漆
「もういちど事件のことについてお聞きしたいと?」
午後六時。捜査本部から出ようとしている椎名に向かって、大宮と葉月は、ジッと椎名を見つめている。
「はい。今回の事件、一番の謎はいつ卜部輝一が殺されたことなんです」
「それは……麗白さんの証言が正しいとすれば、事件当日の午前八時をすぎてからでしょうな」
椎名は怪訝な表情で大宮たちを睨む。
「弟子である楽々森さんの証言では、午前九時前となっています。それって午前九時前なら午前八時でも、午前七時でも……午前五時でも午前九時前になりますよね?」
葉月の言葉に、椎名は唖然とする。
「なにを思ってそのようなことを?」
「さきほど、私の姉の知り合いが卜部輝一のことを話していたのをRineで教えてもらったんです。卜部輝一はすでに引退を考えていて、それを息子に教えていたんじゃないかって」
椎名はさらに険しい表情を浮かべた。
「そ、そんなこと……それにわたしたちはちゃんと素性を調べているんだ。息子が工場にいたなんて聞いたことがない」
そう葉月に言葉を詰まらせる椎名は、会議室の入り口から入ってきた岡崎とアニラ、波夷羅に気付いた。
「本当に知らないんですか? 岡山県警の刑事たちが総力をあげても?」
岡崎が椎名に目をやる。
「あ、ああ……それは知りませんでした」
「さきほど岡山県警に問い合わせたところ、たしかに卜部輝一が三年前、自分の刀を借金代わりに……息子に渡していたという村人の目撃証言を得ていたことを話してくれましたよ」
波夷羅はゆっくりと椎名に詰め寄る。
その目は獲物を喰らおうとしている獣の目であった。
「む、息子に? ですがわたしが聞いた話では金融機関に渡したとばかり」
「それに関してですけどね、そちらもすでに返済を済ませていたそうです。元々は自分の手術のためだったそうですけどね」
葉月はアニラの言葉を聞くや、首をかしげる。
「どういうことですか? アニラさん」
「葉月ちゃん、郷と化物は見たことがないって慣用句は知ってる?」
アニラの問いかけに、葉月は素直に首を横に降った。
「郷義弘という鎌倉時代末期の名工が作った在銘正真の作品は皆無で、また化物を見たことがある人はいない。つまり、あると世間で言われていることでも、実際に見たことがないというものの例えね」
「つまり、我々が知らないことをあなたはあるという前提で話をしていた」
岡崎の言葉に、椎名は怒りを浮かばせる。
「すこし待ってくださいよ? わたしはちゃんとした情報をもって今回の合同捜査をお願いしたんですよ」
「実は先ほど岡山県警のほうに問い合わせましてね、楽々森のDNA鑑定をしてもらいました。結果はすぐにはわかりませんけどね。それから、彼が卜部輝一に弟子入りしたのは三年前……ちょうど借金で失踪していた時期です」
岡崎が詰め寄るように椎名を一瞥する。
「ですが、どうして楽々森さんが疑われるんですか?」
「いや、楽々森さんは犯人ではない。麗白さんも、ましてや犬飼さんも犯人ではないよ」
「なにを、知ったようなことを?」
「岡山県警の刑事に知り合いがいましてね……彼にすこしご協力をしてもらったんです。あらためて当時の目撃証言でたったひとつ、不自然な部分があった」
波夷羅はジッと椎名を見つめる。
「今でもデジタルにせず、手書きで聴取を記録している。ということは墨でふせられた部分もあります。その部分を科捜研に送って筆跡を調べてもらえば……村人が事件当時、誰を目撃したのかがわかりますな」
波夷羅の目は、さらに椎名を喰らおうとしていた。
「…………っ!」
途端、着信音が聞こえ、葉月たちはいっせいに波夷羅に視線を向けた。
波夷羅はゆっくりとそれを手に取る。
「もしもし、あぁすみませんお忙しいのに……ええ、はい……ありがとうございました」
波夷羅は電話先の相手にお礼を言うと、ゆっくりとみなを見渡した。
「今、岡山県警の科捜研から連絡があった。墨で塗られたとしてボールペンで書かれた時の筆跡痕は残っていたそうだ。その解析で『三十年前、椎名とかいう刑事が頻繁に村に来ていた』と記録されていたそうだ」
「ふ、ふざけるなァッ! なにを根拠に?」
困惑し、また興奮した表情で椎名は周りに怒鳴り散らした。
「根拠はあるんじゃないんですか? あなたが私と大宮警部補に話した事件です」
葉月は、椎名の言葉を遮るようにたずねた。
「三十年前、拓蔵さんが岡山まで追いかけた殺人犯のことか」
大宮の言葉に、葉月はうなずく。
「爺様は当時公安で、カルト宗教を取り締まる部所にいましたから」
「そうなると、ある程度は調べてから岡山に向かっているはずだ。その宗教に入っている人物の家族などもね……」
椎名は近くにおいてあった椅子に、倒れるように座り込んだ。
そして顔を俯かせ、ジッと自分の手を見つめている。
「そのことを先ほど公安部に問い合わせた。たしかに三十年前に黒川拓蔵が岡山に事件捜査のために一週間ほど出張していたという記録がある。その教徒の中に『椎名まこと』という男性の名前があり、その子どもの名は『椎名武彦』っ!」
キッパリと波夷羅は言った。
「たしかにわたしの父がカルト宗教に入団してはいました。それは認めます。ですが、いまは関係のない話でしょ? わたしが追っているのは――」
「卜部輝一を殺した犯人があの中にいない。あなたは最初からそれを知っていたんじゃないんですか?」
椎名は唖然とした表情で葉月を一瞥した。
その葉月は、まっすぐ椎名を見つめている。
「椎名刑事、あなたは今回の事件、卜部輝一の殺害について、三十年前の事件を洗い流した。そこであらためて確信じゃないんですか? 父親を殺したのが卜部輝一だったのではないかって……」
葉月の言葉を耳にし、椎名はゆっくりと顔を上げた。
「やはり……黒川さんと同じですな。いや……あの人もわたしによく話しかけてくれていたのは、おそらく復讐することを抑制するためだったんでしょう。父が殺されたのは私がまだ中学にあがる前でした。事故ということになっていましたが、背中には刀で切られたあとがあったそうです。そのことを不審に思いましたが、警察はそれ以上調べようとはしませんでした」
椎名はためいきをもらす。
「事件に優越をつけることほど愚かなことはありませんが、警察は何百もの事件を抱えています。その事件は傷害致死事件として処理がされていたようですな」
波夷羅が口にするや、椎名は食って掛かるように睨みつけた。
「オヤジが殺された時、まだ時効が十年の時だった。時効は二十年になったが、その時効もすでに過ぎてしまっている。ならばわたしが犯人を神の哲粋を与えるしかないだろうっ!」
「ふざけないでください。そんなことをして、なんの特があるんですか?」
葉月は険しい目で椎名を一喝する。
「それだけじゃない。二年前、卜部輝一に当時のことをたずねたんだ。するとどうだ? わたしがその時、やつが切りつけた男の息子だとわかるや、やつは……笑ったんだ。簡単に死ぬくらいの命だったのだとね」
椎名の目に光はなかった。
「どうして、どうして爺様があなたによく話しかけていたのかがわかりました。感じていたんだと思います。あなたがいずれ誰かを殺すことを」
「ははは……嗤えない冗談だ。そんなことをなぜ一度会っただけでわかるんだ」
苦笑を浮かべるように椎名は葉月に目をやる。
「そういう男なのだ。黒川拓蔵という男は……我々ですら気付かないことを平然とした顔でひょっこり口にする。だから恐ろしいのだ」
波夷羅はゆっくりと椎名に近付く。
「二日ほどの東京旅……いかがでしたかな?」
「……最悪だった。いや、人を殺して幸せになろうなんて虫が良いのかもしれんな」
椎名は立ち上がり、おもむろに両手を差し出した。
波夷羅はその両手を優しく手で包み込む。
「すでにあなたは警察署の中にいますし、いまさら逃げるわけでもあるまい……」
椎名はちいさくうなずいた。
「やっぱり、蛙の子は蛙でしたか」
会議室の入り口からあきれた口調の声が聞こえ、葉月たちはそちらに目をやった。
「い、飯塚巡査?」
そこにいたのは飯塚カスミであった。
「キ、キミはいったい? 今までどこに?」
「すこし昔の同僚と話をしてましてね。まぁ彼が犯人ではないかということは、こちらに来た時点で知ってはいましたが」
飯塚は能面のように表情を変えず、ジッと椎名を見る。
「二年前の事件、彼は楽々森が卜部篤だということを知っていたんですよ」
「それをどうしてあなたが? だってまだ……」
葉月はアッと口を開くや、恐ろしいものを見るかのように飯塚を睨んだ。
「楽々森が卜部篤だということを知っているのは村の人間だけだった。まさかあなた……」
「なんてことはないわ。いない人間を調べることくらいね。だってそうでしょう? アリバイがないことがアリバイだって」
平然と、それこそ淡々に言葉を発する飯塚に、葉月は言葉を見失う。
「それにこちらはすこし前に麗白という女から夫が失踪したことを聞いているんです。すると彼女、よく楽々森と一緒にいることが多くて、最初は不倫をしているのではないかと思いましたが、いいえ最初から夫婦ならそれは不倫になりませんね」
「飯塚巡査、自分がなにを言っているかわかってるんですか? 事件と関係のないことなら、触れないようにしてあげるのが人じゃないんですか?」
「たしかに今回の事件と関係がないわね。でも二人が卜部輝一の財産目当てで殺したことにだってなるのよ? まぁ、今回はつまらない復讐で終わったけどね……もっともあなたの祖父がやったことは結局ムダになったけど」
その言葉に、葉月の理性は死んだ。
「あぁあああああああああああああっ!」
葉月は飯塚の首もとを掴み上げ、彼女を床に力強く叩きつけた。
「あんたに、あんたなんかに爺様の気持ちがわかるわけないわよっ! 椎名刑事が父親を殺され、その復讐をしようとしていたことに気付いて、爺様はそれを止めようとした。警察官っていうのはそれを事前に防ぐのも役目なのよ? それをムダですって? 取り消しなさいっ!」
「うるさいわよ……優しい環境で育っただけの人間が」
飯塚は足を曲げ、葉月のお腹を蹴り上げた。
「…………っ!」
葉月はその衝撃に気を失いそうになる。
葉月の手が離れたことで、飯塚は自由になった。
「まったく、黒川拓蔵も馬鹿なことをしたわね。すぐに目を付けておけばよかったものを、三十年も泳がせておくからこんなことになったのよ」
飯塚は胸元を整え、ホコリを払い落とす。
「あやまって……」
「あやまる? わたしはあなたに悪いことなんてひとことも言っていないわよ。あなたが勝手にキレただけでしょ?」
飯塚はうずくまっている葉月を見下ろす。
「自分のことでバカにされることなんて気にしませんよ。でも……自分の祖父をバカにされて怒らないほど冷静じゃないんですよ」
それを聞いて、飯塚はためいきをつく。
「話にならないわ。これだから傷害致死の犯人が捕まらないのよ。だってそうでしょ? 八歳の子どもでも、人を殺せば殺人犯だって……ガキでもわかるわよ」
飯塚はそう吐き捨てると、会議室を後にした。
「葉月ちゃん、大丈夫かい?」
岡崎は床に倒れている葉月を起こすように肩を貸す。
「す、すみません」
「だけど、彼女いったいいつどうやって? 今回の事件を聞いたのはまだ二日しか経っていないのよ?」
アニラが波夷羅を見遣る。
「信じられないが、彼女はすでに話を聞いていたのかもしれんな。そして椎名刑事がこちらにくるように仕向けたのやもしれん」
波夷羅の言葉に、椎名は唖然とする。
「それでは、卜部篤を見たという情報を流したのは彼女だった?」
「――考えられませんがね」
波夷羅は険しい表情で頭を抱えた。
「し、しかし……黒川拓蔵刑事がわたしを気にかけていたことはわかっていました。ですので黒川巡査、あなたが気にすることではないのです。わたしが弱かったんですよ。目の前に自分の父親を殺した人間がいる瞬間、ヤツを殺すことだけが頭の中にしかなかったのですから」
椎名は葉月に声をかけるが、葉月にその声は届いていない。
葉月は別の事で頭がいっぱいだったからだ。
――どうして、爺様が殺されたことを知ってるの?




