弐
福嗣高校の体育館で、運動靴とフローリングの擦れた音がいくつも鳴っている。
「ほら、パスッ! そこでシュートッ!」
一年生女子がそこでミニバスケの授業をしており、少女たちの姦しい声が体育館の中で響き渡っている。
ゲームは前後半それぞれ五分に分け、四チーム総当り戦をしていた。
ふたつあるコートで同時進行をしていた。こうすればかぎりある授業時間で、すこし休憩を入れれば、計六試合を半分の時間で済ませることが可能である。
そのチームのひとつに湊の姿があり、彼女は仲間からのパスを受け取り、すこしドリブルをするや、すぐにボールを味方にバウンドでパスを送る。
いや、さきほどからそうしながら、あまり動こうとはしなかった。
「…………」
吐き気がする。さいわい眩暈をもよおすほどではなかったが、あまり動いていないにも関わらず、肩が息をしていた。
ジメジメする梅雨の季節ではあったし、もしかしたら急に生理がやってきて、体調が悪くなったのかと湊は考えていた。
それでも、周りに迷惑はかけられない。チームはひとりでも欠ければ不利になってしまう。それだけはなんとしても避けたかった。
負ければその後の試合は見学になるのだが、湊の、いや、母親から譲り受けた負けず嫌いな性格が相俟ってか、味方からのパスを受け取ると、彼女はちょうどゴールの下のちいさな円の中から、間髪入れずにシュートを放った。
ボールは綺麗に、籠の縁を回ることなく、ストンと籠から落ちた。
湊は壁に寄り掛かるようにして座り、勝利した二チームの試合を目で追っていた。
結局、そのスリーポイントのゴールはイタチの最後っ屁にもならず、湊のチームは負けてしまう。
湊は体育教師に一言、すこし休みますと言って、今に至る。
「あの、湊さま……」
湊の頭上を浮遊していた遊火が心配そうに湊を見下ろす。
「ご気分が優れないようですけど、大丈夫ですか?」
「……あぁ、大丈夫、大丈夫。ちょっと考えごとをしてただけだから」
湊は笑みを浮かべる。その笑みを見て、遊火はさらに不安げな表情で湊を見つめた。
遊火は、それこそ湊が生まれたころからずっと一緒にいる。いうなれば姉妹のような、気の知れた関係であった。
だからこそ、遊火は、湊の母親である皐月とおなじで、人に心配させまいと、無理に元気だと振る舞っているように思えてならなかった。
「そういえば、今日も朝食を食べませんでしたね」
「えっ? あぁ最近食欲ないし、遅刻になりそうだったから。もちろんママさんの料理が不味いなんてことはないよ。ただちょっとね」
そう言いながら、湊は自分の横っ腹を摘んだ。
「無理だけはしないでくださいよ」
「無理なんてしないって」
湊は遊火に向かって、笑みを浮かべる。ぎこちない笑みだった。
「うし、こんなもんかな……」
校舎二階にある窓のサッシに座りながら、雨の降り注いでいる外へと身を乗り出してた雅は、壁伝いに貼られている雨樋を手で掴み、ゆっくりと揺する。外れないことを確認すると、手に持っていたドライバーを、作業を見ていた海部川康平という三十代の男性教師に渡した。
「すまないな雅、無理なことを頼んでしまって」
「いやこれくらいいいッスよ。まさか雨樋の面が破れていたなんて思いもしませんでしたから」
雅はそう言いながら、座っていた窓から降りた。
「雨樋も古くなってきているからな。この前のゲリラ豪雨で石が飛んできてヒビが入っていたみたいなんだ」
その石は小石であったのと、また外に誰もいなかったことから人身事故にはならなかったが、たとえ小石でも突風で飛ばされれば凶器となる。
「それでその敗れた箇所を変えたってことですか。簡単に取り外せたから良かったッスけど、ヘタしたら全部変えるハメになっていたッスよ」
湊が窓を閉めた瞬間、カッと遠雷が光るや、先程よりも激しい雨が降り始めた。
「運が良かったのかねぇ」
雅はドライバーや工具を海部川に渡す。
「でもこれって業者がやることじゃないッスか?」
「そうだな。しかし変えるのは一箇所だけだ。業者に頼めばそれだけでもお金が支出される。それなら学校内で終わらせたほうがいいだろう」
海部川は雅に向かって口角を上げる。
「まぁこっちはバイトの許可をもらってる御礼もあるから文句は言えないッスけど」
雅はためいきをつくように言うと、その場を後にした。
雅が二年四組の教室に戻ったのは、ちょうどお昼休みが終わろうとしている十分前のことであった。
教室を見渡すと、ほとんどの生徒は昼食を終えて、各々用事で教室を出て行っているのか、とにかく生徒の数が疎らである。
雅は机の横にかけている鞄から弁当箱を取り出し、五分で平らげた。
「雅、今戻ってきたのか?」
クラスメイトの三島という男子生徒が、雅の机の前にやってくるやそう声をかけてきた。
「あぁ、今昼飯をすませたところだ。お前はどこに?」
「食堂だよ。ここ最近雨で弁当を食べるなって母さんから言われててな、まぁ梅雨を言い訳のネタにして、自分は楽したいんだろうよ」
「なはは、まぁ食堂があるだけまだいいじゃないか。だけどたまには休ませてやれよ。オレ一人暮らししてるからわかるけど、弁当の用意をするだけでも結構大変だからな、ローテーションとか、いろどりを考えたり、肉ばっかりじゃなくて野菜とかメニューも考えないといけないからな」
「雅、お前その年でもう主夫か?」
三島はあきれた表情を浮かべる。
「別に好きでやってるだけまだいいって。その分朝早く起きないといけないからな」
「それにしても聞いたぞ、この前の中間テスト良かったんだって? お前見た目によらず頭いいのな」
「それってどういう意味だよ?」
雅はムッとした表情で聞き返す。すこし怒りを見せたが、さほど怒りを覚えてはいなかった。
「バイトや家事をして、それで赤点を取らないんだからすげぇよ」
三島は教室を見渡す。
「それでさ、ちょっと最近女子が噂してるんだけどさ、『エロイン』って聞いたことないか?」
そう訊かれ、雅は首をかしげた。
「いや知らないけど?」
「そうか、コンビニでバイトしてるお前なら人伝で耳にしてると思ったんだけどな」
三島は当てが外れたと言った表情でうしろ髪をかく。
「そのエロインがどうかしたのか?」
「いや、俺もあまり詳しくは知らないんだけどさ、どうも女子がダイエットの話になると頻繁に出てくるんだよ」
三島はそう言うと、自分の机へと戻った。
――エロインねぇ……。
雅は気にはしつつも、深くは考えず、頭の隅に置くだけだった。
このエロインという単語が、今大宮たちが調べている事件と関わっていることに…………。




