分を含んだ液体をさらし布で越すように軽く搾っていき、ふたたび煮詰め始めた。
灰汁をこまめに取りながら煮詰めていき、水飴くらいの硬さになると、さらに煮詰めていくと茶色くなっていき、ラップを張ったプレートへと流し入れ、自然と冷ましていく。
「で、できたのがそれってわけか」
警視庁から戻ってきた大宮忠治は固まった砂糖を砕いている湊と皐月を見ながら苦笑を浮かべていた。
時間は二一時を過ぎており、皐月と湊はすでに夕食を済ませている。
「それにしてもそういう作り方を知ってたら調味料入らずじゃないか? この前だってステーキの味付けにって水塩だっけか作ってたじゃないか」
「まぁ、本当は天日干しが一番良いらしいですけど、砂糖だと蟻がつくからあまりできないみたいですよ。それに今回は臨時で作ってますから」
「そうか。それで帰りに砂糖を買ってきてほしいって連絡があったんだな」
忠治はふぅと一息つくと、上着を椅子の背もたれにかけ、粉になった手作り砂糖を指に付け味見をした。
「おぉ、ちょっとゴボウの苦味が残ってはいるけど、これはこれで味がいい」
「だよねだよね? っていうか別にサトウキビじゃないのにこんなに甘くなるってのがおどろきなんだよ」
父親の感想に湊はさらに乗っかる。
「…………」
「遊火ちゃん、皐月はなんて?」
皐月の口が動いてはいても声は聞こえないため、忠治はそう遊火に口伝を願い出た。
「いや、皐月さまいわく『野菜には甘みがあるんだから、別に不思議じゃないと思うけど』と云ってます」
「えっと、ママさんに言ってくれるかな? 知っててもそれを作ろうと思わないから」
遊火の口から発せられた皐月の言葉を聞くや、湊は肩を落とした。
「それはそうと忠治さま、先程から携帯が鳴ってますけど」
遊火にそう言われ、忠治は上着からスマホを取り出した。
「もしもし……あぁ岡崎か、どうかしたのか?」
「家に帰って一家団欒のところを裂くようですまないが事件だ、福嗣町と隣町の境目あたりで一台の車が電柱にぶつかった衝突事故を起こしてる」
「それだったら群岡さんがいる交通課の仕事じゃないのか?」
確かにただのよそ見運転による交通事故ならば畑違いである忠治たち刑事課の仕事ではない。
「普通ならな。ただ……群岡さんたちが事故車の中を調べたら妙なものがあったらしいんだ。普通カップドリンクとはいえふたを閉じているはずだよな?」
「んっ? まぁそうだな」
「そのドリンクから毒物が検出されたらしい。いま月さんがさきに現場に向かっているが、後から葉月ちゃんとアニラさん、飯塚刑事にも向かってもらっているよ」
「わかった。こっちも急いで向かうよ」
忠治は視線を皐月と湊に向ける。
「いってらっしゃいパパさん」
「うん、いってくるよ」
なにも言わずとも事件があったのだろうと感じ取った娘に背中を押されながら、忠治は現場へと急いで向かった。
「群岡さん、現場検証はどうですか?」
事故現場に赴いた忠治は、現場検証を行っていた群岡たち交通課の警官たちにそうたずねた。
「大宮警部補、それがまぁブレーキ痕は見つかっていませんから、視界を悪くしてのよそ見運転ってことで処理はできたんでしょうけど」
「部下からの話では、車中から毒入りのドリンクが発見されたとか」
「えぇ、今菅田巡査長に鑑識の強力をお願いしてるところです」
「群岡さん、遺体の身元がわかりました」
群岡の部下である交通課の警官がそう報告にやってくる。
「うむ、大宮警部補も見ますか」
「よろしいのですか?」
「普通の事故ならば交通課に捜査権が行きますが、これが殺人となればそちらに譲るしかないでしょう」
「……わかりました」
忠治は交通課の警官が持ってきた身元照明となる被害者の運転免許証を受け取り、それを凝視した。
「被害者の名前は『橘保昌』三九歳か」
「車の中にファッション雑誌の類がありました。それから布もいくつか所持しているようです」
「ファッション雑誌?」
忠治は被害者の強面を見て首をかしげる。
「それから社員証もありました。『暖輪社』という出版社の社員で、ファッション雑誌の編集長をしているようです」
「ファッション雑誌の編集長? たしかにそれなら車の中にファッション誌があってもおかしくはないけど、どうして布も?」
「それはまだわかりませんが、ファッション誌の編集長をしているところから、布の目利きができていたか、もしくは新しい布で作った洋服のサンプルのために必要だったのか、まぁどちらにしても調べるに越したことはありませんな」
群岡の言う通り、今はまだ被害者の身元しか判明できていない。
「大宮警部補、遅れてすみません」
雨具を着てはいても、傘を差さずに濡れた状態でやって来た葉月が、立ち話をしていた忠治と群岡に向かって頭を下げる。
「えっと、なんで傘をささないできたの?」
「いや、出てきた時は傘を差したんですけど、どうせ濡れるし、結構現場が近くだったので。それに思った以上に風が強いですから邪魔かなって」
「ようやく事件が終わったと思っての急な呼び出しだ。それでなくても忙しいだろうに」
「えっと、それはまぁ実家の問題ですし、今年もマル暴対策の部署と話してはいますが」
葉月の苦笑を見ながら、
「あぁそうか……もうそんな時期になるんですな」
と群岡は交通課の警官に向かって、タオルと傘を持って来いと命じた。
「それはそうと葉月ちゃん」
「なんですか? 忠治さん」
二人がラフな口調でそう言い合う。忠治が葉月をそう呼ぶときは決まって私情があるときくらいだ。
「飯塚刑事のことだけど」
「なんで爺様が殺されたことを知っているのかってことですか?」
そう聞き返され、忠治はうなずいてみせた。
「あれから彼女と同じ時期にいたっていう公安の刑事に聞きましたけど、やっぱり爺様が殺された事件の犯人を知ってるのは瑠璃さん以外は波夷羅しかいないようで、その警官も知らないと言っていました」
「神主が殺されたことは警視庁福嗣署の中でも厳重機密になっているから公安でも知っている人間はいないはずだ」
「月さんが注意するようにって言ってましたけど、なんかほかにも知ってそうで……」
葉月は言葉を止め、ジッと道の先に目をやった。
「すみません遅くなりました」
「あぁこっちは急な呼び出しだったからな。飯塚刑事」
近くにいた岡崎に声を声をかけている飯塚を見ながら、
「岡崎には飯塚刑事から目を離さないようにってお願いをしてる。僕も部下を疑うみたいなことはできればしたくないけど」
と忠治は葉月を申し訳ない表情で見据えた。
お久しぶりです。そろそろいい加減続きを書かないといけませんね。




