捌
一人残された松阪は腰を抜かしたかのように、その場で跪いた。
「な、なんでだよ……なんでそんなこと」
「最後のはさすがに言い過ぎたとは思っているけどね。でも彼女がやっていたことは最終的にはそういうことになるの。痴漢を捕まえることは立派なことだけど、それを黙っているからと言って金を強請るというのは立派な脅迫罪になる。それにね、私は乃川光彦は娘がやっていたことを知っていたんじゃないかって考えてる」
葉月の言葉に、大宮と松阪は怪訝な表情で彼女を見やった。
「黒川巡査長……いや葉月ちゃん、それはどういうことだい?」
「今回の事件、被害者が先日の痴漢事件での被告人だったことを知ってから、妙だなと思ったんです。たしかに痴漢をしたということに変わりはないのに、裁判で彼が無罪になったのは、被害者の女子高生が真逆のドアにいたことを証明されたからですよね? あの裁判を担当していた検事……夢蔵はるかがそうテレビで言っていましたから間違いはないと思います。そもそも乃川光彦だって、自分がいた場所を最初から証言すれば、自分の無実を証明することができたはずです。だけど娘にやっていた痴漢行為を目撃している人だっていたはずだから、被害者を騙っていた女子高生の話に、最後の最後まで付き合うことにした。彼女を本当の被害者として捏ち上げるために」
「――……っ! まさか乃川光彦は娘をかばったということか?」
「さすがに、そこまではわかりませんけど……」
葉月は説明を止め、視線を駅の入口に向けた。
そこには岡崎と、横には顔を俯かせている乃川母娘の姿があった。
「岡崎……ご苦労だった」
「いや、それなら例の少年に言ってくれませんか? それと娘さんもいますけどね。なんか同級生と口喧嘩してるみたいですよ」
岡崎の言葉に、大宮は首をかしげる。
それと同時に、パトカーのサイレンが、遠くから近付いてくるや、福嗣駅の前で停まった。
「それじゃぁ、やはり彼女たちが?」
「いや、計画をたてたのは母親の方だろう。娘はそれに便乗した。松阪くんは……巻き込まれたといったほうがいいかもしれないな」
大宮は頭と抱え、そう告げる。
「あ、あの……咲楽はどうなるんですか?」
松阪が怯えた表情で大宮たちにたずねる。
「今回の事件、君たちが父親に気付かず、彼が自ら落ちたとなれば自殺として処理されていただろう。だけど死ぬことを知っていて止めず、ましてや悦に浸っていたとしたら、形は違えどそれは立派な殺人だ。咲楽さんのお母さん、乃川充は、それをわかっていて犯行におよんでいる。あらがた、君のうしろに変装でもして見張っていたんじゃないかな? 君が乃川光彦がいることに気付かないように」
「車の中で母親が殺人の自供に近いことを証言している。ということは確実に彼女は夫を殺す気でいたということだ。ただ娘さんの場合は、今までしてきた痴漢に対する脅迫罪は免れないだろうけど、今回は……」
岡崎はチラリと葉月を一瞥する。
「共犯――ということになるでしょうね。もちろんこのことを知らなかったとしても……ね」
松阪をジッと見つめている葉月の目を見た大宮と岡崎は、ゾッと背筋に悪寒を感じる。
その時に見せた葉月の目は優しいものとは到底かけ離れた程に澱んだ闇に見えたのだ。
「お、俺……なにも、なにも知らなかったんですよ? あいつがそんなこと考えていたなんて……あの時だって、小父さんがいたことに気付いたのは咲楽だけで――」
「言い訳が苦しいぞ。きみは気付いていたんじゃないか?」
「なっ? い、いったい、なにを根拠に?」
岡崎に詰め寄られ、松阪は怪訝な表情で言い返した。
「彼女……乃川咲楽さんから聞いている。きみはあの日、自分のうしろの誰か並んでいることに気付いていた。その人物を見ようとした時、咲楽さんに手を握られ、意識がそちらへと行っている」
「それならば、相手を一瞬見ただけで、その人が咲楽さんの父親だったという確認が、君自信の中でできていなかった」
「お、俺……本当になにも知らなかったんですよ。それにあの晩、小父さんが帰ってきたって聞いた時の咲楽、すごい泣いてたんですよ。あれが嘘だったって云えるんですか? 俺はそうは思わないし、思いたくもないです」
松阪はガタガタと肩を震わせ、嗚咽する。
「……それは間違っていないと思うよ。あの母娘が今回の事件を前々から計画していたとしても、咲楽さんにとってはたった一人の父親だったからね。それに、自分をかばってくれていたことを知っていた。だから――今回の計画をあなたに気付かれないよう、一緒に帰ろうとしたんじゃないかな?」
葉月は、松阪の肩を優しく叩いた。
「乃川光彦はたしかに娘であることを知っていたのに痴漢行為をした。だけどそれを本人ではなく、違う女生徒が彼を捕まえ、あまつさえ脅迫したとなれば、咲楽さんがそのおとりとなっていたことをすぐに気付いたんだと思う。そもそも痴漢をやっていないのなら、連絡先だけ渡して、すぐにその場から離れればいいなんてのはもう昔から言われていることなの。だけど彼はそれをしなかった。正義感が強いとか、自分は無実だったとかじゃない。痴漢で捕まれば十中八九が有罪だって云われているの。だけど彼が捕まったのは、逃げようとしなかったのは、――仲間内で揉め事が起きて、囮になっていた娘の身になにかあるかもしれない。そう思ったから、素直に鉄道警察隊に痴漢容疑で捕まったんだと思う」
「親の心子知らずとはよく言ったものだが、娘はそれを酌んでいたということか」
岡崎の言葉を、葉月はただただうなずくのみだった。
翌日、朝のHR前のことである。
「おっはよう」
福嗣高校二年四組の教室に入った雅は、教室に松阪がいることに気付き、彼のところへと足を向けた。
「おはよう松阪」
「あ、ああ……雅か、おはよう」
雅に声をかけられたことに気付いた松阪は、心ここにあらずといった声色で挨拶を交わした。
その様子を見て、あらがた事情を知っている雅は『さてどうしたものか』と、考えている時だった。
「おい、聞いたかよ。昨日の放課後、駅にパトカー来ててさ、なんかあったのかと思ったら、隣のクラスの乃川が乗せられてるんだよ」
教室に入ってきた男子生徒三名が、教室にいる松阪を一瞥しながら、陰口をしている。
「そういえばあいつ、結構仲間内で痴漢詐欺していたみたいだぜ」
「あぁ聞いてる聞いてる。にしてもさぁ、あれって結構金取れるみたいだな? それにおっさんに触られて、金を奪うって、援助交際でもしてたんじゃないか?」
男子生徒が口を滑らした時である。
「――っ!」
……教室の中に激しい物音が響き渡り、全員が――いや、松阪も、たったひとりを除いては、その音の先に視線を向けた。
「お前ら、好い加減にしねぇとキレるぞ」
地の底から聞こえるほどに悍ましい声が教室の中で、まるでコンサート・ホールのように響きわたる。
「そういうのは本人がいない前でしろ。お前らがどう思おうが、どう言おうが、オレの知ったことじゃねぇけどよ、事情を知らねぇヤツが、いけしゃあしゃあと知ったような口で議論してんじぇねぇ。お前ら高校生だろ? 二年生だろ? この教室で、そのことで一番傷ついてるやつがいるってことくらい、わかってんのか?」
雅がそう、男子生徒たちに詰め寄る。
教室には冷たい空気が流れており、言い寄られた男子生徒たちは、ただただ雅の物言わせぬ威圧に震えが止まらないでいた。
「……ご、ごめんな松阪」
雅の言葉は正しい。そう思ったからこそ、陰口を言っていた男子生徒たちは、松阪を一瞥し、頭を下げた。
「あ、いや、謝ってくれたなら俺は……ッ!」
その当人である松阪は、雅の拳を見るや、ハッとする。
雅の拳は傷ついていた。いや、これは昨夜できたものではない。
先ほど、雅が自分の机を殴った時にできた傷なのだとすぐにわかったが、雅は松阪の身代わりになったのだと思った。
もしかしたら自分が、目の前の同級生を殴っていたかもしれない。
雅は、それを止めてくれたのだ。自分の身体を、昨夜窓ガラスを殴った時にできた傷の上に、また傷を作ったかたちで……。
「ありがとう。雅」
「……んっ、なんのことだ? オレはあいつらがちょっとうるさいこと言ってるなって思って、黙らせただけだぞ?」
雅はそう言うや、外方を向くように自分の机に座り直すと、ハンカチをポケットから取り出し、包帯代わりに傷ついた拳にまいた。
それと同時に、始業ベルが鳴り響き、教室に担任教師が入ってきた。
「ほらぁ、朝のHR始めるぞ……っと、雅、それどうかしたのか?」
「あぁ、これッスか? ちょっと来る途中で野良猫に引っ掛けられましてね」
自転車通学の雅にしては苦しい言い訳だったが、担任はそれ以上は聞かなかった。
「お姉ちゃん……」
薄暗い部屋の中、ポツンと光が灯っており、その下で書類を見ていた女性に、紗姫は怯えた表情で声をかけた。
「まさか、あの事件をあなたたちが解決したなんてね。咲風さんから聞いているわ」
女性……夢蔵はるかは、キッと睨むように妹を見る。その視線に紗姫は思わず肩をすぼめた。
「そんなに怯えなくてもいいのよ。こっちはビックリしてるんだから……だけど、まさかこんなことになるなんてね」
「迷惑だった?」
「迷惑? 終わった事件の被告がどうなろうとしらないけど、真実がわかっただけ良かったと思うわ」
「……真実?」
紗姫がそのことをたずねようとしたが、はるかの物言わせぬ目に怯え、それ以上は聞けなかった。
「ほら、わたしの要件はこれでおしまい。それに今度から始まる裁判の資料をまとめるのに忙しいから」
はるかはそう言いながら、追い払うように手を振った。
「う、うん。ごめんねお姉ちゃん、忙しいのに……」
紗姫はそう言うと、部屋を後にした。
「……まぁ、あんたがいまやろうとしていることが成功することを祈ってあげるわ」
はるかがそうつぶやいた時にはすでに紗姫の姿はなく、彼女はジッと、紗姫がいたドアを見つめる。
――彼が、もし彼がこの事件の被害者だったとしたら……まったく、この事件の犯人は用意周到だったのか、それともただの奇跡的な、九死に一生のことだったのか……
はるかは机の上に置いていた書類に目をやる。
『宿儺幼稚園送迎バス不可解転落事故』というタイトルの書類。
それをはるかは手に取るや、パラパラッと、確認するようにページをめくっていく。
その中に、生存者の名前が記されており、ひとつは『オウノ ミヤビ』というあどけない少年の顔写真。
もうひとつは『ヤマシロ ユキ』という愛くるしい少女の顔写真が掲載された新聞のスクラップが、付箋のように紙に貼られていた。
――この事件、当時はただの転落事故として警察も詳しく捜査をしていないとなれば、生き残った子ども二人は……。
そう考えたが、はるかは頭を振るった。
バカバカしいと。ただの、本当にただの奇跡だと、そう自分に対してのわだかまりを作るように考えていた。




