漆
「皐月さん、ひとつ訊いて良いッスか?」
福嗣高校の部活棟の昇降口で靴を履き直していた皐月に、先に外へと出ていた雅が声をかけた。
「さっき、湊には聞こえていなかったスけど、妖怪に取り憑かれていたんじゃないかって、なにか心当たりがあったんスか?」
そう訊かれ、皐月はうなずいてみせた。
「普段は遅刻しそうでも味噌汁だけは飲んでいく湊が、ここ何日か朝はなにも食べなかったし、昼食と夕食を半分しか食べていなかった。それに例のことでちょっと気になっていたからね」
「気になること?」
雅が首をかしげ、校舎から出てきた湊と紗姫に目をやった。
「知り合いに姓田という刑事がいて、彼からエロインという薬を使った組織的犯行が行われている可能性があると、湊が入学したあたりから注意はするようにって言われていたの。そのエロインを所知していた福嗣高校の生徒から聞いた話だと、痩せ薬として売買していたみたいだって」
それを聞くや、雅は怪訝な表情を浮かべた。
「どうかしたの?」
「いや、そのエロインってやつ、オレも聞いたことがあるんスよ。クラスメイトからッスけど、女子がダイエットの話になると話題に出てくるって」
「それ、あたしも聞いたことあります」
雅の話し声が聞こえた湊がそう反応するや、雅はギョッとする。
皐月も、遊火を通して耳にするや、驚いたように顔を険しくさせた。
「ま、待ってよママさんっ! さすがにそんな危ない薬を使ってまで痩せたいなんて思ってないよ。ほら、ダイエットってよく話に出てくるし、その時にちょっと名前くらいは聞いたことあったけど、その薬がどこで手に入るかなんて知らないし、スマホはほとんどRineでやりとりしてるから、そんな変な勧誘があったら警戒するか、ブロックするから」
湊は皐月の表情に怯え、弁解する。
「どうせそういうのに限って、元からやばいものが入っていたりするのよ。良薬苦しって言葉があるでしょ? いい経験っていうのはたいていは苦い思い出なんだから」
紗姫があきれた表情で湊を見据える。
「…………」
「とりあえず、湊さまは今後ちゃんとご飯を食べて、しっかり運動すること。そうじゃなくても、今月の定例会をちゃんと演奏できるくらいには体力を付けておかないといけないんですよ」
遊火が皐月の言葉を口伝されるや、「わかってる」と湊はうなずいた。
「あれ? 勉強はいいんだ?」
紗姫は納得のいかない表情で首をかしげる。
「あぁ、それなら大丈夫。この前の中間テスト、全教科平均以上だったから」
湊が、さぞ当然といわんばかりに笑みを浮かべた。
「皐月さまと忠治さまの子育てにおける方針は、今できることをちゃんとやっていれば、怒ることなんてしないんですよ」
遊火が皐月の言葉をかわりに湊たちに説明する。
「今できることか……それじゃぁ湊は御飯をちゃんと食べないとね」
人をおちょくった口調で話しかける紗姫に対して、湊は怪訝な表情で見据えた。
「話を戻すけど、皐月さん、今回もし湊に妖怪が取り憑いていたとしたら、どんなのだったんスか?」
「そうね。結局湊は自分から無理な食事制限をしていたから、妖怪に取り憑かれていたってわけじゃないから良かったけど。もしこういった、不自然に食欲不振症になっていたとしたら、ヒダル神という憑き物に取り憑かれていた場合があるわ」
「――ヒダル神ですか?」
はてなと、紗姫は首をかしげる。
「取り憑いた人間に空腹感や飢餓を与える妖怪だね。ただ正直、今のヒダル神はある意味教訓をつかさどった妖怪みたいなものだけどね」
「それってどういう意味?」
遊火を通じて話を聞いていた湊が、キョトンとした表情で皐月を見据えた。
「ヒダルという言葉は、もともと饑いという餓えた状態のことを言うの。つまりヒダル神というのは、大昔に餓死などで亡くなった人の怨霊として考えられるわけ。今の日本では水くらいなら公園にでも行けば飲めるからね。お腹を壊すかどうかは別として、餓えるということはないんじゃないかしら」
「つまり食べ物を粗末にするなっていう教訓を持った妖怪っていうわけですか?」
皐月は雅の言葉に対してうなずいた。
「ダイエットをしてるって言うならしてるでちゃんと伝えてくれていれば、あそこまで怒らないし、協力もしてたんだけどね。これでも一応栄養士の資格持ってるから。お菓子専門のだけど」
皐月はちいさく笑みを浮かべる。
その表情はもう怒っていないといったもので、それは湊も理解していた。。
「雅、こんなところでなにやってるんだ?」
部活棟と本校舎の境目あたりから声が聞こえ、雅はそちらに目をやった。
それと同時に、皐月は不審な、不可解なものを感じたかのように、怪訝な表情を浮かべる。
「三島か? お前こそなにやってるんだ?」
「あぁ、ちょっとさっきまで女子と話をしていてさ。最近ようやく手に入れられたんだよ。ほら、一昨日くらいにお前に話してたやつだよ。あれ、結構手に入れにくくてさ」
三島は口角を上げ、ゆっくりと雅たちに近寄った。
「手に入れたって、なんかあったのかな?」
皐月がそう三島に声をかけた。
「…………っ? ええ、ちょっとねぇ。まぁ小母さんには関係のないやつだよ」
三島は皐月の問いかけを、さほど不審にも思わず反応する。
しかし、皐月の呪いとも言える奇病を知っている雅と湊、紗姫、遊火の三人と一匹は、一斉に皐月を見た。
その皐月は笑を浮かべながらも、獲物を窺うように険しい双眸で三島を見据えていた。
「もしかして、それってエロインとかいうダイエット薬じゃないかしら?」
「えっ? ええそうです。よくご存知でしたね……」
皐月の問いかけに三島は笑みを浮かべる。そして口角を裂くように、「噂くらいは聞いていたみたいですね」と皐月に向かって話しかけた。
「そうね。だけどあなた……さっきからなんであなたの声が聞こえているのかしら?」
皐月がそうたずねるや、三島は怪訝な表情で彼女を見た。
「なにを? 耳が聴こえないというわけではないみたいですけど?」
「ええ。耳が聴こえないっていう意味ではそうなんだけど、私って人の声は聴こえないんだけど、人じゃない声は聞こえるのよ」
皐月が笑を浮かべると同時に、ドッとなにかが揺れるように空気が変わった。
その瘴気に侵された雅たちは一斉に、崩れたように跪いた。
「な、なによこれ? なんでいきなり空腹感が?」
紗姫は三島のほうへと視線を上げた。そこには干からびた人ならぬものが立っている。
「い、いったい? これってどういうこと?」
「……っ! そういうことかよ、三島……お前がエロインに関する噂を広めていたってことか?」
雅は三島を睨むようにしてたずねた。
「……そうだ。しかし面白いものだったぞ? ちょっと簡単に痩せると嘯けばそれだけで話に飛びつこうとする雌狐どもの緊迫とした顔をみるというのは」
三島は歪んだ笑みを浮かべる。
「三島、お前それがなんなのか知っていてやってたのか?」
雅はゆっくりと立ち上がろうとするが、三島が指を鳴らすや、雅の足に痺れが走り、思うように立ち上がれずにいた。
それを三島は見下ろし、気味の悪い声で表情をゆるめる。
「知っていたさぁ。まぁいい実験材料になったみたいだし、こっちは万々歳だ」
三島は雅の頭を踏みつける。
「さて、ちょっと予定変更だ。お前をここで殺してしまったほうが、あの方の今後の活動に支障が出ないだろうからな。穢れた血を持っている亞人が――」
三島は気配を感じ、雅から離れるように跳んだ。
三島がいた場所が、まるで雷が落ちたかのように黒く焼け焦げている。
「くそっ! すげぇ腹が減って集中できねぇ」
雅は立ち上がろうとするが、疲労感に苛まれ、愚痴をこぼすのもやっとの状態であった。
「さぁて、そろそろトドメと行くか」
三島はゆっくりと身体を反らせる。その周りから一陣の風が吹き荒れ、雅たちを包み込んだ。
雅たちの身体は徐々に干からびていき、皮と骨だけになってしまう。
「死ねやぁっ……」
三島が雅の頭を潰そうと踏み込んだ一瞬、周りが、それこそ闇に飲み込まれた。
「なっ?」
驚き戸惑う三島は、逃げるようにうしろへと引き下がる。
その常闇に包まれている皐月たちは、中心にいる少女に目をやった。
そこには福嗣町の地主神である摩利支天……陽炎の姿があり、彼女はジッと湊を見つめている。
「摩李……ちゃん?」
「…………」
陽炎はジッと皐月と湊を交互に見つめる。
「お腹が空いて力が出せないなら、力を出さない方法をすればいい」
「ちょ、ちょっと待て! それじゃぁ、あいつに取り憑いた妖怪を地獄に送れないじゃないッスか?」
雅が怪訝な表情で陽炎に聞き返す。
「力を使わない……――っ! 湊っ!」
皐月は、陽炎が言いたいことに気付くや、湊を見据えた。
「……あれ? なんでママさんの声が聞こえてるの?」
皐月の声が耳に入っていることに、湊は震えた表情で皐月を一瞥する。
「ここは私の絶対領域みたいなものだからね。あなたにも皐月ちゃんの声が聞こえるようにしてるの。いちいち遊火が口伝してあげられるほど時間もないから」
陽炎がそう説明する。それを聞いて、湊はそれこそ狐につままれたように複雑な表情で陽炎を見やった。
「湊……あなたがこっちに来てから小学生の休みの時に、よく一緒に行った場所があったよね?」
「えっと、悟帖ヶ山の子安神社にある神楽堂っていう、楽器がいっぱいある場所。あたし、あそこで初めていろんな楽器に触れて、すごくたのしくて……」
突然、湊は頭のなかに誰かが囁く声が聞こえ、皆を見渡した。
「…………っ?」
その湊を陽炎は、優美な笑で見つめる。
「……あとは、湊ちゃんがイメージしたことをやってみて。大丈夫、この町に住んでいる神仏は人が大好きな変人ばかりだから」
陽炎の言葉を最後に、常闇が晴れていった。
「な、なんだったんだ、いったい?」
その様子を見ていた三島が、怪訝な表情で姿を表した雅たちを睨んだ。
「なにがあったのか知らないがっ! さっさと干乾びて死んでしまえよぉ」
三島は力を発揮し、瘴気を皐月たちにぶつけた。
「…………」
湊は跪きながらも、心を集中させる。
――あの時、誰かの声が聞こえた。私の名前を呼びなさいってっ!
湊の唇は、ゆっくりと……ある神仏を呼ぶ声へと変わっていく。
「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ」
その真言を唱えるや、湊の周りを水の羽衣が包み込んだ。
「なっ?」
三島は畏怖するように湊を見据えた。
そこには水のように清らかな羽衣をほどこした巫女装束をまとっている湊の姿があり、彼女の幽艶な表情を見るや、三島は言葉を失う。
いや恐怖に首を絞められていた。
湊はゆっくりと手に持った龍笛の吹き口に唇を添えた。
「……っ! や、やめろぉっ! やめてくれぇええええええっ!」
湊が奏でる優雅な音色を、まるで三蔵法師に戒められている孫悟空のごとく、三島は頭を抱え、のたうち回る。
その様子を、雅たちはなにが起きているのかわからず、呆然とした表情で見つめていた。
「……っ! 雅先輩、身体っ! 私たちの身体が元に戻ってるっ!」
紗姫が悲鳴にも近い声で雅に呼びかける。
皐月たちの身体は肉付きの善い元の身体に戻っていた。
「皐月さん、これってどういうことですか? それにさっき湊がつぶやいていたのって」
雅が怪訝な表情で皐月に問いかける。
「あれは弁財天の真言ね。真言というのは、簡単にいえば呪文みたいなもので、その神の真名をとなえ、神が持つ能力を借りることなの」
皐月は笑みを浮かべながら湊を見た。
――湊がもし真言を使うとしたら弁財天しかいないとは想っていたけどね。
「くぅそぉっ! やめろぉっ! この音をやめてくれぇええっ!」
「だけど、なんであいつはあんなに苦しんでるんですか? 私たちはぜんぜんなんともないどころか、力が溢れてきているのに」
紗姫が皐月にたずねた時だった。
「そりゃぁそうよ。だって湊が演奏している楽曲は『神楽』という、古代より伝わる神仏の怒りを鎮めたり、楽しませたりする曲だからね。つまり悪しき心を持ったものにとっては聞くに耐えられないものってことよ」
姿を表した毘羯羅が、そう雅たちに説明した。
「雅先輩っ! 今ですっ!」
湊の声が聞こえるや、雅はゆっくりと拳を構え、三島を見据えた。
「地雷の荒魂よっ! この者に取り憑いた邪鬼を祓いたまへ浄めたまへ」
雅の右拳が青白い龍を巻きつけるかのように雷を宿していく。
「ぐぅあはぁがはぁっ!」
苦しみに満ちた三島は口を大きく開き、食らうように襲いかかった。
「閻獄第五条十項において、病気で悩んでいる人に嘘をつき、私利私欲を得ようとしたものは『大叫喚地獄・唐希望処』へと連行する」
雅の一撃が、三島の腹部を突き破る。
それと同時に、三島の身体から瘴気が離れ、虚空より現れた霊符がそれを吸い込んだ。
「よっと!」
霊符と手にとった毘羯羅は、雅たちを見据える。
力を使い果たした湊は、元の制服姿に戻り、気を失うように皐月の胸元に倒れた。
「おいっ! 三島ァッ!」
雅は鬼の形相で三島のむなぐらを掴んだ。
「み、雅……、こ、これはいったい……どういうことだ? おれ、いったい」
今まで気を失っていたかのように、なにが起きていたのかわからずにいる三島は、困惑した表情で雅たちを見渡していた。
「んなぁことより、てめぇにエロインのことを話したのは誰かって聞いてんだ! あらいざらい全部話してもらうぞ」
雅の質問が理解できず、三島は戸惑った表情を見せる。
雅は今まであったことを三島に説明した。
「わ、わかった……話す。全部話す……俺に痩せ薬のことを話して、売れば金になるって持ちかけたのは……木枝総合病院の因幡っていう医者だよ」
「『ちょ、ちょっと待ってっ! それって忠治さんと葉月たちが調べている事件の関係者じゃない?』」
遊火に口伝されていた皐月が、ギョッとした表情で三島に声をかけるが、三島からは皐月が口をモゴモゴと動かしているように見えただけで、なにを話しているのか理解できなかった。
「話すだけムダよ。多分さっき皐月の耳に彼の声が聞こえていたのは、ヒダル神に取り憑かれていたからじゃないかしら」
毘羯羅の言葉に、皐月は納得がいかず片眉をしかめた。
正しくは『唐(人弁+希)望処』と書きます




