肆
大宮と葉月が警視庁福嗣署に戻ってきたのは、午後三時のことであった。
「堺真魚の部屋でお酢の臭いがしなかったかですって?」
鑑識課で作業をしていた月は、葉月を見ながら聞き返した。
「はい。隣の住民による話では被害者の部屋から酸味の強い臭いがしたと聞いています。酸性の洗剤か、もしくはそれに近いものがあったんだと」
「そうね、ただひとつ気になるものはあったわ」
「気になるもの?」
「洗濯物よ。今は雨が多い梅雨の時期で、部屋干しされた洗濯物はあったのだけど、タオルケットが一枚だけ、なぜか外のベランダの柵に干されていたの。雨で濡れるのにおかしいわよね?」
「たしかにおかしいですね、そんなところに干したら乾くものも乾かない……」
いやそうではない。犯人がわざと干したのだろうと葉月は思った。
「それにもしかしてだけど、お酢が入った瓶を落としてしまいそれを拭き取るためにタオルを使った可能性だってあるからね。その証拠にちいさなガラスの破片が見つかって今検視にかけてる。たぶんそれが証拠だと思うわ。それに死後七時間後に発見されている。それだと床に散らばった拭き取れていない水分は気化して臭いだけが残るだけよ」
それがわからなかったということは、事件より前のことなのだろう。
その証拠に、部屋には臭い消しの消臭剤が置かれていた。
「ありがとうございます月さん」
葉月は頭を下げると、自分の腕時計に目をやった。
「この時間ならお子さんも学校から帰っているでしょうから、すこし事件当日のことを聞けますね」
「そうだね。それでは失礼します月さん」
そう大宮と葉月が鑑識課をあとにしようとした時だった。
「あ、忠治くん」
月に呼び止められ、大宮はそちらへと振り替える。
「なんですか?」
「……飯塚カスミには気をつけなさい」
月はそう伝えるや、席を外すように鑑識課の奥へと引っ込んでいった。
大宮はそれを呆然とした表情を浮かべながらも、目で追いかける。
「どうかしたんですか?」
葉月が声をかけるや、大宮は驚いたように肩をすぼめた。
「い、いやなんでもない。それじゃぁ予定どおり堺將の家に行ってみようか」
大宮はキッと表情を険しくした。
鑑識課と廊下の敷居をまたぐと、ふたたび部屋の中を一瞥した。
そして月のうしろ姿を見ながら……
――飯塚カスミには気をつけろ?
と、頭のなかでつぶやいた。
午後三時四五分。大宮の車は堺將の家の近くに差し掛かるとエンジンを切った。
そして大宮と助手席に坐っている葉月はジッと、玄関を睨むように見つめた。
「岡崎たちの話では、子どもは小学二年生の兄と、年子の妹が一緒に学童保育に行く予定らしい。学校からあまり離れていないから、いちど学校から帰ってから行くみたいだね」
「学童保育か……あんまり馴染みがないなぁ」
小学校のころを思い出しながら、葉月は首をかしげる。
「いつも家に誰かがいたようなものだったからね」
そう言い返され、葉月は素直にうなずいた。
「中学の時は運動部に入ってましたから、よく帰りが遅くなってましたけど、毘羯羅とか因達羅が迎えに来ていましたから不安なんてありませんでしたよ」
「彼らは十二神将なのに人を見るのが好きだね」
大宮はためいきをつく。それを見て、たしかにと葉月は笑みをこぼした。
「……と、おしゃべりはここまでにして、兄妹が出てきた」
大宮にそう言われ、葉月は視線を堺將の家の玄関に向けると、そこには傘を差して出て行く幼い兄妹の姿があった。
「警部補、すこしあの子たちにお話することはできますか?」
「なにか聞きたいことが? それなら僕も一緒に」
「相手は子どもです。しかも最近叔母が亡くなったことを聞いているかもしれません。子どもというのは大人が想像している以上に繊細なんです。大丈夫、刺激だけはしませんから」
「……わかった。それじゃぁRineを通話状態にしたまま、あの子たちから事件当日のことを聞いてくれ」
葉月は自分のスマホを取り出すと、Rineを起動させ、大宮とグループ会話状態にする。大宮も同様にスマホを取り出した。
「それじゃぁ行ってきます」
葉月は車から降りると傘を差し、幼い兄妹へと歩み寄った。
「こんにちわ、すこしいいかな?」
葉月は柔らかい声色で堺將の子どもたちに声をかけた。
「誰? おばさん」
妹がキョトンとした表情で葉月を見つめる。
「バカ、知らない人におばさんって言ったらいけないんだぞっ! こういう時はおねえさんって言わないと」
兄が驚いた表情で妹を叱る。
葉月はそれを見て、「ダメだよ。大事な妹にすぐバカなんて言ったら」と逆に兄をなだめた。
「おばさんでもかまわないよ。それでちょっと訊きたいんだけど、昨日の朝、えっと……この前の日曜日の午前十時前に、君たちの家にある車を見かけたんだけど、お父さんたちとどこかに出かけていたの?」
そうたずねると、兄妹は呆然とした表情で葉月を見つめた。
「あ、あのね……昨日はお父さん仕事が忙しくて朝からいなかったの」
と妹が言うや、「ま、待ってよ、昨日デパートに出かけて、お父さんとそこで合流したじゃないか」と、まるで隠すように兄が言った。
「そう、楽しかった?」
葉月はそれに気付かないふりをしながら、質問する。
「うん、お父さんとお母さんとお兄ちゃんの三人でレストランに行って、そこでお子様ランチ食べたんだよ」
興奮気味に話す妹を見ながら、葉月はちいさく笑みを浮かべる。
「それはよかったね。でも、それだとあなたは家でお留守番していたのかな?」
葉月がそうたずねるや「えぇっ? 行ったよ一緒に」と、妹は頬をふくらませた。
「でもお父さんとお母さんとお兄ちゃんの三人でって言ったよね? それだとあなたは含まれていないってことになるんだよ」
そう説明したが、妹は首をかしげる。そして次第に意味がわかるや、「あぁっ!」と驚いたとも納得いったともいう複雑な表情を浮かべた。
「お兄ちゃん。その時、お父さんと合流したのは何時だったか覚えてる?」
「えっと、たしか映画を見たあとだったからお昼をすこし過ぎていたと思います」
「それはどんな映画だった?」
「『アヤカシ忍伝猫魂』っていうアニメ映画を見ました」
「お父さんとは映画を見終わったその後に合流して、一緒にお昼を食べたんだね」
そう訊かれ、兄はちいさくうなずいた。
「そうありがとう。車に気をつけて行ってね」
葉月は兄妹の頭を優しくなでた。
「それじゃぁね、おばさん」
「だからおばさんじゃないって」
兄妹は去り際に葉月に向かって頭を下げる。
葉月は兄妹が見えなくなるまで手を振り続けた。
それからしばらくして、葉月は大宮の車に戻り、助手席に坐った。
「家族間でのアリバイは意味がない証言だけど、もともとからアリバイがないということか」
「そうなりますね。ここらへんであの子たちがデパートと言って、映画館とレストランがあるお店は『BFC』というデパートです。たしか四階に映画館があって、一階にレストラン街がありますし、殺された堺真魚の家からそれほど離れていません」
「アニラさんたちにお願いして、事件当日あの子たちが来ていたことを調べてもらうか」
「映画館スタッフとレストラン街のスタッフに聞いてみたほうがいいですが、聞き込みは明日にしてもらったほうがいいかもしれません」
葉月はジッと堺將の家を見据える。
「……できれば、あの子たちに知られないようにしたいですね」




