壱
『温羅』
おんらとも。
伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方(現在の岡山県)の統治者であったとされる。
「鬼神」「吉備冠者」という異称があり、中央の伝承によると、吉備には吉備津彦命が派遣されたというが、吉備に残る伝承では温羅は吉備津彦命に退治されたという。
この逸話は後世における桃太郎の原案とされている。
たとえ科学が発展し、機械のみで製造ラインを補っていたとしても、最終的には人の目でものを見ることがたしかなものとなる。
刃物にいたっては、これまで培ってきた知識と経験、そして勘と偶然が、螺旋状に絡み合い、人を魅入られせるものができあがる。
ほんの、十坪にも満たない村工場で作られる刃物も、それは同じようなものであった。
土釜の中は、轟々と炎が喚いており、それを八十を超えた老人が、険しい表情で見つめている。
その熱風に晒され、汗すら乾いてしまうほどであった。
玉鋼と呼ばれる鋼鉄は、釜の中で燃え盛り、熱を帯びていく。
その玉鋼を取り出し、鉄床の上に置くや、金槌で叩き、水減し(赤熱された玉鋼を、金槌で一定の厚さまで伸ばすこと)していく。
冷えたところでふたたび玉鋼は釜の中に入れられ、熱を帯びる。
取り出しては、先ほどの水減しと同様に鍛錬されていくのだが、折り返しては鍛錬し、火の中に入れ、熱したところを取り出してはまた折り返しては鍛錬していき、これを繰り返していく。
この折り返し鍛錬をする前に、水減しされた玉鋼は、いくつかに小分けされる。
だが、この老人の作品は、ひとつの玉鋼のみで作成されていた。
鍛錬を繰り返していき、今度は弟子の一人と、刀剣の形になるよう玉鋼を整形するように打ち伸ばしていく。これを素延べという。
素延べされた刃の先端をななめに切り落とし、棟側に打ち出し鋒を成形すると、火造という、鎬・|棟・横手などを想定した作り込みの作業をおこなっていく。
刀は荒仕上げがほどこされると、土置(焼刃土という特殊な土で刃文をつけること)がされ、赤め(焼入れのために刀を赤熱すること)をした刀は、焼入れがされる。
急激に冷やされたため、水蒸気が老人の顔をおおっていく。
冷やされた刀には反りや曲がりが生じているため、それを金槌で直し、荒削りをしていく。
仕上げに、まず余分な肉を落として刀のバランスを整える下地研をおこなっていき、地鉄の部分を地艶で地鉄を際立たせ、刃の部分を刃艶で沸(焼入れによって刃の境目や刃中に生じた刃文の構成要素)や、匂(沸に対して、霞かかったように粒子が観察できないほどに微細なもの)を浮かび上がらせる。
刃中の沸や匂を白く表現する刃取りを経て、磨き棒を使って鎬地を鏡面状に仕上げていき、帽子(鋒部分の刃文)部分の仕上げであるなるめをおこなう。
刀身は輝き、老人の顔を映し出す。
最後になかごと呼ばれる場所に、老人の作品である証拠として『阿曽媛』という文字が打ち刻まれる。
この銘打ちをおこなったのは、刀を打ち始めてからすでに一週間ほど経ってのことであった。
「おつかれさまでした。卜部先生」
工場から出てきた老人に労いの言葉をかけたのは、楽々森という、二十代後半の見習い刀工であった。
「出来はどうでしたか?」
「満足……とはいいがたいのが悩みだな。ただ帽子には蝋燭帽子という刃文にした」
卜部はカカカと笑みを浮かべ、楽々森が用意していたお茶を一口飲んだ。
「あとは若いもんに任せて、わしはすこし一休みをするよ。あの刀はいつものように犬飼くんのところに持って行っておいてくれ」
そう楽々森に命じるや、卜部は自宅の方へと去っていった。
卜部が自宅の玄関を開けると、そこには三十代前半の、美しい黒髪をした女性が、正座して待っていた。
「お帰りなさいませお義父さま。お暑い中ご苦労でした」
「出迎えありがとうな麗白さん。昼飯はなんじゃ?」
「ここ最近熱い日が続いていますし、スタミナをつけるという意味で鰻の蒸篭蒸しにいたしました」
それを聞くや、卜部は笑みを浮かべる。
「そうか。それはまた精がつきそうじゃな。そうじゃ、この前作った刀が売れたそうじゃないか」
「はい。なんでも二百万で取引されたとか」
卜部はそれを聞くと、笑みをこぼしはしなかった。
「どうかされましたか?」
「いや、その値段で評価されたというのが納得いかんでな」
「そうですか? 高額で取引されたとお聞きしましたが」
首をかしげるように麗白は聞き返す。
「いや、そうではない。そのなんというかな……ネームバリューというんじゃったか? わしの名前だけが評価されて、刀自体の評価はされていない気がするんじゃ。先ほど作った刀に、わしはどうも魅了されん」
「魅了……ですか」
卜部の困惑した表情に、麗白はさらに表情を曇らせる。
「もう歳じゃし、勘も全盛期に比べれば翳りが見えてきている。それは作っているわしが一番わかっておるんじゃ。あと何本か作り上げ、満足のいかない作品じゃったら、いさぎよく引退するつもりでおるよ」
卜部の目は真剣であった。それを麗白はしっかりと捉え、刀工の気持ちを酌んだ。
「もっとも、もしかするとじゃが、あの刀を作ったことで、わしは満足しておったのかもしれん」
「…………なにか心当たりでも?」
卜部はゆっくりと麗白を見下ろす。
その表情は、なんとも晴れ晴れとした笑であった。
「もうだいぶ昔の話じゃがな、ある人から頼まれたもので、建前上は神社に奉納するための片手打ちを作ったんじゃよ。その刀を奉納する前、彼女から見せてもらった巫女神楽は見事なものであった」
その時のことを思い出すや、卜部は満足した笑みを見せる。
「それはまこと良きものだったのでしょう。私も見てみたいものです……ところでその刀はおいくらでお譲りになられたのですか?」
「金はもらっておらんよ」
それを聞くや、麗白は喉を鳴らした。
「ど、どうして?」
「話を聞いておらんかったか? わしは神社に奉納するための刀を作製した。そのような神聖なものに金を強請るわけにもいくまい。もちろん相手もそれなりに出してはくれたがな」
卜部はそう言いながら、ゆっくりと靴を脱ぎ、家の中へと入っていった。
それから二年後の七月一日。土曜日の昼下がりのことである。
福嗣町の近隣町にあるマンションの一室に、二人と一匹の賑やかな声が響き渡っていた。
「えっと、粉をお湯で溶かすんだっけ?」
そうたずねたのはエプロン姿の紗姫であった。
彼女の目の前にはちいさなボールがあり、お湯で溶かしたゼラチンの粉をダマにならないよう、丁寧に溶かしている。
その中に青の食紅をすこしずつ入れていくと、ボールの中は透明から水色へと変わっていく。
「紫ってどう作るんだっけ?」
「えっと、青と赤だから……遊火、ママさんに赤の食紅ないか聞いてくれる?」
リビングのテーブルで、紗姫と向かい合ったかたちで、おなじものを作っていた湊がそう遊火にお願いした。
彼女の手に持ったボールの中は、紗姫のものとは違い、緑色に染まっている。
「冷蔵庫に入っているみたいですよ」
そう言われ、湊は冷蔵庫がある台所へと入っていく。
「それから紗姫さま、夜空をイメージされているのなら、あまり青は入れないほうがいいそうですよ」
紗姫はそれを聞くや、手を止める。
「はい、持ってきましたよ」
湊が赤の食紅をテーブルの上に置く。
それを手にとった紗姫は、その色を自分のボールにゆっくりと入れていき、紫の色を作成していく。
「それにしても、さっき道で会った時にすこし手伝ってって言われた時はなにかなって思ったけど、これだったら勉強にもなるし、一石二鳥ね」
「明日のお昼から近くの子ども会で七夕会があるみたいで、先に公民館に集まった女の子が乙姫さまになって、彦星さまのために作るんだって。今日は試作品を作って、私たちでも作れたら、子どもでもできるんじゃないかって」
「……っ、それって私たちが不器用だって遠回しに言われている気がするんだけど?」
紗姫は納得のいかない表情で首をかしげる。
「『あはは、気のせいだよ。明日の七夕会は小学生がほとんどで、ちいさい子も来るから、あまり包丁を使わないやつにしようと思ってたの』」
ふたりの様子を見に来た皐月が、そう紗姫に説明する。
皐月の声が聞こえない湊には、遊火が口伝した。
「『それに、雅くんには七夕に必要な笹を近くの竹林から取ってきてもらっているしね』」
「あぁ、Rineで連絡があったけど、そういうことだったんですか」
紗姫がそう聞き返すや、皐月はすこし待ってほしいと言った表情で話を止める。
そしてエプロンのポケットに入れていたスマホを取り出すや、顔を険しくさせた。
「どうかしたの? ママさん」
湊が遊火を通じてたずねると、皐月は自分のスマホを湊たちに見せた。
そこにはRineのチャット画面が映されており、大宮からの連絡が入っていた。
『岡山県警からこっちに殺人犯が逃げたという連絡があった。そのことで午後五時くらいから会議があるから、もしかすると今日の夕食は一緒に食べられないかもしれない』
という大宮のコメント。それにたいして皐月は『わかりました。湊には遊火を通じて説明しておきます』と返していた。
「仕事だからしかたないですけど、でも岡山の事件なのに協力しないといけないんですね」
「『逃亡中の犯人が県を跨いで潜伏している場合、犯行が行われた場所の管轄から犯人の情報を受け取って、協力体制をとることが多いね』」
「でも刑事ドラマとかって管轄どうしでいがみ合っているイメージが」
紗姫は怪訝な表情で聞き返す。
「『それは否定できないけど、でも根本的なものは犯人を赦せないことだね。それだけはどこの警官も変わらないよ。紗姫さんが言っているのは他県の事件を横取りされたくないあまり、情報の相互をしないで事件解決をしようとするからそうなるんだよ』」
皐月の表情は、優しく説明しながらも、その双眸は険しい。
「『ただ福嗣署に協力要請が来たということは、岡山県警の刑事課も、犯人が潜伏しているという可能性を確信して話を持ってきたってことだろうね……』」




