弐
福嗣高校の校舎からすこし離れた場所に部活棟がある。
その四階には防音設備された部屋があり、そこで吹奏楽部の練習が行われていた。
「ほら、今度の発表会まであまり時間がないんだから、自己練くらいはしなさい。特に一年生は全体の音と合わせて。自己主張は結構だけど、バランスが悪くなったら元も子もないわ」
と部長である忍野愛空という、三年の女生徒がタスクを手で叩きながら部員たちに指示を与えていく。
部員である大宮湊は、トランペットのピストンに乗せている右手の人差し指、中指、薬指を起用に動かすが、その時マウスピースに唇は添えておらず、自分の唇を窄めている。
「なにをやっているのかしら? 大宮さん」
その様子を、忍野が怪訝な表情でたずねる。
「いや、ちょっと運指の確認を」
湊は苦笑いを浮かべながら説明する。
「たしかにこの曲はトランペットソロから始まるけど、だからといって、一年生のあなたが気張ることじゃないわよ」
忍野の言葉に、湊以外の部員たちはドッと笑い出した。
湊は笑われていることに不服な表情を浮かべながら、楽譜台に置かれた譜面を見下ろす。グスタフ・マーラーの行進曲第五番第一楽章『葬送行進曲』である。
「まぁ、この曲はちょっとした余興でやるだけだから。今度の定例会に向けて練習するのは『トランペット吹きの休日』。それじゃぁパートごとに分けた譜面を渡すから、一年生はよく見て音をイメージして」
そう言うと、忍野は各パートごとに分けた譜面を、それぞれの楽器を持った一年部員に渡していく。
「とりあえず、全体がどんな感じなのか……二年と三年――構えて」
そう指示を出すやいなや、一年以外の部員たちは、ビシッと背筋を伸ばし、楽器を構えた。
それを見て、まだ日が浅い一年からすれば、ゾッとするほどに悍ましくも美しい構えだった。
吹奏楽は、なにも学校の体育館や、市町内の音楽ホールで演奏をしたり、大会に出るというだけではない。
野球やサッカーなどの試合でも、応援を盛り上げるBGMの演奏をする。
彼らの士気を高めるため、炎天下の中、ただでさえ体力が必要な演奏を、そのイニングだけとはいえ、二時間以上はやっているのだ。
それこそまさに、演奏とは名ばかりの、戦闘態勢であった。
…………それから二時間の部活動は終了した。
唇を窄めながら、湊はトランペットのホーンの真下にあるスイッチを押しながら、管に溜まっている唾を取り出すと、楽器を分解して中の掃除をはじめた。
他の、一年生たちは楽器を片付けるだけで、そそくさと部室をあとにしていく。
「み、湊さま? なにをされてるんですか?」
さきほどから唇を窄めている湊を見下ろしながら、部活を見学していた遊火が不思議そうにたずねる。
よくよくそれに耳をかたむけていると、先ほどまで練習していた曲であることに遊日は気付いた。
「大宮さん、ちょっといいかしら?」
忍野は、湊の方を見る。湊はちょうど掃除を済ませ、楽器をケースに直すところだった。
「なんですか? 部長」
「さっきから見ていて思ったのだけど、あなたどうしてトロンボーンにしなかったの?」
そう訊かれ、はてなと湊は首をかしげた。
「いや、なんか不思議そうな顔しているけど、あなた結構音感のセンスはいいと思うわよ」
「そうですかね? まぁ中学の時からトランペットをやっていたので、慣れてるとしか」
――本当はトロンボーンだと低音じゃ手が届かないのと、音階がわからなくなるからなんですけどね。
遊火のつぶやきが聞こえ、湊は彼女の方を睨むように一瞥した。
「どうかしたの?」
「あ、いえ……なんでもないです」
湊はゆっくりとケースを手に持ち、
「他になにかいうことがないのでしたら、今日はこれで」
と、忍野に向かって頭を下げた。
「そうね――それじゃぁまた明日」
「はい、また明日の放課後に」
そう挨拶を交わし、湊は部屋を後にした。
「あぁ、ビックリしたぁ」
先ほどまでいた部室を背にしながら、湊は階段を降りていく。
「遊火ぃ…………」
湊はキッと遊火を睨んだ。
「たしかにトロンボーンだと音感がないと難しいのはわかってるけど、届かないからじゃないからね。トランペットだって押さえる場所や息の強さになれるたのって、一週間くらいかかったんだからね」
と、文句を言いながら、湊はスマホを取り出す。
「えっと、『部活終わったよ』っと……」
通話アプリである『Rine』のチャット機能を使って、母親である皐月に送った。
しばらくして『了解。晩御飯なにがいい?』という返事。
それを見て、湊はスマホの右上の端……時刻の方を一瞥すると、十八時をすこし回っていた。
「そうだなぁ……『今日パパさんは速いの?』っと」
その返答をしたすぐに、『事件があったみたいだから、当分遅いね』という母親からの返事。
「『それじゃぁ、たまには瑠璃さんの手料理食べたいね』」
その返信を打ち込んだ時、突然、湊と皐月しかいないチャット一覧の画面上に、別の返答があった。
『別に来るのは構いませんけど、あまり良い物は出せませんよ』
という返信だった。
「『……瑠璃さん?』」
そう返信をするや、
『ひいおばあちゃんと思った? 残念聖子ちゃんでした』
という返信だった。
相手が瑠璃ではなく、聖子だということに湊は唖然とする。
『バカなことやってないの。まぁ久しぶりに稲妻神社に行くのも悪くないね』
そう返信をする皐月のあきれた表情が目に浮かび、湊は思わず吹き出してしまった。
「『それじゃぁ、このまま稲妻神社に行くね』」
『ママさんは料理の準備をして、パパさんに稲妻神社にいるって連絡をしてから出かけるから、大体七時くらいになるかも』
という皐月からの返信。それを見て湊は思わず、いつまで経ってもバカップルだなぁと思ったが、それに対しては返信しなかった。
別に料理を準備しなくても、直接稲妻神社に来るように連絡すればいいんじゃないかと湊は思ったが、それでもいつも遅く帰ってくる夫を待っている母親を見ているので、茶々を入れることが烏滸がましいと思った。
それから十分ほど経ってのことだった。
「瑠璃さん、聖子おばちゃん、白ねぇ。こんばんは」
稲妻神社の母屋の玄関で、湊の声が響き渡る。
「あぁ、いらっしゃい。聖子から聞いていますよ」
居間の方角から姿を見せたのは割烹着姿の瑠璃であった。
「瑠璃さん、なんの料理してるの?」
「そうですね。とりあえずチキン南蛮作ってますけど」
それを聞くや、湊は呆れたとも唖然とも言いがたい不思議な表情で、
「それでとりあえずなんだ……」
と聞き返してしまった。
「そんなに難しいものではないと思いますけどね。鶏の空揚げを作って、それを甘酢に絡めて、タルタルソースをかけるだけですから」
普段、それこそ二十年以上は台所に立って料理をしているため、然程疑問に思ったことのなかった瑠璃は、首をかしげる。
「あははは……」
湊が苦笑を浮かべつつも、靴を脱ぎ、そのまま居間に入ろうとした時だった。
「……湊――」
瑠璃に声をかけられ、湊はそちらを一瞥する。
その口調には、どこか鋭い棘のようなものがあった。
「普段、家でどんな靴の脱ぎ方をしているかは訊きませんが、いくら母親の実家だからといって、靴をおろそかに脱ぎ捨てては、玄関の見た目が悪くなります」
そう言われ、湊は上がり框の方へと足を向けるや、自分が脱いだ靴を綺麗に、爪先を玄関の方へと向けるようにして、隅に置き直した。
それを確認すると、瑠璃は湊の頭をなでる。
湊がそちらに振り向くと、そこには瑠璃の柔らかな表情が目に入った。
「玄関は人だけじゃなく、家を守ってくれる神仏の入り口でもあります。あなただって玄関が汚かったら、その家に入ることを躊躇しますよね?」
瑠璃は優しく湊に言い聞かせる。それを見て、あぁやっぱり、母親はこの人に育てられてるんだなと湊は思った。
普段は優しいが、しつける時は厳しくハッキリと叱ってくれる。
そしてどこが悪いのかを遊火が口伝するように云ってくれるので、高校生になった今でも、湊は母親である皐月を心の底から嫌いになったことがあまりなかった。
「湊、たしかあなた高校でも吹奏楽部でしたよね?」
「えっと、そうですけど?」
「それじゃぁ、トランペットの吹き過ぎで喉も痛いでしょう。ちょっと居間で寛いでいてください。たしか喉にいい漢方薬があったはずですから……」
楽しそうに話す瑠璃を見て、老婆心ってこういうことなんだなと思い、ちいさく吹き出してしまった。




