壱
『否哉』
『異爺味』とも称される。うしろすがたは美人そのものであるが、素顔は爺という奇っ怪な妖怪。相手を驚かせるだけで特にそれ以上のことをするわけでもない。言い換えればのっぺら坊みたいなもの。資料によれば、それに驚いた小僧がばら撒いた米の代金を与えたという節があるため、見た目と違いやさしい一面がある。
福嗣駅前のセンタービルの壁に電子掲示板がかけられており、日付と時刻、そしてその時刻から前後三時間の天候が表示されている。
そこには『六月五日(月)・午後七時五二分・大雨』と表示されていた。
その日は二十四節気(陰暦で、太陽の黄道上の位置によって定めた季節区分)でいう芒種に位置しており、暦上では梅雨の時期を意味している。
その暦の通りというわけではないが、偶然にもその日は夕方あたりから、まるで貯水槽のタンクが破裂したかのように激しい雨が降り続いていた。
「あぁ、なんて日だよ。傘を盗られるとか有り得ねぇだろ?」
そんな土砂降りの中、千羽昌平という高校二年生が、嫌悪な表情で走っていた。
学校帰りに買い物によっての事だった。店を出たさいに、傘立てに入れていた自分の傘を何者かに盗られていることに気付き、急いで近くのコンビニでビニール傘を買おうと思ったのだが、このあまりに非常識な雨音に傘の購入者が殺到してしまい、在庫がなくなっていたのである。
よって、千羽昌平は傘を持たないまま、福嗣駅のほうへと走っていた。
ふと目の先を見ると、傘を差した大学生ほどの女性のうしろすがたがあり、千羽はどうしてこんな時間にと疑問に思った……のだが、早く帰りたいという気持ちが先立って、素通りしようと足早に進み出した。
その女性と擦れ違う直前、うしろから見ればなんとも見惚れるほどに憂いのあるうしろすがただったため、千羽が女性の顔を確認しようした時だった。
「……っ!」
その女性の顔を見るや、千羽はおののき、一歩うしろに退いた時だった。
劈く音が千羽の耳を突き刺し、その場には――血溜まりと肉塊ができあがっていた。
それからすこし前の、夕方を報せるチャイムが町の中で響きわたっていた頃であった。
「もう、最悪ぅっ! 教科書とかノート全滅とか有り得ないってぇっ!」
と、稲妻神社の母屋の玄関で湊の悲鳴が響きわたる。
「だ、大丈夫? 湊ちゃん」
オドオドとした表情で、秋玲は手に持ったタオルを湊に渡すと、湊はそれを使って自分の体を拭き始めた。
「シャワーだったらすぐに使えるから入ってきたら? 着替えとかは私のを使えばいいし、制服も乾燥機で乾かせば大丈夫だろうから」
「ありがとう。でも教科書とかどうしよう」
そう湊が肩を落としていた時だった。うしろの、玄関の引き戸が開く音が聞こえ、湊と秋玲はそちらへと視線を向けた。
「あぁもう、さすがにこれはひどいわ。せっかくセットしたのに髪の毛がグッチャグチャ」
入ってきたのは聖子であった。
「あぁ、お帰り聖子……ちゃ……んぅぅっ?」
帰宅した妹に声をかけようとする秋玲の声が、次第に途切れ途切れになる。次第には正体である白狐の特徴ともいえる黄金色の耳と尻尾を出してしまい、毛立たせたように身体を震わせた。
「……ッ!」
湊も聖子の顔を見るや、青褪めた表情で声を殺す。
「――っ? どうかしたの? ふたりとも」
二人の、まるで世にも恐ろしいものを見るような雰囲気に、聖子は怪訝な表情で首をかしげた。
「しょ、聖子おばちゃん、ちょっといいかな?」
湊はそう言うと、鞄の中から折りたたみ式の鏡を取り出し、聖子にそれを見せた。
「私の顔がどうかし……――えっ?」
自分の顔を見るや、聖子は言葉を失う。
そこには、まるで殴られたかように紫色のアザが、それこそ爛れたような形で目元にあり、見ようによっては、四谷怪談のお岩である。
「ちょっとなにこれ? なんか帰る時に擦れ違う人がおののいたり、子どもが突然泣いてたりしてるなって思ってはいたけど」
「しょ、聖子おばちゃん、帰りになんかあった? 雨で濡れたにしてもこれはちょっと酷いんじゃない?」
湊にそう訊かれ、聖子はすこしばかり考える素振りを見せる。
「あっと、たしか大学を出てしばらく道端を歩いてたら、車が近くを擦れ違って。たしかあそこってちょっとしたくぼみがあって、そこに水がたまっていたのか、それに車のタイヤがハマって水しぶきを思いっきり顔にかけられて……」
それが理由だろうなと、湊と秋玲は思った。
水しぶきでメイクが落ちてしまい、それに気付かないまま歩いていたため、皆が驚き恐れていたのだと。
聖子はハッとした表情で、湊からバスタオルを、それこそ奪うようにとるや、自分の顔の汚れを拭きとった。
「そういうのって、化粧落とし使うんじゃないかなぁ」
湊はあきれた表情で聖子を見遣る。
「白ねぇ、お風呂使える?」
「えっと使えるけど、先に湊ちゃん入らせたほうが……」
「あぁ大丈夫。女の子同士なんだし、一緒に入れば一石二鳥でしょ」
聖子はそう言うと、湊の背中を押しながら、脱衣所へと消えていった。
それをあきれた表情で見送りながら、秋玲は廊下に置かれたままの湊の鞄に目をやった。
それを手に持つや、ボタボタと染み込んだ雨水が廊下に滴り落ちている。
「うわぁ、だいぶ降ってるんだなぁ。瑠璃さんの言う通り、洗濯物を午前中にしといてよかったかも」
そう呟きながら、秋玲は湊の鞄と靴を居間へと運び込んだ。
靴を裏返しにしてちゃぶ台の上に置き、鞄を教科書やノートなどの書物を取り出す。
「っと、その前に新聞紙敷いたほうがいいかな」
そう考えるや、居間の隅に重ねられた古新聞紙を畳の上に広げ、その上に教科書とノートを見開きにした状態で並べていく。
秋玲は並べられた書物と靴、鞄の前に立つや、左手の人差し指と中指を建てるように拳を握ると、虚空に五芒星を切った。
すると彼女の周りに、ポツポツと火の玉があつまり、ゆっくりと湊の所有物の上空に集まっていく。
その鬼火は陽火であり、触れればたちまちに火傷を負ってしまう。 それとは対照的に、触れても無害である陰火もあるのだが、それでは熱波によって乾かせるということができない。
かなりギリギリに陽火を近づけているため、術者である秋玲は、純粋に白狐の力を持っていたとしても、まだ百年余りしか生きていないため、その力加減をコントロールするために集中せざるを得なかった。
「うふぃ~っ」
それから十分ほど経って、あらかた書物などが乾いたことを確認すると、秋玲は出していた鬼火を消し、その場に腰をおろした。
「お疲れ様です。後は自然に乾くのを待つしかないでしょう」
うしろから声が聞こえ、秋玲はそちらを一瞥する。
そこには障子戸を半分開けた状態で、中の様子を見ていた瑠璃の姿があった。
「おかえりなさい。お母さん」
「ただいま秋玲。それにしても近年稀に見るくらいに酷い雨ですね。用心のために用意していた傘も、役に立ったものじゃないですよ」
瑠璃はそう言いながら、買い物袋をちゃぶ台の上に置き、自分の肩をマッサージする。
「それだったら車で帰ればよかったんじゃないんですか?」
「そう考えたんですが、タクシー乗り場に車もなかったようですし、営業所のほうも窺ってみましたが、ほとんど出張らっていたみたいですね」
瑠璃はそう説明すると、買い物袋からいなりずしが六個入ったパックをちゃぶ台の上に出した。
それを見るや、秋玲の表情は満面の笑に浮かべると同時に、乾かしていた湊の所有物をそっちのけに、ちゃぶ台に身を乗り出した。
「慌てなくても、そろそろ夕食の時間ですからね。それにしてもすぐに止みそうにないですし、いちおう忠治くんに連絡して、帰りに寄ってもらいましょうか」
瑠璃はポケットからスマホを取り出すと、大宮に電話をかけた。
「もしもし、瑠璃さんですか?」
「ええ。すみませんね忙しいのに、今日は定時どおりに帰れそうですか?」
「ええ。一応は大丈夫ですが」
「それなら、ちょっと帰りの際に稲妻神社に寄ってもらえませんか?」
それを聞いて、電話先の大宮は首をかしげる。
「どうかしたんですか?」
「今、外が激しい雨になってますよね? それで湊が、それこそ遣らずの雨を食らっていまして、教科書やノートなんかも濡れてしまって今こちらで乾かしているんですよ」
瑠璃から状況を説明され、「わかりました。それじゃぁ湊には七時くらいに迎えに来るからと伝えてください」
そう返事を返したが、大宮はふと思い出したように、
「……っと、皐月にはそのことを連絡したんですか?」
と聞き返した。
「そういえば連絡してませんでしたね。後でこちらから連絡しておきます」
「そうしてもらえると助かります。それからすこし瑠璃さんに助言をもらえないかと思っている事件がありまして」
「わかりました。要件はその時にでも。それでは待っていますね」
瑠璃が電話を切った時だった。
母屋の呼び鈴が聞こえ、秋玲が玄関へと足を向ける。
そこにはレインコートを羽織った皐月の姿があり、秋玲は首をかしげた。
「こんばんわ、白蔵主」
「あれ? 皐月さん?」
目の前の皐月を見るや、秋玲は首をかしげる。
「……どうかしたの?」
秋玲の様子に、皐月は怪訝な目でたずねた。
「…………」
目の前に瑠璃が立っており、皐月に声をかけているようだったが、皐月にその声が聞こえていない。
「えっとね、瑠璃さんは、どうして皐月さんが来たのかって訊いているんですよ」
皐月は人の声が聞こえないことを知っている秋玲が、瑠璃がなにを言っているのかを皐月に説明した。
「えっと、湊が学校が終わったらちょっと稲妻神社に寄るってRineで連絡してきたんだけど、あれから連絡がないからなにかあったんじゃないかって。それにこの大雨じゃ足止め食らってるんじゃないかって思ったんだよ」
皐月はそう秋玲を通して、瑠璃に説明する。
「それから、夜食にどうかなって思って作ってきたのがあるんだけど」
そう言うと、皐月は手提げバッグから紙袋を取り出し、それを秋玲に渡した。
「中を見てもいいですか?」
秋玲にそう訊かれ、皐月はうなずいてみせた。
紙袋の中にはアルミホイルに包まれた物が入っており、それを広げると、コッペパンが半分、縦に沿って切られて、中にホイップクリームが挟まっている。その上表面はチョコでコーディングされていた。九州の人ならば馴染みのある『銀チョコ』という菓子パンである。
「もしかして、パンも自家製?」
「いや、さすがにそこまでやると一日がかりになっちゃうからねぇ」
皐月は苦笑いを浮かべながら、足元に目をやった。
並べられた靴の中に、湊の靴がないことに気付く。
「それはそうと、湊は来てないの? もしかして擦れ違いで帰っちゃった?」
「ううん、まだいるよ。今聖子ちゃんと一緒にお風呂に入ってる。それから忠治さんが迎えに来るようにって、瑠璃さんがさっき連絡してた」
それを聞くと、皐月は瑠璃を一瞥する。
「…………」
「さすがにこの大雨だと、また濡れるだろうと思って迎えをお願いしたって。それに忠治さんもなにか瑠璃さんに聞きたいことがあったみたい」
秋玲が瑠璃の言葉を皐月に口伝する。
「わかった。それじゃぁ晩御飯もこっちですませていいかな?」
そう皐月がたずねると、瑠璃はそれを秋玲に口伝されたかたちで訊かれ、「わかりました」と、うなずいてみせた。




