参
時間はすこし遡って、嵜本彩奈と思われる遺体の検視が終了し、刑事部の一角で、大宮班と鑑識課である月が集まっての捜査会議を行っている最中だった。
「死因は――心臓麻痺?」
意外な検視結果に、大宮たちは月を凝視する。
「ええ。黒川巡査長の言う通り、胸に極細の針が刺さっていたのはたしかね。その針の先に毒らしくものが塗られていたわけだけど」
月は頭を抱える。
「どうかしたんですか?」
「いや、どう説明したらいいものか。死亡推定時刻は四月二十日の午後七時から九時のあいだだというのは、皆わかるわよね?」
そう訊かれ、大宮たちはうなずいてみせる。
「死後二時間も経っていれば、死体硬直もあっていいはずなのだけど」
「もしかして、それがなかった?」
「いや違うわね。遺体っていうのは身体の全機能が動かない状態よね? もちろん心臓もなにもかもが止まった状態」
「そうじゃなければ遺体とは云えませんが、いったいどういうことですか?」
痺れを切らした飯塚が、詰め寄るように月を睨んだ。
「あなたたち、食事をした時、どれほどの早さで胃の中のものが消化されると思う?」
「えっと、たしか二時間くらい……」
葉月がそれを言った時である。
「ちょ、ちょっと待ってくれ? 月さん、もしかしたらだけど――胃の中にまだそれが残っていたってことですか?」
岡崎が目を見開き、震えた表情で月を一瞥した。
「その逆よ」
「――逆?」
月の意外な返答に、大宮たちはギョッとした。
「まさか、なにもなかったってわけじゃ」
飯塚の問いかけに、月は応えるようにうなずく。
「いい? 司法解剖のさい、胃の中を確認するのは被害者がいつ食事をしたのかを調べるため。つまり胃の中にそれが残っていたとすれば、死亡推定時刻と食事をしたと思われる時間を割り出せばいい」
「胃が正常に動いていれば、消化されているはずですからね」
葉月がそう言うと、月は「そうね」と応えた。
生き物が死亡した場合、もしくはそれ同等のショックが起きた場合において、臓器の機能が一時的に停止するからだ。
「ということは、被害者は既に食事を済ませていたと言うんですか?」
「とは限りませんね。目撃証言では四月二十日の二十時二十分。店を出たのはあのレシートに書いてあった二一時三四分からすこし経った二一時四十分前後、そして嵜本彩奈と思われる遺体が発見されたのはそれからしばらく経った午後十時前後……仮にあの遺体が嵜本彩奈だとして、彼女が食事をしたのなら死亡推定時刻ではまだ胃の中の消化はされていないはずだから」
「食事をしていなかったという考えはどうでしょうかね? ちょっと無理がありますけど」
大宮がそう言った時だった。
「食事をしていなかった……黒川巡査長、岡崎巡査部長。そちらはどうでしたか?」
月にそう訊かれ、葉月は皆を見ながら、
「店員の話では、男性の方は食事をしていたそうですが、女性――嵜本彩奈の方はあまり口にしていなかったそうです」
と報告した。
「それから、これは別の事件でのことだから、あまり関係のないことかもしれないが……」
岡崎が口籠るように言った。
「関係のないことならそれで構わない。だけど言いたいことがあるのなら言ったほうがいいよ。もしかしたら関係があることかもしれないからね」
と大宮が優しく問いかける。
「ほら、以前水妹慶太に殺された水槌杏子の下着と思われるブラジャーが見つかったことは、葉月ちゃん以外は知っているな」
岡崎からそう訊かれ、葉月以外の皆がうなずいてみせる。
「そのブラジャーのメーカーなんだが、もしかしたら『Vierge』……『ヴィエルジェ』って読むんじゃないだろうか」
「ヴィエルジェ――フランス語で『処女』って意味だけど……ですが、それはただの偶然では? 若い人には人気のあるブランド名ですし」
納得のいかない表情で飯塚は聞き返した。
「ですが、今回の事件でも被害者の連絡手段は絶たれています。先日の事件と関係がないとは――言い切れませんね」
「その線もすこし調べる必要があるな。それからもうひとつ。岡崎、君が昨夜言っていたことだけど、被害者の妹の名前は?」
大宮が、至極真面目な表情でたずねる。
それを見るや、葉月と月以外、つまりは岡崎と飯塚が、
「…………えっ?」
と言った、呆然とした表情で大宮を見返したのである。
「えっと……あれ? 僕はなにか間違ったことを言ったのかな?」
二人の態度を見るや、大宮は怪訝な表情を浮かべた。
「いや、間違ったとか以前に、お前は……あ、いや、警部補はテレビとか普段ご覧になられていらっしゃるんですか?」
若干素が出ていた岡崎の問いかけに、大宮は考える素振りを見せた。
「そういえば、あまり見ないなぁ。見てもニュースと、妻がたまに見てるCS放送の時代劇とF1中継くらいだよ」
大宮が家でのテレビ事情を言った。
「皐月お姉ちゃん、結婚して湊ちゃんが産まれても、テレビの趣味が今までと対して変わっていない気が」
皐月の妹である葉月は、実家である稲妻神社に住んでいた時のことを思い出すや、呆れた表情を浮かべてしまった。
「でも皐月お姉ちゃん、人の声が聴こえないはずだけど」
「それなら大丈夫。今のテレビは字幕入りがほとんどだから、それを見て内容を把握してるみたいだよ」
それを聞いて、葉月は「……なるほど」と納得した。
「あの、そろそろよろしいでしょうか?」
飯塚にそう呼びかけられ、大宮と葉月は彼女たちのほうに視線を向けた。
「――嵜本文夏。ニューヨークでファッションモデルをやっているそうだ。姉妹の見分け方は、姉の彩奈には右目に泣きぼくろ。妹の文夏には左目に泣きぼくろがうっすらとあるってところだな。それ以外は本当に見分けがつかないらしい」
頭を抱えながらも、岡崎は説明する。
「その嵜本文夏を、岡崎はテレビで見たんだろ?」
「海外の有名なファッションショーに出ていたらしいですね。だけどNYからこっちまで結構時間がかかりますし、彼女がこちらに来ていたとすれば、話題になっているはずです」
「ということは、やはりあの死体は嵜本彩奈のもので間違いはないんじゃ?」
飯塚がそう言うと、葉月は不服な表情で、
「とは限らないと思います。だって私たちはまだ誰も……嵜本彩奈本人に会ったことがないわけですから」
と述べた。
「たしかにそれはそうだけど……あのね、いくら警察でも有名人に会うなんてこと滅多にないのよ? もし遺体が嵜本彩奈だとしたら、大問題になっているんじゃ…………」
飯塚はそこまでいうや、葉月がなにを言いたかったのがわかり、アッと口を開いた。
遺体が発見されてから、既に半日以上が経過している。
警察は遺体の身元が完璧に割り出せていないため、その発表を止めている。
しかし、考えてもみれば、殺された嵜本彩奈は有名会社の社長である。
その社長が死んだ、もしくは連絡がとれないで行方をくらませたとなれば、なにか、会社側から大きなアクションが起きていてもおかしくないのだ。
「今朝のワイドショーでもあまりその話をしませんでしたよね?」
「たしかにしていないな……ということは」
「――あの遺体、もしかすると妹のほうとも取れるし、姉のほうとも取れる」
葉月はおぞましいものを見るかのように、遺体の写真を凝視すると、その写真に手をかざした。
「…………っ」
葉月は片眉をしかめるように、写真を睨んだ。
「……昔みたいに、死んだ人が聞いた音が聴こえればって思った?」
写真を見ている葉月の耳元で、月がそう囁くと、葉月はちいさく、だがハッキリとした態度で首を横に振った。
「それができれば苦労はしないだろうけど……警察になってからはあの力は卑怯だったんだなって思った。皆の手助けになればって思ってあまり気にはしていなかったけど」
「そうね。死んだ人が聞いた音なんて聞こえたら、いつ殺されて、誰と一緒にいたなんてすぐにわかっちゃうもの」
「だから、この人がいったいなにもので……」
葉月は言葉を詰まらせる。
そして写真をジッと、見つめ続けた。
写真に映る遺体の目元に、薄い黒点が見えたのだ。
「――もしかして……月さん、遺体の化粧は落としたんですか?」
「化粧? そういえば落としてなかったわね」
「司法解剖するのだから、化粧を落とす必要はないでしょ?」
飯塚が呆れた表情で葉月に言った。
「大宮警部補、警部補のお母さんである葵さんにちょっと聞いてもらっていいでしょうか?」
葉月は飯塚の言葉に目もくれず、まっすぐに大宮を見る。
「母さんに? 葉月ちゃ……いや、黒川巡査長、どうかしたのかい?」
「遺体の写真に、うっすらと――凝視しないとわからないほどに薄い黒子が、左目にありました」
それを聞くやいなや、葉月以外の全員がパッと遺体の写真を凝視する。
葉月の言う通り、遺体の左目元にうっすらと黒点があった。
「それじゃぁこの遺体は……妹の嵜本文夏?」
仰天としている岡崎と飯塚の二人とは対照的に、葉月は冷静だった。
――まさかとは思うけど、もしかしたら逆だっていう可能性だって否定ができない。
葉月がそう思ったのは、殺された嵜本彩奈と嵜本文夏が双子だという点だ。
赤の他人が、泣きぼくろの位置だけで姉妹の見分けをしても、結局はどちらも正解で、どちらもはずれと言っているようなものである。
たとえるなら、ババ抜きの最後に、二枚のカードがあって、そのうちの一枚がババ。つまりははずれということと同じだ。
カードを引く側から見れば、カードは裏になっているので正解がわからない。
正解を知っているのは、カードを持っているほうなのだから。
この場合、そのカードを持っているのは嵜本彩奈と嵜本文香である。
――もしかすると、私たちが思っていたこととは逆なのかも。
という疑心暗鬼を生じたが、それでは考えの深みにハマってしまう。
葉月はふと、自分が警官になる前に、祖父である黒川拓蔵から言われたことを思い出した。
――もし自分の考えに不安があるのなら、最初に疑問を感じたことを疑い、それを突き進めば、自ずと道が拓くじゃろうて。
最初に疑問を感じたこと……。
葉月はハッとし、遺体の写真をふたたび凝視する。
最初に、この遺体を見て疑問に思ったこと。
それは遺体に施された化粧だ。
もし、これがファッションモデルである妹の嵜本文夏だとすれば、なにもわざわざ、自分と姉を見分けるための泣きぼくろを消さなくてもいい。
葉月は、写真に映る遺体が唯一の手がかりを消す必要があったのだろうと感じた。
殺された嵜本彩奈と嵜本文香。
そのどちらとも取れる遺体の唯一手がかりとなる黒点を消す必要が、彼女を殺した犯人にはあったのだろうと――――。




