捌
六月十四日。その日の午後三時、大宮と葉月は木枝総合病院に勤務している因幡享を警視庁福嗣署に、参考人として任意同行していた。
「まぁ、証言のためとはいえ、こんなところに呼び出してしまって申し訳ありません」
葉月がそう因幡に頭を下げる。
「いえ、話を聞くと一時間くらいで終わるようですな」
「ええ。先生のアリバイは完璧ですし、疑いようがありません。……堺真魚さんが殺されたことに関してはですけど」
椅子に座った葉月が、まっすぐ因幡を見据える。
「おや? それじゃぁ他になにかあるとでも?」
「ええ、先生は『HCN』という言葉に聞き覚えは?」
そう訊かれ、因幡はちいさくうなずいてみせる。
「ありますけど、それがどうかされましたか?」
「堺真魚さんの部屋を調べた時に、譲渡された薬があったんです。そのカルテを見ると鎮咳薬が入っていたんですよ」
それを聞くや、因幡の表情に陰りが見えた。
「そんな怖い顔をしなくてもいいですよ。私たちはあくまで堺真魚殺害の事件をしらべているだけで……先生が堺真魚に桃仁水を作って家でも服用できると教えていたとしても、そのような証拠はありませんでしたから。それに直接の死因は腹部を刺されたことですから」
「そ、そうですか」
因幡は安堵の表情を見せる。
「ただひとつ……事件当日の晩、現場から強い酸の臭いがした。……それで鑑識のほうで色々と調べたらわかったんですよ。部屋に撒かれていたのはクレゾールを含んだ消毒液だったんです」
「――なっ?」
「それで彼女の近辺を調べると、彼女は誰かからエロインという錠剤をいくらかで買っていたみたいですね。なんでもすぐに痩せるというバカバカしい言葉を信じて買う女子高生が多いらしいです」
因幡は葉月の言葉を聞きながら、顔を俯かせる。
「そのエロインで補導された少女がいると、生活環境課の人から聞きましてね。その子から押収した錠剤からその物質が検出されたんです。まぁ今から三年前の事件ですけどね」
葉月はジッと因幡を見据える。
「そ、それと今回の事件となんの関係が?」
「先生は病院で私ともう一人の刑事に話したことは覚えていますか?」
「…………」
「――堺真魚はそのエロインを誰かからもらっていたんじゃないでしょうか?」
「だけど彼女は刺されて殺さたのでしょう? 毒によるものだったら警察が気付かないわけがないじゃないですか?」
そう聞き返され、葉月はうなずいてみせる。
「ですが事件が発生するその時まで、服用していた身体に異変がなかったとしたら? これは実際にあった事件ですが、やせ薬と称して、クレゾールが入った容器を何人かに渡されていたそうです。そのうちの一人がそれを飲んでしまい倒れてしまった。命に別状はなかったようですが、犯人の女生徒は悪戯目的で、本当に飲む人がいるとは思わなかったと供述したそうです」
「…………まさか、わたしがそれを投与したとでも?」
「いえ、先生が直接やったという証拠はありません。ですが……『BFC』というデパートにある書店を使って、売買をしていたとしたら?」
それを聞くや、因幡の顔は険しくなる。
「ははは、もしかしてその中にそのエロインという錠剤の値段が書かれた紙が挟まれていたとでも?」
葉月はその問いにたいして、しっかりとうなずいてみせた。
「事件当日、堺將がデパートの書店で読んでいた本は平積みされていたもので、まずは一番上を手にとって読みますよね? だけどその時、一番下から二冊目を取って、本を読み終えたところで妙な動きをしていたんです。そして元の位置に戻してから二時間後に、同じ場所の本を読んでいた女子高生がいました。その子は周りを気にしながら本に挟まれた紙切れを手に取って、違う本のところ……その時はライトノベルが置かれている本棚の、やはり平積みされた本に指定された位置の本のあいだに紙切れを挟んでいました」
葉月はジッと因幡を見る。明らかに動揺している表情だった。
「ただ、これが先生がやったことなのかという証拠はありませんし、私は強行ですから、薬に関する取り締まりをする権利はありません」
「なら、なぜこのような話を? 私は真魚ちゃんのことで聞きたいことがあると呼ばれたんですよ?」
じれったいと言わんばかりに、因幡は表情を険しくする。
「……それじゃぁ聞きますけど、堺將さんと最後にお会いしたのは?」
「……えっ?」
予想していなかった言葉に、因幡は目を大きくする。
「そんなに驚くことですか? 妹が拒食症の疑いがあったことを兄が知らなかったとは思いませんし、そもそも妹の様子を見ていた彼なら、エロインの存在を、もしくは桃仁水に関して、先生から聞いていたという考えもあるんですが?」
「い、いや……そのようなことはなかったよ」
そう言いながら、因幡は葉月から視線を逸らす。
「今はクレゾールより善いものが使われていますから、病院で使用されるということはないでしょうけどね」
葉月は笑を浮かべる。
「まぁ、そういう話があったということです。それじゃぁここからが本題なんですけど……六月十一日の正午、先生は堺真魚の部屋にいませんでしたか?」
そう訊かれ、因幡は鼻で笑った。
「なにを言い出すかと思えば、いませんでしたよ。さすがに公私はわきまえていますからね」
「そうですね。ではHCNの話に戻しましょうか。桃仁水を進めたのは……先生ですよね。堺真魚に薬膳と伝えたんじゃないんですか?」
「それこそ狂言じゃないか。私がそれを伝えたという証拠はあるとでも?」
「彼女……岡山出身みたいですね。家からよく桃が送られていたとか。正直、岡山以外の人ってそんなに桃食べないんですよ。桃が送られてくるということは、それだけ種が溜まっていく。桃仁水を作るのにはうってつけだったんだと思います。ただ美味しくて良薬だという反面、危険なものだと、先生は敢えて教えなかったんじゃないんですか?」
「…………」
「桃の種子から作る桃仁水。アンズの種子から作る杏仁水。このふたつに共通しているのは、アミグダリンという物質が含まれていることです。毒というのは適度に摂取すれば、身体を治してくれる良薬であれば、ちょっと舐めただけで死に至る劇薬でもある。そのアミグダリンというのは、喉の痛みをなおしてくれる良薬ですが、青酸を作成する劇薬でもある」
「た、たしかに、アミグダリンは分解されれば青酸ガスが発生する」
因幡は表情を曇らせる。
「ですが、先程も言っているとおり、毒の検出はされませんでした。いやされなかった。堺真魚さんは拒食症になっていたから、食べても吐き出してしまう。だから毒が回らなかった」
それを聞くや、因幡はギョッとした。
「それで鑑識に、ベランダに干されたタオルケットを調べてもらったんです。するとなにが出たと思います?」
「い、いったい……なにが?」
「胃酸ですよ。あの車酔いとかで気持ち悪くなって口から食べ物を吐き出した時に、酸っぱい臭いが口の中で広がりますよね? あれはお腹の中で消化されていない食べ物と一緒に胃酸が吐き出されるんです。つまりタオルケットで拭きとったのはばら撒いた酢の物とかじゃなくて、吐き出した胃の中のものを拭きとったものだったんです」
「彼女が片付けていたんでしょう」
「そうですね。でもそれならどうしてタオルケットは洗濯されていないんですかね? これはあくまで私の想像ですが、彼女の部屋にあった洗濯機では洗うことができなかった。いやすることができなかった」
「…………っ!」
「先生、六月十一日の午前十一時前後、先生は会ってるんですよね? 妹の部屋にいた堺將と……」
「い、いや……会っていない。会っていないぞ? なにを言っている? そんな時間、彼は子どもたちと一緒に……」
因幡は葉月の顔を見るや、言葉を出せずにいた。
そこに坐っているのは、自分を食らうように見つめている鬼だった。
「子どもたちはちゃんと言ってくれましたよ。デパートの映画館で上映されている映画のチケットを先生からもらったって。それに堺將さんの会社に問い合わせをしたら、その日、午前中に来たというタイムカードなどの履歴はなかったそうです。つまり彼は妹の部屋に来ていたということになります……先生と今後のことを話すという約束で――――」
葉月はゆっくりと因幡の顔色を疑った。
そこには、呆然と立ち尽くし、言い訳を考えている人間の笑が浮かんでいた。
「それと、先生はたまに堺真魚の部屋に訪れ、一緒に食事をとっていた。だから冷蔵庫に入っていた作りおきは被害者のためではなく、先生のためでもあったわけです」
「だ、だが……將さんが様子を見に行っている。そのさいに食事として作り置きされていたと考えられるんじゃないか?」
「先生、私は最初に言いましたよね? 堺真魚さんが殺されたことに関してはって」
その言葉の意味が理解できず、因幡は苦痛に満ちた目で葉月を見る。
「つまり、彼女を殺したのは先生でも、ましてや兄である將さんでもない……彼女自身が、栄養失調によって朦朧とした状態で、台所に立ち、その時に立ち眩みをして気を失ったさい、倒れた時の衝撃でまな板に載せていた包丁が彼女のお腹に、刃を下にして落ちた。そう考えると、お昼時に亡くなっているというのが納得がいくんですよ。だから隣人は犯行が行われたと思われる時間、誰も目撃なんてしていなかった」
「……そ、それこそデタラメじゃないか?」
「その証拠に、彼女の胃の中には、なにも入っていませんでした。そして倒れている堺真魚さんを発見した先生と將さんは、彼女を置き去りにするように、嘔吐物を片付け、自分たちが利用していたことを悟られないように部屋を片付けた。ただし、彼女の部屋で洗濯物をすれば、その音で隣人が、あなたたち二人がいることに気付き、私たち警察にその時間、部屋に誰かいたということを証言する。そう思ったあなたは、あえて嘔吐物を拭きとったタオルケットを外に干すしかなかった」
葉月はジッと、因幡を見据える。
「そ、そんな……そんな証拠がどこにある?」
「あるじゃないですか。先生が最初からもっているやつ」
「わ、私が? どうして? いったいなにを?」
狼狽するように、因幡の表情は青褪めていく。
「あの時、先生に見せてもらったスケジュール帳、その中に『Liebe』という文字が頻繁に書かれていました。これはどういう意味なんだろうかって調べていたら……ドイツ語で愛を意味しているようですね。医者というのは、走り書きみたいにしてドイツ語を書くみたいですけど、そうじゃなくて、この愛という言葉に、先生がなにをしていたのかがわかったんです」
「い、いったいなにを……」
因幡は蒼白の笑を浮かべるしかなかった。
もはや彼のうしろにはなにもない。
ただの奈落しかなかった。
「R=H。化学物質名はアンフェタミン。通常『ラブ』と呼ばれている覚せい剤です」
それを聞くや、因幡の足元は粉々に崩れ、彼はその名のとおり、奈落の底へと突き落とされた。
それと同時に、取調室のドアが開き、二人のいかつい顔をした男性警官が二名入ってきた。
一人は長身の、いかにも頭のいいインテリチックなメガネを掛けたスーツ姿の刑事。
もう一人は短身の、小太りで、スーツを肩に掛けただけの、遊んでいるようにしか見えない男だった。
「すまないな葉月嬢。こんな面倒なことまでさせてしまって」
小太りの刑事が、ねぎらうように葉月の頭を撫でる。
「後はそちらにお任せします。犬里太三郎警部補」
葉月はそう言うと、スッと椅子から立ち上がり、部屋の隅へと待機した。
「というわけだ――因幡享。あんたを麻薬取締法違反の容疑で逮捕する。なぁに、証拠がないなんて言わせないさ。あんたが女子高生たちに売買していたエロインの物質にも似たようなものが入っていた。大方それを使って身体を売らせていたんだろうな――」
犬里が睨むように因幡を見つめる。
その目はまさに、カエルを睨むヘビであった。
取調室から出た葉月は、深呼吸をして心を落ち着かせていた。
「おつかれさま」
廊下の奥から声が聞こえ、葉月はそちらに目をやる。
そこにはアニラが紙コップをふたつ手に持っており、そのひとつを葉月に手渡した。
「ありがとうございます」
葉月はそれを受け取ると、ひとくち口に付けた。
「それにしても、やっぱりというべきかなんというべきか」
アニラが苦笑を浮かべる。その表情に、葉月は首をかしげた。
「湊さんが弁財天の真言を使って、妖怪の力を鎮めていたようだからね」
「そうなると今回の事件は……」
「妖怪の仕業とはいえないわね。三島という少年は因幡から薬の売り子をさせられていたみたい。ただ変なことをすれば目につくだろうから、あのような方法で売買をしていたみたいだけど」
「堺將は偶然それを知ったということですか?」
アニラは応えるようにうなずく。
「さっき彼にそのことを聞いたわ。事件当日、読んでいた本に挟まっていた紙には『MADA1G3K』という文字が書かれていたって。MADAという文字を入れ替えれば『ADAM』……アダム(R=CH3)という覚せい剤。3Kは一グラム三千円で売買するって意味だったんでしょう」
「本をへんなところから取っていたことに関しては?」
「あれはちょっとした癖というべきかなんというべきか。まぁようするに彼は潔癖症だったってこと。一番上だと多くの人が手に取っているだろうから、あまり触れられていないところを取っていたみたい」
葉月はそれを聞きながら、今回の事件において、いったい誰が犯人だったのかを考えていた。
「遺体を発見したにもかかわらず、通報をしなかったことから死体遺棄の容疑で逮捕はできるわよ」
アニラは視線を廊下の先に向ける。
葉月もそちらへと視線を向けると、そこには飯塚のすがたがあり、何者かと連絡を取り合っていた。
葉月はゆっくりと、飯塚のうしろを通り去るように近寄った。
「ええ、わかっています。先生が仰っていたとおりに。大丈夫、今の警察も使えない人間ばかりみたいですから」
そんな会話が聞こえ、葉月は怪訝な表情で、その場を後にする。
彼女もまた、あの時、月が大宮に忠告していた言葉を聞いていた。
――飯塚カスミに気をつけろ……か。
彼女が公安ということを隠していたことよりも、なにか違うことで注意をしなければいけないのではないか。
葉月は警戒するように、その場を立ち去る。
……葉月の気配に気付いた飯塚は、それこそ人間を莫迦にしたかのような歪んだ双眸を浮かべていた。




