壱
『仙狸』
中国から伝わる山猫の妖怪で、日本における猫又の起源とされる妖怪。
歳を経た山猫が神通力を身につけた存在であり、美男美女に化けて人間の精気を吸うとされる。
うっすらとした視界と意識の中で、身体は気怠さを訴えている。
それを識りながらも、少年は、誘われるように前へと進んでいく。
その先になにかがあると、少年は思った。
「若し……」
少女の声が聞こえ、少年はそちらを振り向く。
遠くにアンティーク調のレースカーテンが施された、異国の御伽話に出てくるような、豪華なベッドがあった。
少年は、どうしてそんなところにあるのだろうか……という、至極当たり前のことを考える余裕すら、その惚けた精神では、考えることすらバカバカしいと考えてしまう。
「若し、若し……其処に居られる殿方。此方へ来なんせ」
そのベッドから少女の、消え入りそうに透き通った甘い声が聞こえるや、少年は誘われるように、ベッドへと足を運ぶ。
ベッドの近くに辿り着き、レースカーテンをよくよく見ると、うっすらと少女の……おおよそ高校生くらいの少女が、ベッドの上に座っているのが見えた。
少年は、目の前にいる少女が、この世のものとは思えない美しさだったことに言葉を失う。
「何をしておられるので? 此方に、速う、速う来なんせ。しっかりと顔を見せて下さい」
少女の金糸雀のように澄んだ声が、少年の耳元で唄うように囁いている。
少年はレースカーテンを、それこそ暖簾を押すように裾を捲った。
目の前には、何も着ていない……というわけではないが、そう思えるほどに薄い生地で縫い上げたとしか思えないベビードールを着た少女の姿があった。
顔立ちは幼いが、それとは反比例するように乳房はふっくらとしている。
少女は、少年を優しく手招きする。
それを少年は、なんの迷いもなく、手を差し出し、ベッドの上へと招き入れられる。ちょうど、少年が少女を覆う形となった。
「あぁ、暖かい。殿方の逞しい体温が聞こえるようです」
そう言いながら、少女は、少年の手を自分の乳房に誘う。
柔らかな乳房は、少年が手で乳房を握るに連れ、その形に変形する。
「さぁ、なにも――なにも考えず、ただ心を委ねて、私を甚振って下さい。殿方の思うがまま、本能の赴くままに」
少年の手は、少女の乳房から腹部、腹部から太腿、太腿から……。
「――という夢を今朝見たんだよ」
と、福嗣高校二年四組の教室で、制服を着た少年――松阪耀司が、嘲笑いながら同じクラスの雅と、もう一人のクラスメイトである渡山櫂の二人に話をしていた。
松阪が面白い話があるということで、雅の席で屯していたのだ。
「で、ちょうどいいところで目覚ましが鳴ってさぁ、それで目が覚めたんだよ」
松阪は楽しみにしていたデザートを盗られたかのような表情で、ガックリと肩を落とす。
「お前さぁ、夢で女の子と寝るなんて、欲求不満じゃないのか? ってか彼女がいただろ? ほら隣のクラスにいる……」
渡山は嗤いながらドアのほうに視線を向けた。
ちょうど、その視線の先に、同じく福嗣高校の制服を着た女子生徒が、クラスを覗きこんでいる。
「あ、おはよう」
その視線に気付いたその女子生徒は、雅たち三人に向かって頭を下げる。
「おう、咲楽。どうかしたのか?」
そう呼びかけられた女子生徒……乃川咲楽は手に持った弁当箱を包む袋を掲げながら、
「さっきおばちゃんからメールがあって、今日のお弁当を準備するの忘れてたって。私は購買でパンでも買うから、耀くんに私のお弁当あげるよ」
と、松阪を自分のところへと呼びかけると、松阪はそちらへと歩いて行った。
「はい。耀くん」
「ありがとうな、咲楽」
乃川のお弁当を受け取った松阪は、乃川の頭を撫でる。
「く、くすぐったいよ」
すこしばかり困った声を上げながらも、どことなく綻んだ笑みで乃川は松阪を睨み上げる。
「まったく、母さんも仕事が忙しくて、弁当が作れなかったのはわかるけど。だからって咲楽の弁当を食べさせてやれってのはなぁ」
「お弁当くらい作ってきてあげるよ。私と耀くんの好みって結構近いから」
「お、そうか? それじゃぁちょっと頼むよ。弁当のお金くらいは出すからさ」
「別にお金はいいよ。それじゃぁ明日から作ってあげようか? なんなら、今日もおばちゃん仕事で帰り遅いだろうし、夕食を作ってあげてもいいよ」
「そこまで尽くしてもらうとかえって申し訳ないな。それに俺も野球部で忙しいから」
「……同じ部活なんだから一緒に帰れるよ」
乃川は笑みを浮かべる。松阪はこれを見て、
「可愛いやつめ。いいお嫁さんになるんじゃないか?」
と乃川の額にくちづけした。
「もう、耀くんやめてよ。みんな見てるよ」
乃川は頬を膨らませながらも、まんざらでもない表情で額に手を添える。
「見せつけてやってればいいんだよ。まぁ今日の夕食を楽しみにしてるぜ」
「……他にも期待してるんじゃないの?」
と乃川は小声で訊ねる。
「あぁ、なんならもっと悦ばせてやってもいいんだぞ?」
「変態――だけど大好き」
松阪の言葉を、乃川は貶すように言い返したが、それすら可愛いと思った松阪であった。
「お熱いことで」
雅と渡山のところへ戻ってきた松阪を、渡山がからかうように口を出す。
「別にそんなんじゃねぇよ。まぁこれくらいは恋人ならいいだろ?」
そう話をする松阪は自分の席に坐った。
「あれ?」
渡山は松阪を見ながら首をかしげる。
それと同時に、始業ベルが校内に鳴り響き、雅は黒板の上に設置された時計に目を向ける。『8:30』を示していた。
「っと、雅、それじゃぁまたな」
それに気付いた渡山も、自分の席へと戻っていった。
……雅が友人たちと教室で話をしていた頃より、ちょうど二時間くらい前の、同日午前六時頃のことである。
「あ……ぁ、もう……っ! 遊……火ぃのバ……カァッ!」
と、言葉が途切れ途切れとなっている湊の悲鳴が、彼女の部屋で響きわたっていた。
「バ、バカッて……そこまで言わなくてもいいじゃないですか? いつも六時半に起こしてって湊さまが言いますから、それよりも早くに起こそうとしただけなのにぃっ!」
その遊火は、恩を仇で返されたような湊の言葉に、なにがどうしてこういう仕打ちなのか理解ができず、彼女の穏やかな性格からは想像もできないほど感情的な口調になっている。
「そ……れは……感……謝して……る……よ。いつ……も起こし……てくれてあ……りが……とう。でも……ねぇ、起……きた……途端……に足が……攣……るって……どういう……こと?」
湊は悶絶した表情で、自分の右足に触れようとしたが、ピンッと張った脹脛の激痛に言葉を失う。ようするに腓返りを起こしているのである。
「…………」
湊の声が聞こえずとも、遊火の声は聞こえていた皐月は、娘の部屋から聞こえた遊火の激昂な声で、なにかあったのだと思い部屋をうかがいに来たのだが、傍から見れば他愛もない姉妹の口喧嘩にも見えたため、あきれた表情でこの状況を傍観していた。
「ま、ママさん……た、助……けてっ! 足がお……かしいっ! なん……か、ギターの一……弦を、限……外ギリギ……リまで張っ……たみたい……な傷み……が」
皐月が来ていることに気付いた湊は、母親に救助を求めた。
遊火が今までの状態を皐月に説明をする。
「…………」
皐月は遊火に向かって言葉を発っした。
「『腓返りの時は、ゆっくり爪先を脛のほうに引き上げるように上げるの。その状態で八秒くらいキープしてからゆっくりと爪先を戻して』」
遊火を通じて皐月の言葉を聞きながら、湊は言われた通り、痛みを感じる右足の爪先を脛のほうに引き上げる。
「『それを傷みが引くまで繰り返して』」
皐月はそう言うと、朝食の用意をしていたことを思い出し、後は遊火に任せても大丈夫だろうと思い、自分は台所へと戻っていった。
「朝から元気だねぇ」
皐月が戻ってきたことに気付いた大宮は、リビングのテーブルでモーニングコーヒーを飲みながら、テレビで流れている朝の報道番組を観ていた。
皐月は大宮の目の前で自分の右足を、ちょうど脹脛のところに手を添えながら、苦痛の表情を見せる。
「もしかして、湊は起きた時に腓返りを起こした……と?」
そのジェスチャーの答えに気付いた大宮は、答えるように同じ仕草を見せた。
ジェスチャーが伝わったと理解した皐月は応えるようにうなずく。
「あれって、突然なるから結構痛いんだよなぁ」
大宮は空になったコーヒーカップを掲げる。
皐月はそれに気付くと、テーブルの上に置かれたコーヒーメーカーのフラスコに入ったコーヒーをカップに注ぎ、それを大宮に渡すと台所へと入っていった。
「おはようママさん、パパさん」
あの騒ぎからしばらくして、制服に着替えた湊がリビングに入ると、そう両親に挨拶をする。遊火もそれにならったかたちで大宮と皐月に挨拶をした。
「おはよう湊。今朝から賑やかだね」
父親が笑いながら声をかけるため、自分の悲鳴が聞こえていたのかなと、湊は恥ずかしさのあまりうつむいてしまう。
「あ、そうだ。遊火、ママさんにありがとうって伝えてくれるかな? 言われたとおりにストレッチしたら、傷みが柔らいたって」
そうお願いされ、遊火は台所に立っている皐月のところへと飛んでいった。
湊は父親の前に坐る形でテーブルの椅子に腰を下ろすと、朝食が来るまでのあいだ、点けられているテレビを見ることにした時だった。
「――あれ?」
特に内容自体が気になるニュースがあったというわけではなかったのだが、その時テレビに映っている女性を見るや、首をかしげた。
「どうかしたのか?」
「いやこの夢蔵はるかっていう人、なんでテレビに出てるのかなって」
父親の問いかけに対して、湊はテレビを指さしながら説明する。
テレビではマスコミに囲まれている夢蔵はるかという女性が、
「今回の事件は私のような検事でもわかるように、満員電車の中で起きたことですから、被害者が勘違いしたことも肯けられます。しかしだからといって、彼女の立っていた場所と被疑者が立っていたと思われる場所は到底手が届く範囲ではなく、その証言も多く得ることができました。また被害者を偽って犯人を捏ち上げるというのは、私たちの不甲斐ないばかり。危うく無実の人間を処罰してしまい、真実を嘲笑う犯人を野放しにするところでした」
……と説明していた。
「あぁ、彼女は最近人気の美人検事らしくてね。モデル並みの容姿だから、彼女を見たいがために裁判の傍聴席が常に満席らしいよ」
湊はふーんと、興味のないような声で相槌を打つ。
「パパさん、あたしは今来たばかりだからわからないんだけど、これってなんの事件だったの?」
「えっと、たしか満員電車の車内で痴漢行為をして捕まった男性の裁判が報道されていたんだ。男性の名前は出ていなかったけど、四十代後半の人で、被害者……この事件の真犯人はちょうど湊と同じくらいだったよ」
それを聞くや、湊ははてなと首をかしげる。
「どうかしたのかい?」
被害者が同い年だったため、すこしばかり青褪めた表情を浮かべるだろうと想っていた大宮は、娘の意外な反応を見て、逆に戸惑ってしまう。
「いや、痴漢をしたことは悪いことだけど、別に悪いことをしてないなら無視して離れればいいのになぁって思って。それになんで子どもならわかるけど、大人なのに犯人の名前が出てなかったの?」
「それはさっき出ていたその夢蔵はるかという検事も言っていたことだけどね、いくら悪いことをしたとしても、彼の今後の人生のために名前を伏せるというのはせめてもの救いなんだよ。まぁこんなことをしても、周りの噂で気付く人のほうが多いだろうね」
大宮はコーヒーを一口飲んで喉を潤してから、
「昔いじめで自殺をした少年が訴えていた同級生の名前がテレビでは報道されなかったけど、地元やその学校では誰がやっていたのかというのはわかっていたらしいよ」
と説明した。
「忠治さま、警察のほうで犯人の名前とか調べられないんですか?」
遊火がそうたずねると、大宮は苦笑いを浮かべた。
「いくらなんでも僕がいる刑事捜査一課が担当する事件と関係あることじゃない以上はそんなことできないよ。それに電車の中で起きた事件は基本的に鉄道警察隊のほうで処理されるんだ。それに僕が所属している部所は殺人事件を担当している強行班だからね。電車の中で人が死ぬような人身事故でも起きない限りはお呼びはかからないさ。まぁ、あっても困るけど」
そう説明された湊だったが、特に、その事件自体に興味が有るわけではなかった。
ただ、テレビのモニターを通して見た夢蔵はるかという検事が、妙に人とは思えない美貌だったからだ。
これは嫉妬によるものではなく、湊がどことなく、そう思ったからに過ぎなかった。




