漆
翌日の六月八日午後二時。警視庁福嗣署の取調室に、波渡崎の姿があった。波渡崎は机に座っており、その対面に座っているのは岡崎である。
「事件があったその日、たしかに俺は宗方先輩の手伝いをしていました」
「へぇ、どんな実験をしていたんだい?」
「そんなたいしたことじゃないですよ。ちょっとした害獣駆除の秘密兵器を作るためです」
「金網に電流を流すやつだっけ?」
「ええ、でも目に見えるやつじゃないんですよ。その金網を鉄線にして、薄く地面に埋め込むんですよ。ほんの一アンペアに満たない微弱な電気を流すんです。人は靴を履いていますからそれに気付きませんけど、野獣の足は素足ですから驚いて逃げてしまうという寸法です」
「そうかい。それじゃぁ、その日はその実験を?」
「ええ。ほら静電気実験ってあるでしょ? ビニール製の棒をタオルで擦って電気を滞納させるやつです」
「なるほど、それを足元に置き、素足でそれを踏んだのか。さぞ痛かっただろうね」
「いやいや、痛いって話じゃないですよ。心臓が止まるかと思いましたよ」
「そうか。ところで、キミは事件当日午後三時から午後三時五分のあいだ、実験室を出入りしていて、午後三時十五分に実験室に戻っている。その十分間はなにをしていたんだい?」
「えっと、たしか宗方先輩から飲み物を頼まれ、それを買いに行ってたんですよ」
「そうかい? 大学の廊下に設置されている防犯カメラではなにも持っていないように見えたけどね?」
「あはは、買ったジュースは箱のやつだったんですよ。それだったらポケットに入っていても可笑しくないでしょ?」
「そうか。それから午後三時二五分頃に山岡准教授が実験室の前を通っているのだけど、それには気付いたのかい?」
「え? ええ……知ってますよ」
「……それじゃぁ、それから実験室を出たのはいつだい?」
「えっと、いつだってかなぁ――」
「出ていないよな? 防犯カメラではキミが出たというのはなかったんだ。僕たちがその映像を見た時、実験室から段ボール箱が運び込まれていた。それを小池璃奈が運んでいた|んだ。あれにはなにが入っていたんだい?」
「えっと? そんなたいしたものじゃないですよ。実験に使用した材料の残骸といいますか」
「そうか……ところでひとつ質問していいかな?」
「えっ? なんですか?」
「――実験室では強い電力を使う危険な実験をしていたようだね。そうなると学校側としては防犯上、実験室にも防犯カメラを設置していたんじゃないかい?」
「……え、ええ。もちろんしていましたよ?」
「その時の映像を見せてくれるよう、今大学側にお願いしている。まぁそれに気付かなかったこちらにも落ち目はあるのだがな」
「ははは、それを見てどうなるんですか? 宗方先輩が殺されたのは、刑事さんたちの話だと午後三時半から午後四時のあいだだと聞いています? その時間で、もっとも怪しいのは小池璃奈だけでしょう?」
「……たしかに、普通はそう思うだろうね。だけど部屋に電気が点いていなかったらどうだい?」
それを聞くや、波渡崎の瞳孔がほんの一瞬だけ強く開いた。
「部屋に電気が? バカも休み休みに言ってください? あの実験室にはセンサーが点いていて、部屋に入ろうものならそれに反応して部屋の電気が点くようになっているんですよ?」
「それに山岡准教授が噛んでいたとしたら? 彼だったら警備員の目を盗んで、部屋のセンサーを切ることだってできたはずだ」
「そ、それこそバカバカしい。山岡先生は事件当日は神奈川にいたんですよ?」
「だけど午後二時から四時のあいだ学校にいたという目撃証言もあるし、警備員と話をしている」
「だけど、山岡先生がこの事件となんの関係が?」
「彼は宗方に脅されていた。もちろんキミもね。キミは彼と婦女暴行をしていたみたいだね」
「…………っ」
「だんまりか、まぁそうだろうね。それにキミはかなり宗方から金を貸していたようだな。人付き合いにお金がかかるのは致し方ないことかもしれないけど、貸す相手を選んだほうがいいね。キミがやってきたことを、もっとも知っている人物に貸すなんて」
「…………っ」
「そうそう。山岡准教授は今回の事件で、キミに協力したことを認めているよ」
それを聞くや、波渡崎はギョッとする。
「とはいえ、キミにお願いされたのは、事件当日の午後二時から四時までのあいだ、つまり午後三時ごろに実験室の前を通ってほしいというだけだった。それから警備室にいる警備員にこう云うようにともお願いしていたそうだね」
「そ、それってなんのことですか?」
「『蹴り上げられたくなければ言うとおりにしろ』」
「……っ!」
「これを聞いた時、なにを言っているのだろうかと俺たちは思ったよ。最初は抵抗しようとすればという暴力行為を意味しているのだと思った。でもね、それなら殴られたくなければでもいいんだよ。なぜキミがわざわざそれをお願いしたのか……」
岡崎はカッと目を見開き、机を叩いた。
「お前と宗方はどこまで鬼畜なんだ? 蹴るというのは警察の隠語で強姦を意味している。つまりそれをすぐに気付いた警備員は、そのことがバレたくないがために、お前の命令に従うしかなかったんだ」
「ちょ、ちょっと待ってください! 警備員っていったいなんのことですか?」
「大学の電気回路を監視しているのは警備員以外になにがいるんだい?」
「――……っ」
「答えられないか。いや応えられるはずがないな。なぜならお前たちは――」
「うあぁああああああああっ!」
「まだ落ちるな」
「……っ」
「まだ落ちるなと言ったんだ。お前は一度、いやこれはこっちの捜査の甘さだが、宗方はお前のことをよく知っていた。親が代議士だったことで、かなり裏で金を使っていたらしいな。だから警察はお前を捕まえることができなかった」
「…………」
「だが、それと同時に宗方にとっても格好の餌だった。キミを脅せばいくらでも金が出る。親が選挙費用として処理すればいいし、五万くらいのすくないお金なら、会議費とかにして処理すればいいしね」
「…………」
「キミはあの時間、いったいいつ部屋を出たんだい?」
「――えっ?」
「いやだから、午後三時十五分に実験室に入ったあと、いったいいつ実験室を出て行ったんだい?」
「あれ? 刑事さん、ちょっと待ってください? 俺は……」
波渡崎はゾッとする。そして岡崎の顔を窺った。
「どうかしたのかい? まさか自分が出た時間がわからないとでも言うのかな?」
「えっ? えっと……」
「いつかわからないよね? なにせ部屋の中は真っ暗で、宗方を気絶させたあと、ダンボールの中に入っていたんだから」
「…………」
「そのダンボールは警備員が運んだそうだ。中は見ず、カートに乗せたまま運んで欲しいと言われたそうだ」
「お、重みとかでバレないんですか?」
「そう考えるからこそ、キミはダンボールをふたつ用意したんじゃないか? 警備員はカートに乗ったダンボールを運んでほしいとお願いされ、それを運んだ。中に五十万ボルトを発生させる装置が入っていると思っただろうね」
波渡崎は睨むようにして、岡崎を見つめる。
「でも刑事さん、たとえそうだとしても、直接宗方先輩を殺したのは小池じゃないんですか?」
「……だが彼女には宗方を殺す動機がない」
「動機ならあるじゃないですか? あいつ顔がおかしいですから」
「そうかい? 写真を見たけどなかなかの美人じゃないか。あの顔でも明るく生きようとしている。立派なものだよ」
「俺は、あいつに利用されたんですよ? いや同じ穴の狢だ。あいつはガキのころは万引きの常習犯だった。その時のことも知っていたんですよ。あいつが同じ大学に通っていることを知った時はビックリしたな。あんなのでも大学に行けるんだなってねぇ」
「…………そうかい? それじゃぁキミはもっとバカだな」
「なっ? ちょっと待ってくださいよ? 今のは暴言ですよね? ちょっと、この取り調べってちゃんと録音してるんでしょ? 今のは訴えてもいいんじゃないんですか? こっちが本気になれば優秀な弁護士に――」
「人を見た目で判断するなよ? 微温湯に浸ってノウノウと生きてるだけのおぼっちゃまくん」
ジッと、岡崎は波渡崎を見つめる。その目は獲物を逃さない獣の目だった。
「彼女はいま別室で取り調べを受けている。彼女が素直に犯行を認め、お前との共犯だと認めるのも時間の問題だ」
そう岡崎が言った時だった。
「――失礼します」
そう言って、取調室に入ってきたのは葉月だった。
「岡崎さん、ちょっと……」
葉月は岡崎に耳打ちをする。
「……そうか。しかし結構早かったな」
「はい。彼女は自分のしたことを後悔していました。彼女の気持ちを考慮して、決定的になるものを説明し、彼女の証言と噛み合わせをしているところです」
「お、おい……ちょっと待ってくれよ? まさかあいつ口を割ったっていうのか?」
波渡崎はオドオドとした表情で、岡崎と葉月を見る。
「ああ、今し方のことだが小池璃奈は事件に関与したことを供述した。そしてお前と共犯だということを説明しているらしい」
「ふ、ふさげるなぁっ! お前らぁ、相手を見て話せよ? こっちはなぁ優秀な弁護士がいるんだ。それに俺のおやじは代議士だぞ? お前らみたいな公務員、いつだって馘首にできるってこと――」
波渡崎は喉を鳴らした。岡崎と葉月、そして書記をしている警官の、六つの瞳が、いっせいに波渡崎を見ていたからだ。
「やれるものならやってみなさい。そんな子供だましにピクピクしてあげるほど、私たちは暇じゃないのよ」
「お、俺が悪いわけじゃないぞ? そうだっ! あいつが最初から考えていたことだ。俺はその手伝いをしただけだ」
「でも殺したことに変わりはないわよね? いま、鑑識に実験室の防犯カメラを調べてもらってる。これにあなたがどうやって宗方を殺したのかがわかれば、あなたがやったことの証拠になるのよ」
「証拠? いったいなにを云ってるんだ? 部屋は電気が消えていて見えない。そうなればどうやって宗方を殺すことができる? それに死因はショック死だろ? どうやってショック死にするんだよ? 現場の近くに千枚通しがあって、それを使ったなんて言うんじゃないだろうな?」
「ええ。そうだけど?」
葉月は首をかしげる。それを見て、波渡崎は怪訝な表情を見せた。
「最初、それを使って刺殺したのなら、血は針全体にないとおかしいの。だけど血はほんのちょっとしかなかった。これは胸に穴を空けるためだったんじゃないかと思う。そしてその穴から動線を入れる。銅線の先が心臓に触れたのを感触で確認すると、あなたはその銅線をスタンガンの先につけ、スイッチを入れた」
葉月は両手をパンッと叩く。その乾いた音が取調室の中に響き渡ったが、波渡崎にとっては、銃でこめかみに撃たれた衝撃を感じた。
「銅線なんて電気の実験をしていればその場に転がっていてもおかしくないし、スタンガンならポケットに入れていてもあやしまれないわよね?」
「…………」
「言い訳はないか……それじゃぁ逮捕状を出さないとな。波渡崎孝和、お前を宗方殺害、及び脅迫の容疑で逮捕する」
「……ちょ、ちょっと待ってくれ? 小池は? 小池はどうなんだ? 部屋に入ったのは俺だけじゃない。あいつだって部屋に入っているじゃないか」
「そうね……たしかに小池さんは午後三時五五分に実験室に入っている。だけど、なんでそれを部屋にいないはずのあなたが知っているの?」
「…………っ」
「答えは簡単。暗視ゴーグルを使って、部屋の様子をダンボールの穴から見ていた。それから宗方の身体から睡眠薬が検出されている。いつ飲まされたかはまだわからないけど、たぶんジュースを飲んだ時でしょうね。聞いた話だと宗方は風邪をわずらっていたみたいだからね。よく効く薬だって言って飲ませたところでしょうね。そして小池さんが実験室に入るタイミングを見計らって犯行を実行した。いやそれよりも前に、小池さんが実験室に入る五分前に宗方を殺した。銅線ならいくらでもあるし、ドアの近くにダンボールを乗せたカートを置いて、その中からスタンガンを放った。そして銅線を回収し、警備員がそれを運ぶのをジッと待ち、その場から怪しまれない状態で逃げ出すことができた。小池さんがやってくるよりほんの五分前にね…………」
葉月はちいさく息をつき、波渡崎を見やった。
その波渡崎はジッと地面を見つめている。
「……くそっ!」
波渡崎はジッと、岡崎と葉月を睨むだけで、それ以上は言わなかった。言葉を発しないことは認めたのと同等を意味する。
「それではこれから上に報告して、波渡崎孝和の逮捕状を出してもらうよう報告してきます」
葉月はそういうと、取調室を後にした。
薄暗い廊下を歩き、ようやく明るい光が見えるや、
「こ、怖かったぁ…………」
と葉月は胸を押さえながら、壁に寄りかかった。
――まさか、あんな簡単な嘘で人が騙せるなんて思わなかった。
葉月は天井を仰ぎ、昨夜瑠璃に言われたことを思い出す。
いや、その言葉を確信させるように、わざとやったのだろうと思ったのだ。
――こういうのを囚人のジレンマって言うんだっけ? そもそも小池さんは共犯者でもなんでもないのに、波渡崎は彼女を巻き込んで自分が助かろうと想っていたんだろうなぁ。
葉月はそう考えると、近くのベンチに腰を下ろした。
岡崎は波渡崎を混乱させるため、まず、ダンボールを運んだのが小池だと言う。そして次に運んだのは警備員だと言った。
波渡崎はまずこのちいさくも大きな違いに気付くべきだったのだ。
なぜなら、彼は本当に誰が運んでいたのかを見ていないからだ。
そもそも、岡崎はいつダンボールを運んだのかを最後まで言わなかった。
最初にダンボールを運んだのは小池だと言う。そしてダンボール箱の中には実験で使った材料が入っていたといえば、警察はそれを調べたと波渡崎は思う。
その次に警備員が運んだといえば、波渡崎が前もって脅していた警備員が命令通りやったのだろうと思ったのだ。
それがまず罠だということにも気付かずに。
葉月もそれをわかっていた上で、別室で小池を取り調べているという嘘を言ったのだ。
自分が助かるためならば、無実の人間すら利用しようとした波渡崎を黙らせるために…………。




