陸
「あぁ、やっぱりそういうことか」
皐月と毘羯羅が、下校途中の雅と紗姫に会ったその日の晩、湊の顔を見ようと大宮家にやってきていた葉月は、テーブルで項垂れるように頭を抱えていた。
遊火を通して皐月から、今回の、福嗣駅で起きた人身事故に関する意見を耳にしたのである。
「考えとしては間違っていないだろうね。私と岡崎さんも、その乃川光彦っていう人に直接会っていないし、彼が働いていたとされる会社で聴きこみをしたら、すでに、三ヶ月くらい前に自主退社……というかたちで強制退社されていたって同僚の人から証言をもらってる」
なぜ、金曜日に起きた事件の聴きこみが、翌週の月曜日まで伸びてしまったのかというと、乃川光彦が務めている会社が珍しいことに土日休暇を取っており、そのあいだ乃川光彦の同僚から、被害者について聴きこみができなかったのである。
「でも、娘がそれを目撃していることを証言しているし、さすがに娘が自分の親を見間違えるってことはないかな」
大宮はコーヒーを飲みながら、皐月と葉月を見据える。
「あの晩、乃川咲楽さんと松阪耀司くんの安全を確認するためにも、途中まで一緒に帰ったんだけど、もう少し様子を見ればよかったかな」
葉月は、ごめんなさいと大宮に頭を下げた。
「いやいいよ。一人で行動を許してしまった僕にも責任がある。だけど、DNA鑑定のサンプルを用意していたとは思えないな」
「『今の技術だと、喋った時に出る唾だけでも測定できてしまいますから、サンプル自体は大量にあったんじゃないんですか?』」
遊火を通じて、皐月の意見を聞くや、
「そりゃぁ髪の毛は若かろうと吹けていようと、抜けるものは抜けるからね。クシに絡まっていたものでもいいわけだし」
葉月の意見に、大宮はすこし怪訝な表情を見せる。
「他にも使っている人がいるかもしれないのにかい?」
「『いやいや、忠治さん。いくら血の繋がった親でも、男性が使ったクシを使うなんてことしませんよ。髪の毛だったら取ればいいけど、中には雲脂がついていて、せっかくセットしようとしているのに、コーディングした髪の毛に雲脂が付着していたら、見た目も汚くて意味がないですから』」
遊火を通じて、皐月は大宮に言い返した。
「となると、家族別々にクシを持っていたと考えてもおかしくはないか」
『そういうことでしょうね』といった表情で、皐月と葉月はうなずいてみせた。
「ただ、ご家族は乃川光彦さんは事件の後長期の出張に出ていると言っていまして、どこに言ったのかというと、屋久島のほうに取材に行っているとか」
「そこまでなると、広域捜査も視野に入れないといけなくなるな」
うーんと、大宮は腕を組む。
「『そんなのその場しのぎの言い訳にすぎないじゃないんですか? そもそもその遺体は正真正銘、乃川光彦で間違いはないんですから』」
「私も皐月お姉ちゃんと同意見ですね。いくら月さんが薬師如来の従者である月光菩薩だとしても、人間の技術を使ってDNA検査していますから、これで違う人間だったらDNAの結果を疑わないといけなくなりますから」
姉妹にそう言われ、大宮はすこしばかりムッとした表情を浮かべたが、たしかに双子ではない以上、同じ人間の身体から採取されたDNAが一致しないというのはおかしな話になる。
「それはそうと……」
葉月は、自分のうしろ、つまりはソファのほうを一瞥する。
そこには湊がムッとした表情で、テレビのバラエティー番組を見ていた。かと思えば、悩ましい乙女のように(高校生なのだから乙女といえば乙女であるが)憂鬱な表情でためいきをついていた。
「『なんか学校から帰ってきてから、虫の居場所が悪いみたいなんだよ』」
皐月は苦笑を浮かべながら、遊火を通じて葉月に説明する。
「学校でなんかあったのかな?」
「僕としては、あまり刺激しないほうがいいかなと思ってる」
「……育児放棄?」
「いやいや、育児放棄なんてしたら、瑠璃さんになんて言われるかわからないし、最悪説教どころの話じゃなくなるよ。そうじゃなくて、あの子自身からなんかあったのかを言うまでは、気にかけて置いてあげようってのが僕たちの意見だ」
「そうやって子どもだけに解決を押し付けるから、親に相談できない子どもが多くなるんですよ。いじめで自殺する子だって、うつ状態にもひとしい症状で訴えてるのに、それに気付けない親が多いらしいですからね」
葉月は、険しい表情で大宮と皐月を一瞥する。彼女は刑事部に所属するまで、生活安全課の少年事件課に所属していた。
そのため、親に迷惑をかけまいと相談できずにいた子どもが自殺したり、知らないうちに事件に巻き込まれるといった事例を、両手両足では足りないほどに見てきている。
「検討しておくよ。だけど、もし僕が考えていることだとしたら、あまり親が口を出すことじゃないかなって」
「……忠治さんは湊ちゃんの様子わかるの?」
葉月は首をかしげるようにたずねる。
「いや、父親としては勘違いであってほしいかなとは思うんだけどね。あの子が学校に行く時はいつもと同じ様子だったのに、帰ってきてから不貞腐れた態度を取っているし、なにかと情緒不安定なところから察して、同じ学校に通っている男の子のことでなにかあったと思って間違いはないだろう」
大宮の言葉に、葉月と、それを遊火を通じて聞いていた皐月が怪訝な表情を見せた。
「……まぁ、湊ちゃんもそんな年頃かぁ、ってもう高校生なんだし、彼氏がいてもおかしくないかなぁ」
「『そんなの、本人や遊火から聞いたことないんだけど?』」
皐月は遊火を一瞥する。遊火も誰のことだろうかわからず、否定するように首をはげしく振った。
「はぁ……あたし、お風呂入ってくるね。テレビこのままでもいいかな?」
「えっ? うん、このあとニュースがあるし、そのままで大丈夫だよ」
突然そう訊かれ、葉月は思わずそう返事をする。
それを確認するや、湊はソファから腰を上げるや、トボトボとした足取りでリビングを後にした。
その姿を見届けていた、大宮と皐月、葉月と遊火の三人と一匹は、
「もし忠治さんの言っているとおりだったら、あまり口にしないほうがいいかもね」
という葉月の提案に、みな同意した。
「さてと、そろそろ晩飯の準備でもしようかね」
五月一五日午後六時のこと。居間で溜まっていた宿題を済ませしていた雅は、腰を上げると厨房のほうに足を向けた。
「うきゅー……」
その居間から、少女の項垂れた声が聞こえ、雅は怪訝な表情を浮かべ、その少女を一瞥した。――紗姫であった。
「あのさぁ、宿題を見てやるとは言ったけど、このまま晩飯食べるつもりか? いい加減帰らないと親御さんに角が生えるんじゃないか?」
「うーん、それはまぁまだ門限じゃないから大丈夫だし、ここからバス二つ先だから大丈夫ですよ」
紗姫は唇に人差し指を添えるや、不敵な笑顔を浮かべる。
「はいはい。えっとスクブスだからニンニクとか大丈夫かね?」
雅は冷蔵庫を開けると、豚と牛の合挽肉とニンニクにタマネギ、分葱が入った袋を取り出す。そして餃子の皮がパックされたものも一緒に取り出した。
「いや、大丈夫ですけど。というか雅先輩、自分で作るんですか? そういうのって焼くだけのやつがパックで売ってますよね?」
「あー、バイトの給料が入ったら水道光熱費を先に払って、バイトが休みの放課後にタイミングよくタイムセールがあったら大量に一ヶ月分の食料を買うんだよ。だから肉とか野菜に関しては余るくらいあってさ。だからこういうふうに使っていかないと溜まって困るんだよ」
そう説明しながら、調理器具が入った棚からボウルを取り出し、その中に挽き肉とすりおろしたニンニク、そして分葱を入れると、馴染ませるようにタネを作っていく。
「……後は餃子の皮をフライパンの上に敷き詰めて、その上にタネをダバァと入れる。ほんでその上に皮を乗せて蓋をしたら、火を中火にして五分くらい待つ」
雅はそれまでのあいだ、小鍋に水を注ぎ、コンロの上に置いて、ガスを炊く。その水を沸騰させると千切りにしたタマネギを投下し、火が通ったことを確認すると、コンソメスープのもとを入れ、塩コショウで味の調整をする。
そのあいだ、火が片面通った餃子をひっくり返し、弱火でじっくり焼き上げる。
「というわけで、今日の晩飯完成」
雅は大皿に餃子を乗せ、スープはふたつのスープ皿に注がれる。
そして冷凍庫から出して温めなおしたご飯はふたつの茶碗に入れられ、居間のちゃぶ台の上に並べられた。
「えっと、食べていいんですか?」
「そうじゃなかったらふたつも用意しないだろ? それになんだかんだで宿題を頑張っていたしな」
――あぁこの人、人に尽くすの好きなんだろうなぁ。というか困った人を見てると無視できないって言ったほうが正しいのかな?
紗姫はジッと、お茶の用意をしている雅のうしろ姿を見つめる。
――それにしても私の催眠が効いていない男が近くにいるのはどうもなぁ、卑怯技を使って私の囚にさせることは可能といえば可能なんだけど、ちょっと試してみようかな……。
そう考えるやいなや、紗姫の片目は獣のように鋭く澱んだ緋色に染まっていく。
「うし。そろそろ食べるか」
「……っ! ひゃふぅっ?」
突然正面に坐った雅に驚き、紗姫は素っ頓狂な悲鳴をあげた。
「っと、どうかしたのか?」
「い、いや……、音もなく現れるからビックリしちゃって」
紗姫はそう言いいながら、ドキマギとした表情で雅を一瞥した。
「そうか。まぁ変な気を起こさないならいいけど」
そう言うや、雅は気にしていない素振りで食事を始めた。
「あ、紗姫も食べていいから」
「あ、はい……いただきます」
紗姫は両手を合わせ目を瞑ると、「主よ……」と祈りを捧げるような仕草を見せてから食事を始めた。
「それってキリストに感謝を述べるやつだよな? というか一応悪魔なんだろ?」
「悪魔……というのはすこし違いますね。だいぶ昔の、五百年以上前のご先祖様が、なんの酔狂か吉利支丹でありながら悪魔の力を得ようとしたんです。ある日夢に出てきたスクブスに一目惚れし、あろうことかそのスクブスを自分のもとに招き入れたんですよ。しかもそのご先祖様、精力絶倫でそのスクブスを自分の妾にしたのみならず、遊郭の女郎たちをたった半年で全員食らったという伝えがありましてね、遊女だけにあらず、まだ年端もいかない新造や禿まで手を出してしまうほどの暴れ馬ならぬ暴れ種馬。彼の歩いた跡には、股を開いた遊女が何人もいたとのことだったそうです」
「つまり吉利支丹であると同時に、悪魔教でもあるわけか」
吉利支丹で女食いをしているというのはどうなのだろうかと雅は思った。
「そういうことですね。ですので、私の一族は代々悪魔の力を持っているわりに吉利支丹であることが多いんですよ」
「あの日シスターの格好をしていたのも、それが理由か」
「いえいえ、あれはちょっとした刺激ですよ。ただでさえ聖少女として見られているシスターが、胸を強調していて、ただでさえ胸元が開いていれば男なら否が応でもでも見てしまいますよね? そもそも処女なんてのは男の一方的な教育でしかなくて、十九世紀中頃の修道院でも、女の子は胸の大きさを競い合っていたくらいだったそうですから。今と大差ないですよ」
紗姫は自分の胸に手を添えて、自慢気に説明した。
紗姫の話に補足を加えるなら、物の本によると、十九世紀中頃の修道院では、非常に思考が硬直した教育がおこなわれており、修道院に通っていた女生徒たちは、ちいさな天使に相応しい生活をするよう努めなければならなかったのである。(なかば強引的に)
自分の身体に触れないようにするため――どんな手段に訴えても自慰行為をさせないようにすることが、修道女たちの強迫観念であった。
体を洗わないでいることが望ましく、洗うときは、自分の体を見てはならず、また当時の道徳家たちは、彼らにとってなによりも大切な幻想、若い娘は処女であるべきだという、狂った幻想を作り上げることに躍起となっていた。
もっとも、このような考えが少女たちに善い影響を与えたとは言い難く、たとえば徳行賞を受ける少女が、授賞式の朝に自分が処女である証拠を医者に示さなければならなかったにしても、スレた少女はいつの時代にもいるもので、そのような少女たちはクラスメイトのあいだで胸の大きさを競い合っていたと記されている。
「まぁ、私は小学校の頃からそこに関しては自身がありましたからね。ロリ巨乳? 早熟? おおいに結構、ただ男の人に物定めされるような目で凝視されるのはすこしばかりとまどってしまいますが」
「それはいいとして、電話とかしなくていいのか? それを聞かずにこうやって食事をしている時に聞くことじゃないのはわかってるけど」
「うぐぅ……無視ですか? 大丈夫ですよ。そもそも気にもしないでしょうし」
「気にもしない?」
「あのちいさい女の子……毘羯羅とあの女性は言っていましたよね? その子が言っていた通り、私はスクブスの力を持っているにもかかわらず、今の今まで男性を魅了させたことがないんです。あの時だって催眠効果のあるお香を使わないと、騙していたことがバレて、男どもにあーだこーだ……」
「うし、食べた。ごちそうさまっした」
そう話をしていく紗姫を無視するように、雅は食事を終えた。
「いや、雅先輩? 人の恥ずかしい話を無視するってどういう了見ですか? というかいじめですか? 自分から恥辱を喋らせるという名のいじめですか?」
紗姫は怪訝な表情で雅に詰め寄る。
「いやそもそも余計なことまで、喋ってるのは紗姫のほうだからな」
そう雅がツッコミを入れた時だった。
アパートの階段を上がる靴音がかすかに聞こえ、雅はそちらに視線を向けた。
――誰かこっちに来る?
雅の部屋はアパートの二階奥にあるため、足音が長いほどこちらに向かっているということになる。
その足音は、ちょうど、雅の部屋の前で止まると、同時に呼び鈴が鳴り出した。
「夜分遅く失礼します。こちらに紗姫さまはご在宅でしょうか?」
なんとも腰の低い女性の声が聞こえ、雅は紗姫に視線を向ける。
「なんか迎えっぽいのが来てるんだけど?」
「はぁ、多分、咲風さんでしょうね。私の携帯ってGPS機能が付いているから、帰りが遅くなるとこうやって居場所を的確に見つけて迎えに来るんですよ。そりゃぁもう怖いくらいに」
「電源切ればいいだけの話じゃ?」
「そうしても見つかるんですよ」
紗姫は諦めた表情で立ち上がると、鞄を手に持ち、居間を後にする。雅もその後を追った。
「あぁ、こちらにいらっしゃいましたか? お食事は済まされましたか?」
ドアの隙間から、髪が腰まで長く、前髪は左目が隠れるほどに伸びている。メイドの服を着ているというイメージを裏切るように、紺のレディーススーツを来ており、見方によってはキャリアウーマンといった印象のある女性であった。
「お初にお目にかかります桜野雅さま。わたくし、夢蔵武信さまの屋敷で従者をしております古月咲風と申します」
そう言うや、女性――古月咲風はあらたまった姿勢で雅に頭を下げた。
「いやそんな畏まらなくてもいいッスよ。それにしても珍しいッスね、オレの名前を間違えないで言った人なんてそんなにいないッスよ」
「いえいえ、お迎えに上がる家の名前を間違っては、夢蔵家の恥。そうでなくても今、警察に目をつけられているところですから」
「パッ、パパもしかしてまた裏の裏の闇不動産から億ションでも買ったの? 何のために? もしかして女の人の夢に入って子ども妊ませたとか?」
「いえいえ、そんな非道なことはしませんよ。まぁちょっとした罰ですね」
咲風は口角を上げ、悪戯をする少女のような表情で説明する。
「夢蔵……なんかどこかで聞いた覚えがあるなぁとは思っていたんだが、もしかして有名な枕メーカーの『YUMEKURA』か? あなたに天国の安眠を与えるとかっていう謳い文句のCMをよく流してる」
「そこまでご存知だとは思いませんでしたわ。まあ、ちょっとゴタゴタがありまして、実は先日ある方からうちの取引先の男性社員がある夢を見たことで事件を起こし、その罪に苛まれて電車に轢かれて自殺しようとしたという、もう少しまともな嘘を捏ち上げてほしいものです」
「――っ! なぁ、咲風さんだっけ? その事件……もしかして乃川光彦って人のことをいってるんじゃないか?」
雅がそう詰め寄るや、「……えっ? ええ、たしかにその電話先のかたは乃川というかたでした。しかし彼はすでに無実を証明されていますから」と、咲風は驚いた表情で答えた。
「どういうこと? 私もそれが不思議だったのよ。痴漢で捕まったことによって世間から白い目で見られるのは致し方ないとはいえ、自殺するほどのことじゃない気がするのよ。名誉返上|、汚名挽回|すればいいだけじゃない」
「……お嬢様、正しくは名誉挽回、汚名返上ですよ。ただ、わたくしもお嬢様と同じ考えです。旦那さまも乃川光彦さまのまっすぐな仕事ぶりには敬意を表すると、日頃からおっしゃっておりましたから、そのような立派な仕事をされていたかたが、取り憑かれたかのように自らの火を吹き消すでしょうか?」
「そうなると、ますます自殺より他殺の可能性が大きいな……いや、ちょっと待て……皐月さんたちから聞いた話だと、松阪と乃川のうしろに父親は並んでいたのに、気付いたら列車に轢かれていた――」
雅はふと違和感を覚える。そしてハッとした表情で目を見開いた。
「もしかして、別の人間? いや、見てるんだあの二人、いや三人は……自殺しようとしている乃川光彦の最期を……」
物の本=『ドレスの下の歴史』
*見習い遊女である新造は、おおむね十四歳から十六歳の遊女をいいます。当時はこの時点で大人とされていたんですね。禿はその半分(七歳から八、九歳くらいから)だと思っていいですが、普通はどちらも遊ぶことが許されていません。あくまで遊女見習いです。




